鎌倉殿の13人…番外編3 | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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静御前の生誕地


源範頼の次男吉見氏が承久の乱の後に

領地をもらい、移り住んだと言われて

いる「鹿集城」に偶然に出会いました。


この日の目的は

「私市円山古墳」に行ってみようと

いうことだったのでこれも遂行して、

帰ろうかな?

と思ったけれど、


まだまだ


ドライブしてくるというので、


お城のアプリで行っていないエリアに

行くことにしました。


京丹後という日本海側です。




そこには、静神社があるんです。


次回の「鎌倉殿の13人」第17回から

登場する静御前の生誕地だそうです。





海岸線沿いに




「静神社」説明板によると…


悲劇の英雄、源義経の愛妾であった

静御前を祀っているのがこの神社です。


静は磯の禅師の娘として生まれ、

京に出て、白拍子になり義経に見染め

られるのですが、義経が追放された後は

故郷の礒に帰り晩年を過ごしたと

いうことです。

義経が磯の惣太という船持ちの豪族に

あてた手紙が残っていたという江戸時代の

記録もあります。しかし、この手紙や

多くの遺品は天明2年の大火で神社とともに

消失してしまう残念ながら残っていません。

元のところから西へ200m離れた位置に

建てられ、静御前の木像を祀っています。



















ヒトリシズカ(一人静)



伝承 礒と静御前





①弁当岩

 夜明けを待ち船出することとした義経を、

 船頭、家来らが磯の惣太からの心尽くしの

 弁当をとって待った岩。

 この岩を後に「弁当岩」訛って

 「ベットウ岩」と言う。


②泣き別れ岩(涙岩)

 義経を乗せた船が水平線の彼方に

 かくれる迄、見送った小高い岩場を

 「泣き別れ岩」又は、「涙岩」と

 今でも呼んでいる。


③御付浜・入艘の浜

 平氏を追討するための船を集めるため、

 はるばる海路礒にやってきて、惣太を

 訪ねた。その時、船を着けた浜を

 「御付浜」またの名を「入艘の浜」

 現在訛って「にそ」という。

 磯の衆は、幾艘かの船に屈強の若者を

 乗り込ませ、屋島・壇ノ浦に出陣したと

 伝えられている。


と書いてありました。









静御前生誕の地


静は磯に生を享け、父は磯の善次といい

「磯の衆」と呼ばれた海士の一族であった。

幼名を静尾といい、7歳で父を失い、

母に連れられて都へ上がった。

母は白拍子として有名になり、静も都で

指折りの白拍子へと成長していった。

やがて義経に見初められ、愛妾となるが

義経はその後、兄頼朝に追われる身となり

はなればなれに、その後疲れ果てた心身を

休めるため、生まれ故郷の礒へと帰ってきた。

静は眺望のよい三つ塚法城が成りに

草庵を結び、義経の無事と、由比ヶ浜で

殺された愛児の冥福を祈りつつ花月を友と

して暮らしたと伝えられている。

草庵は静の出生地の屋敷跡で母娘共々余生を

送ったとも言われている。

今もこの屋敷跡下の海岸を「尼さんの下」

と言っている





静御前が鎌倉から追放となり、

どのようなルートを辿って帰ったのかは

わかりませんが、静が亡くなったと言われる

場所はたくさんある中、

生誕地としてされているところは

少ない、これ以上にないのかはまだ、

定かではなのですけれど、

そこに行けて良かったです。


壇ノ浦で船を調達しにきたという伝説が

あるのにはびっくりしました。


京都で知り合ってから話を聞いて、

京丹後にきたのか、

もしかしたら借りに来たのが先でその関係で

知り合ったのかはわかりませんが、

もし、静御前が男の子を産んでいて

その子が将来活躍して、母は白拍子とか

遊女とかという様に言われる様に

なるのでしょうか?


それを考えると

源頼朝の義兄にあたる源悪源太義平の母は

遊女とも言われていますが、近年では

三浦一族の娘が母ではないかと

言われていたり、源範頼の母も遊女と言われて

いますが、池田宿の有力者の娘で、

父が池田宿との関係を構築を目的として、

婚姻を結んだのではないかとも言われて

います。


それからすると、静御前も関係しているの

ではと思うし、奥州に逃げ延びる時にも

と思うとまたまた面白く成りますね。


これを仮定として文献はないかと

探し始めるのが楽しみなんです。


では、第16話も途中に話がそれましたが、

楽しみです。


GWは何しようかな?