こんばんは❗️
久しぶりに「道の駅 おばあちゃんの里」
に行ってきました。
コロナ禍で来ていなかったのですが、
リニューアルされていて、売り場も広くなり、
中央にあったレジも突き当たりになっていて
ちょっとびっくしました。
この後、ここから国道175号線を通って
行くと「上垣」(うえがい)という
交差点があり、そこに看板で
「鹿集城跡」(かたかりじょうあと)と
あったので、
気になったので、行ってみました。
上垣と書いてうえがいと読むそうです
国道175号線を交差点より竹田川を渡って
東に行った「丹波市立市島中学校」敷地と
なっている道路横に説明板が
ありました。
石碑があるとのことですが、
敷地内かもしれないので、中には入らずに
説明板だけを撮らせてもらいました。
説明板によると
始の城名は「鹿聚城」と名づけられ、
後「鹿集城」と書くようになったようである
承久3年(1221年)源範頼の次男吉見資重が
氷上郡鹿集の庄に地頭職に補され、
入庄したとの記憶があるが、築年の時代は
不明である。
承久の乱後、鎌倉幕府の支配力も
畿内や西国の国衛領、荘園にも大きく伸びて
いき、幕府の目代・配下がここに館を持った
ものである。城の型は、一般的な城と
いうよりも「とりで」「やかた」「出城」
と言った型であった。
戦国騒乱の時代になるにつれて居邸を
武装し、城塞化したもののようである。
鹿集城のあったこの場所は、
当地上垣の集落に続く、小高い丘に過ぎず、
戦国時代に築かれた多くの城塞とは趣を
異にして、いわば平和の姿の城(とりで)
であった。
天正7年巳卯年(1579年)織田信長の
命を受けた明智光秀の丹波侵攻の際、
落城したと言われている。
この城跡及び、周辺の民有地を利用して、
昭和46年に市島町内の中学校を統一して
新しく市島中学校が建てられた。
とあります。
これを読んで、
承久の乱後の土地分配の大掛かりな
事をここに感じました。
たまたま、何気なく立ち寄った城でしたが
源範頼の次男と書かれていて
これは帰ってから調べたくなりました。
調べてみると確かに範頼の子供は
埼玉の吉見のあたりをもらい
「吉見氏」を名乗っていました。
次男には「資重」という人物がいなくって
「重」となると畠山氏とも関係があるのか
現在、詳しく調べています。
昭和30年頃に合併して市島町となった
ようですが、それまでは「吉見村」という
村もあったようです。
説明板の「国衛領」とありますが、
「国衙領」のことかな?
現在、「鎌倉殿の13人」をやって
いなければ、さりげなく通りすぎて
読んで終わっていたかも知れません。
楽しいです❣️