先日、こんなことをツイートしました。

どうしたらもっと幸せな方向に進めるのかね?

来月資格試験なんですけど、勉強してたら答えっぽいものがあったので。

 

そう、今日はぶっちゃけ「学習発表会」です。笑

 

「Eminaさんの学習発表会」

目次

 

1.不安な気持ちはなぜ起こる?~ベックの「認知理論」

2.ネットで起きていること

 

3.人間はなぜ攻撃的になる?←イマココ

4.人間にはより良く行きていこうとする力もある

5.不安感は自分を守ろうとしてくれている証

6.他人の価値観をどう受け止めるか

7.さいごに~「自己主張権利章典」

 

ではつづきをどうぞ!

 

■人間はなぜ攻撃的になる?

2000年に、「ジコチュー」という言葉が流行語大賞のトップ10に入りました。

元は公共マナーを啓発する広告でのキャッチフレーズなのですが、日本人の中で自己中心的であることは全体にとって良くないとする雰囲気がベースにあり、それを様々な「虫」にたとえて、ユーモラスに啓発したところがウケたのかなぁと思います。

今年、ラグビーがかなり熱を帯びましたが、ラグビーのひとつの精神として共通の目的に向かって「自己犠牲」をも厭わない姿勢がありました。それで大きな力を生んだことは事実だろうし、強烈な追い風が吹いたのは、その精神性が日本人の根底にある何かを呼び起こしたのかなぁーと感じているところがあります。

 

一方で、「犠牲にされた自己」は時折忘れ去られてしまうことがあります。

精神科医のフロイトは、ヒステリーの研究の中で、本人の意識しない心の奥底には人間の欲を満たす衝動が押し込められた「無意識」の存在があることを唱えました。

単純に話をすると、人間のこころには「自我」という調節弁のような機能があり、「無意識」がもつ衝動的なエネルギーが現実や社会の原則に触れることで起こる葛藤をうまく調節していると考えました。

 

その調節の方法の中でも一番身近に感じたのが「防衛機制」という、認めがたい感情から自分を守るために行われる物の考え方や行動のしくみです。

防衛機制の分類

抑圧、否認、隔離、反動形成、同一化、退行、知性化、合理化、打ち消し、東映、置き換え、補償、昇華など

「自己犠牲」によって、自分の欲求は意識的に抑制されていきます。でも、性衝動に代表されるように、欲求のエネルギーは凄まじいので、なかなか心の中に閉じ込めてはいられません。

 

それを違う形で開放しようとするのが「防衛機制」というしくみです。

 

一つ一つ説明するのは控えます(自分で調べて)が、例を出すならこんな感じです。

アニメのキャラクターと同じ格好をして別の人物になりきり、満足感を得る→同一化(?)

苦手な人を前にすると無意識に笑顔を作る→反動形成(?)

Twitterが荒れるのを見て、なんでそうなるのか知識を得ようとする→知性化(?)

家族につい強く当たってしまった後に、優しく接しようとする→打ち消し(?)

自分が応援するタレントに仕事が来ないのは誰かの圧力だと考え攻撃する→合理化(?)

(?がついているのは一般的にはそうかも知れないけど、違う可能性もある、という意味を込めています。あくまでも一般的に、というのは踏まえておいてほしいです)

 

人間が攻撃的になるのは、この「無意識」の中に押し込められた強い欲のエネルギーが、自我で調整しきれなかったり、自我の働きによって他の行動に転化されて攻撃的になっているからかもしれないのです。

 

「防衛機制」は、認めがたい感情から心の安定を保つための一時避難として、とても重要なしくみです。適切な防衛機制もあるのですが、とくに自他問わず攻撃的な行動につながっていくものに関しては、常習的になると社会的孤立を深めたり、病的な症状につながったり、性格や人格にも影響していくようです。

 

このように、人間は、自分を危険に晒すものに対してとても敏感に反応します。

動物も自分たちが生き延びるために、本能で守ったり攻撃したりしますよね。

人間も同じ生き物である限り、こういう動物的本能が働くということです。

そういう意味では、人間が危機を感じた時に自分自身を優先することは動物として当たり前のどまんなか、とも言えます。

 

私は、ネット上で、論理的に弱い根拠や人の認識によって違う事柄を掲げたりして、怒りをぶちまけている人々の心の奥には、何らかの危機にさらされた自分、危機にさらされていると勘違いしている自分を守ろうとしている、と考えるようにしています。守らなければーーーー!!!!!という何かが動いているのだとしたら、真っ向から反論したり、社会的常識で諭すことは火に油を注ぐだけで、正しい方法ではないのかもしれません。特に社会的常識は、ある程度の心の安定があってこそ守られるものなので、何らかの心理的危機を感じている人に投げかけたところで、その人個人の心をより押さえつけることになりかねません。いくら反社会的な発言をしているとしても、発散としてしか行動していないので、ただ自分の身が再び危険にさらされているとしか、感じてもらえていないのかもしれません。「自分の常識は他人の非常識」。こういう理解を、これからのネット社会は身につけていかなければいけないのかなぁと、個人的には思います。

 

(つづく)

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