堀河院跡… | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。


こんにちは!

2月10.11.12日の三連休は
10日は仕事、12日は「バケモノの子」
11日が空いていたので、
京都へドライブしてきました。

まずはモーニングを食べてから
活動開始です。

今日の京のモーニングは

「マスサンコーヒーショップ」

京都府京都市中京区押堀町40

二条城の元離宮二条城東南隅櫓前です。









モーニングで750円はありがたいです。

(支払いは現金のみ)


コーヒーも苦味が強いですけれど、

味わいがあり、美味しかった。

この食事とならばカフェオレでなくっても良かったかな。

次回はブラックにしようかな。


パンはキメが細かくって、あまり食べたことがない食感の

パンでした。

断面図を見てもらうスパッとした切り口だと思うのですけれど

固いかな?と思ったけれど、

外はサクサク、中はもっちりで

私は好きな食パンでした飛び出すハート満足飛び出すハート



食後は「東三条院跡」という

史跡を探すのが目的なんです。

「光る君へ」で兼家の家が「東三条院」と言って

いたので、そこを探します。

因みに公任さんは「四条」と言っていて

後に「四条大納言公任)と言われるんですね。


その前に…


「堀河院跡」を発見。

👇








案内板によると…


北を二条大路(二条通)、南を三条坊門小路(御池通)、

東を油小路、西を堀川小路(堀川通)によって画された

東西約120m、南北を約250m」の地が「左京三条二坊

九・十町」である


堀河院は、太政大臣藤原基経(831〜891)の邸宅で、

平安京の中でも最高の邸宅として知られていました。

左京三条二坊九。十町に当たります。


平安時代前期ここには藤原氏隆盛の端緒を開いた

関白太政大臣藤原基経(836年〜91年)邸宅である

堀河院が所在した。


基経の後も、この邸はその子孫の左大臣藤原仲平、

関白太政大臣藤原兼通、左大臣藤原顕光などに

受け継がれ、平安京における最高級の邸宅として

知られていた。

堀川院の東にも閑院、東三条殿という藤原摂関家に

関わる大邸宅が存在した。


貞元元年(976年)に内裏が炎上した際、

円融天皇はこの堀河院に移り、それは

「今内裏」と呼ばれ、里内裏の初例となった。

天皇は上皇となった後も、

しばしばここを御所としている。


堀河院が最も脚光を浴びたのは、

堀河天皇の里内裏の時である。

同天皇は嘉永2年(1107年)に崩御するまで

生涯に多くをここで過ごした。

堀河院は嘉保元年(1094年)に焼失したが、

長治元年(1104年)には美麗に再建されている。


堀河院跡の発掘調査では、邸宅の中央部にいくつもの

池があり、そこには高さ1mの石組の滝が備えられ、

数多くの景観を作り上げていたことが判明している


👆とありました。


京都堀川音楽高等学校門前👇










現在の御所との位置関係では





「光る君へ」の中で道長が公任の邸宅 

四条から帰って来たとあり、

「東三条」とか言ってたので

どんなかと思っていましたが

御所に近くかなりの高級重要な

邸宅だったということが

わかります。



※堀河院は碑にもあるように太政大臣藤原基経(831年)の

邸宅で、平安京の中でも最高の邸宅として知られていますが、

堀河院の名前の由来は、堀川に面して開いた西門を

正門としてことによるそうです。


元々を遡ると基経の祖父冬嗣の邸宅、

閑院の西あった

とされています。


基経は重要な儀式をこの邸宅で行い、

宴会などが催された時などには

公卿たちは牛車で参集したとされさぞや

賑やかだったのだと思います。

その後はひ孫の兼通に伝領、改修され、

(兼通は光る君への兼家の同母次兄です)


976年に内裏が焼失した際には当時円融天皇の御代で、

円融天皇は堀河院に「里内裏」されているそうです。

「里内裏」の初例です

当時の中宮は藤原兼通の中宮

藤原媓子」だったから

です。


「光る君へ」では円融天皇の入内した女御たちの

争いで、「遵子」と「詮子」で「遵子」を中宮に

したということになっていて兼家の娘「詮子」が

皇子を授かっていても中宮になれなかったと

話がありましたが

実はその前に兼通の娘「藤原媓子」を

中宮にしていたのです。

円融天皇は一代限りの天皇として立てられた

天皇とされていたので、誰も入内させたがらずに

いたのですが、当時としては遅い

27歳で入内(973年)に

女御となり、その後中宮に冊立したのです。

円融天皇より12歳も年上でしたが

夫婦仲は睦まじながらも、

子女には恵まれませんでした。

外祖父である兼通も入内後(977年)

兼通が薨去し、

中宮も(979年)33歳で崩御されてしまったのです。


崩御される前年には藤原遵子が入内、 

引き続き詮子が入内となったということですね。


また、花山天皇へ円融天皇が譲位された後も

ここを「堀河殿」

を院御所とされているそうです。



こんなこともあるそうです。


円融天皇の(父は村上天皇)、

同母(藤原安子)妹に

選子内親王がいらっしゃいますが、

選子さんが生まれて5日目に安子さんが

産褥死されてしまったそうで、

安子さんの兄である兼通・昭子女王

(昭子女王は陽成天皇の

 第三皇子元平親王の娘である)

が引き取り、堀川殿で育てられたそうです。


まだ円融天皇にとっては一代限り(中継ぎ)

の天皇と

されて危うい立場ながらも兼通は娘媓子を

入内させ、また選子内親王をも面倒みてくれ

たということもあり、円融天皇とは厚い

信頼関係で結ばれていたのではないかと

思います。


この👆の地図からだと 

「御金神社」を通って

「東三条邸跡」の碑を探しに行きました。



続く…