但馬と豊岡城址… | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。

おはようございます☀️

週末は晴れ☀️てくれて、

お出かけしてきました。

兵庫は豊岡です。


でも、兵庫でも豊岡の方は少し雲か

多かったです💦








コウノトリと共に生きる豊岡


https://www.ja-tajima.or.jp/tajimanma/


今日のお目当ては…


https://www.ja-tajima.or.jp/tokusan/yasai/corn.html


早速帰って蒸して食べたのですが、

プチプチ感が強く、甘かったです。

あっと言う間になくなってしまって💦

写真撮るの忘れた〜

蟹を食べるときも無言ですが、とうもろこしも

こんなに無言で食べてしまうのかとびっくり‼️

しました。



最近は、なかなか早くに起きれなかって

出足が遅れるので、あまり遠くに行けずに

います。



この後に、「豊岡城址」に行ってきました。


神武山(標高50m)に築かれた丘城です。

別名は亀城・木崎城・城崎城とも

言われています。

現在は、豊岡城跡一帯は神武山公園として

整備されています。




私が見つけた限りでは2箇所登ることができる

入口を見つけたのですけれど、

よくわからなかったので

豊岡市立図書館の駐車場の横の入り口の横から

入って登ってきました。




目の前の紅い百日紅の木に

沢山の蜂がいて🐝少し怖かったのですが、

潜っていってきました。


さて、緑の木々の中へ行ってきます。








階段が整備されているので

上りやすかったです。

でも前日の雨で枯葉が湿っていたりして

滑りやすかったので帰り道は気をつけました。






途中神武山配水池といのがあり、

豊岡出身の実業家である中江種造は鉱山事業で

得た財産で豊岡の上水道建設に出資して

整備して1922年(大正11年)3月には

上水道を完成させたそうです。






さらにその上に行くと










説明板によると


15世紀頃、九日市に守護所を置く但馬守護山名宗全がこの山に

築城、被官垣屋氏に守らせたという。

戦国末期、垣屋氏が事実上の但馬実力者となるに及ぶ。

この城(当時は城崎城と呼んだ)は但馬支配の中心拠点と

なった。天正8年(1580年)、羽柴勢の但馬占領によって

旗下宮部善祥房が入場、木下助兵衛尉、明石幹与四郎、

福原右馬之助と続き慶長2年(1597年)杉原良房に

至った。

承応2年(1653年)、杉原断絶により城は破却された

と見られるが、本丸、萩の丸、笠の丸の他、天守台など

の遺構が残された。

寛文8年(1668年)、京極氏代に入ると、城山は

城郭遺構を保持したまま陣屋及び城下町の

象徴となった。

豊岡城こそは、豊岡市の中世・近世における

歴史的原点である。









あっと言う間に登れましたが、


木々の間からとてもひんやりした風が吹いて

きてくれて癒されました。



人とすれ違わなかったので、

マスクを外して、胸を膨らませて

思いっきり空気をすって帰ってきました。





説明板に付け加えると


慶長2(1597年)に入封した長房は

「関ヶ原の戦い」では西軍に与して丹後国

田辺城を攻撃したけれど、戦後

舅の浅野長政の請願で罪を許された杉原家は

存続しました。

しかし、承応2年(1653年)、杉原重元が嗣子

無く死去した為に、(改易となりその後天領地で

城自体は廃城)

寛文8年(1668年)京極高盛が丹後国田辺から

入封し、京極氏が明治維新まで在城しました。

京極氏は無城大名のため、山麓に陣屋を置き、

藩制を行いました。

図書館建設に伴う発掘調査で江戸時代の建物跡などが

見つかっています。

現在、図書館の正門として使用されているのは

旧豊岡県庁の正門で明治3年(1870年)に建てられた

物です。





この図書館の前には


こんな立て看板があり

👇






大石陸女生誕地



説明板によると


大石りく夫人と豊岡藩家老石束家


赤穂藩士の首領大石良雄の夫人りく女は、

寛文9年(1669年)豊岡京極家の家老・石束源五衛毎公

(つねとも)の長女に生まれた。

その生家石束家の場所、この一帯である。

りく女は天性賢明にして貞淑、年19歳で赤穂浅野家家老・

大石家に嫁いだ。

赤穂藩の大難後、夫良雄に仇討の謀成るや、長男主税を残して

山科より一男二女を連れて豊岡に帰り、夫に後顧の憂なからしめ

、父と共に日撫正福寺に住んだ。

義士が本懐を遂げた後は、剃髪をて香林院と称し、

ひたすら夫や長男や義士たちの冥福を祈った。

やがて、帰豊後生まれた代三郎が長じて広島浅野侯の仕える

に及んで彼の地に移り住み二十有余年仏恩報謝に生き、

元文元年(1736年)11月、68歳を以って死去。

その地国泰寺に葬られ、ここ豊岡の正福寺には

遺髪を埋葬した。



思わぬところで大石りく女の生誕地に触れられました。



これから昼食しに、「出石そば」食べに行ってきます。



この城跡から車で30分くらいです。



だんだん、雲もなくなり晴れてきています。