鎌倉殿の13人…第27話 | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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第27話「鎌倉殿と13人」


権力継承の時は

あまりにも突然訪れた。

頼朝亡き後の大きな空白。

若き頼家はそれを

埋めることができるのか。


「鎌倉殿13人」ではなく、今回は「鎌倉殿13人」になりました。


「鎌倉殿」の決意文


「私は父、頼朝の成し遂げてきたこと、

 また成し遂げることかなわなかったことを引き継ぐ。

 その上で、父を超える」


立派になってと思ったり、気負いすぎと思っていたけれど

これも後からわかったけれど、梶原景時が

指南していたのですね。


また、最初に政子と義時から「源義朝の髑髏」を渡されて、

髑髏を見てもびっくりしないのが不思議でした。

真っ赤な嘘なのに、それを聞いてもびくともしないところってすごい。


これは主人の呟きですが…

「この骸骨は北条宗時なんじゃないの?」

おっ〜怖い😰

(源氏でも平氏でもない坂東武者の世の中、頂点には北条〜)


家康は晩年、征夷大将軍になった後にすぐに秀忠に将軍の座を譲り、

大御所となっていました。


家康のお手本として読まれていた本の中に

「吾妻鏡」があったと言われて

いるので、家康は反面教師と 

していた部分もあったのですね。


秀忠からしたら将軍になっても大御所の家康がいて決めてしまうので

辛かったでしょうが、

頼家のように御家人衆によって自分の

行動範囲を狭められる方が

大変だったし、辛かったでしょう。


比企と北条は益々、対立が激化して 

しまっています。


合議制で決めると言ってもどうやって

13人を選部のかと思っていたら

良くまとめて、これはこれで納得いく話になっていました。


何回かこの回も見ましたが、

義時は困った時には三浦義村に嘆きに行っていましたが

最近はあまり行かなくなっています。

また、土肥実平が「誰も声をかけてはくれん」

「誘われてから断りたかった」と嘆いていると義時は


「いつだって仲裁役、遠慮したんだと思います」と

ポジティブに話していましたが、

「いつだってどっちつかず」です

読んでいるなぁ。鎌倉に謀反の計画をしって義時は確かめるために

真っ直ぐに土肥実平のところに行き、計画を聞き出していました。


その後に足立遠元が「私も武蔵のものですが、

なぜ畠山殿には釘を刺したのにも関わらず、

私しには何も言ってこないのでしょうか?」ということを義時に聞くと

「足立殿の一徹なところを見抜いて言っても

無駄だと思ったのではないでしょうか?」


ここも意味深いな。


足立遠元の娘は後に、北条時連(時房)のところへ嫁ぎます。



頼家は比企家に育てられたなと思うのが、

人を褒めるときに巾着袋の金品なのかな?

と思いました。蹴鞠で時連が上手かったので

怒り出してしまったのかと思ったら、褒めていて

褒美に巾着を渡していました。

比企能員は仲間に引き入れようと八田知家に巾着を渡していました。


ここでは明らかになっていないけれど、


比企は13人の中に引き入れようとして金品ともてなしと

畠山にした締め付け。


北条は声をかけて仲間に入れています。


見返りは後ほどで良いということ…


だいぶ違います。


5人と言っていたのが、13人になり。

思いっきり自分のしたいようにしてくださいって言われたのに

監視役がついてしまうし、頼家の反発になっています。


「鎌倉殿(頼家)の仲間6人衆と13人の宿老の対決になってしまいました。



来週は13人の中の2人は脱落かしら?



楽しみです。


畠山くんも、牧の方といきなり

怪しい雰囲気。




碑文


正治元年(1199)五月 頼朝の女(むすめ)三幡(さんまん)疾(病)み 之を治せんが為 当世の名医丹波時長京都より来れる事あり 東(吾妻)鑑に曰(いわ)く七日 時長 掃部頭(かもんのかみ)親能(ちかよし)が亀が谷(かめがやつ)の家より  畠山次郎重忠が南御門(みなみみかど)の宅に移住す 是と此の地即ち其の南御門の宅の蹟なり


説明


1199年5月、源頼朝の娘が病気にかかり、これを治すために、当時一番の名医といわれた丹波時長(たんばときなが)を京都から呼びよせました。吾妻鑑(あづまかがみ)によると、7日に時長が、中原親能(ちかよし)の亀が谷(かめがやつ)の家から、 畠山重忠の南御門(みなみみかど)にある宅に移動した、と書いてあるが、この場所が南御門のその家のあった跡であります


三幡姫は一回だけ大姫とでましたが、

次回はどんな感じで話がでるのでしょうか?