年の瀬も迫り、バタバタと落ち着かないだろうと思うのですが、
もうすぐネトフリのドキュメンタリーが公開されるということもあり、
ちょっと今日は、言葉にしてみようかなと思うことがあります。
 
あくまで個人の考えなので、どれだけの人に伝わるかはわからないけど、すこしでも「あぁ、そうか」と思ってくれる人がいることを信じて、また、納得できない人がいるであろうことも承知の上で。
 
テーマは、「不安な気持ちとどう付き合うか」です。
 
先日、こんなことをツイートしました。
これに対応するのが、今日の記事です。
この1年を振り返って、数え切れないほどの急激な変化がありました。
まず、この一年を乗り切った自分に拍手ですよこれは!!!笑拍手
あのね本当に、なんだかんだ不安に苛まれながらよく頑張ったと思う私は。
よく味わうことなく胃袋に入れてしまったようなものも沢山あるけど、笑
嵐さんサイドの手厚いフォローもありつつ、叶うと思ってこなかったことが形になる日々はまるで夢のようだった。夜に解禁になったものなんか、次の日起きて「あれ、夢だったかな?」とかわけわからなくなること数度…笑
それくらい、信じられないペースで想像もしていないことが投下されて「気づいたらこんなところまで!」っていう登山みたいな感覚でした。
 
その一方で、私がすこし気になっているのは、それに伴って飛び交う言葉に多くの人が混乱し、気持ちの行きどころがなく、翻弄されているような感じを受けたことです。
これは今に始まったことではないし、今の世の中全体の問題とも言えると私は思うのですが、なんていうのかなー、不必要に辛い方に自分を連れ込んじゃって余計に不安になったりそれゆえに攻撃的になってる感じがして、「自分の漠然とした不安をどう処理していくか」というのを課題にして生きてきた私には、「待って待って!行き先そっちじゃない!あせる」ってなることもありました。
 
どうしたらもっと幸せな方向に進めるのかね?
来月資格試験なんですけど、勉強してたら答えっぽいものがあったので。
 
そう、今日はぶっちゃけ「学習発表会」です。笑
 
「Eminaさんの学習発表会」
目次
1.不安な気持ちはなぜ起こる?~ベックの「認知理論」←イマココ
2.ネットで起きていること
 

4.人間にはより良く行きていこうとする力もある

5.不安感は自分を守ろうとしてくれている証
 
1.不安な気持ちはなぜ起こる?~ベックの「認知理論」
不安な気持ちになったとき、「○○のせいで」という気持ちが湧き起こること、ありますよね。
○○には大抵、その不安な気持ちを起こさせた人や事柄が入るんじゃないかと思います。
 
不安なんて大して良いこともないじゃないですか、アスリートは持ってるポテンシャルを活かせないし、「不安」を取り除くような行動ががとれればそれなりに存在価値はあるけれど、今まで慣れ親しんできたものが変化するときの不安なんて、意外と大きな障壁だったりして、適応するまでにどうしても時間がかかってしまう。
 
こういう不安な気持ちはなぜ起こってしまうのだろう、という私の疑問に答えをくれたのが、ベックという精神科医の「認知理論」でした。
ベックは、「心の問題は、出来事が直接的に苦痛な感情を引き起こしているのではなく、その出来事の捉え方(認知の仕方)によって引き起こされている」という考えでした。
 
人間は、自分の経験などを生かして、物事を認識します。
親が鉛筆を指差して「これは、"鉛筆"」と子どもに教えたのなら、子どもは鉛筆を見た時に「鉛筆」と答えるし、親がボールペンを指差して「これは、"鉛筆"」と教えたなら、そのあと誰も違いを指摘してくれない限りは、鉛筆を見た時に「ボールペン」と答えます。
 
人間が成長してくると、出来事に感情が伴ったりします。
私はとある経済団体と仕事をしたことがあって、そこがとても厳しい上下関係で成り立っていたためにうっすら嫌悪感を抱いていました。その間、いろんなことが重なり精神的に参ってしまい、途中でその仕事を降りることになったのですが、その後その経済団体が入る建物に行く用事があり不安感を抱えながら入った所、タイミング悪くその担当者と鉢合わせしてしまい、パニックに陥り、過呼吸になったことがありました。
もう関係は無いはずなのに、当時の嫌悪感が一気に蘇るだけでなく、私もその厳しい上下関係の「下」として叱責されるのではないかという不安に満ちてしまい、身体が「危険だ」と錯覚してしまったのです。その後、私はその建物に近づくだけで呼吸が荒くなってしまう事がわかりました。
 
このように、自分の意志に関係なく「その建物は私にとって危険」という固定観念が定着し、瞬時に湧き上がることを「自動思考」といいます。
この自動思考は、人間がたくさんの経験や情報を処理し活かして生きていくために欠かせない機能ですが、ネガティブな情報に関しては、合間に客観的に現実を見つめるタイミングなどがないと、ただただ防衛的になっていくため、やがてその人の発展性が失われていきます。
 
(ちなみに今は、なぜそうになったのかを理解し、今はもう関係もないし殺される理由もないよね、と納得できたことで、こういった反応が出ることはなくなりました。でもやっぱり、行きたくはないですけどね)
 
自分を守ろうとするあまり、解釈の解釈が生じ、不安が不安を呼び、余計に現実そのものを見つめることから遠ざかってしまい、自分を守るために反射的に避けたり、自分自身や他人に攻撃的になる方へ労力を割いてしまうことは程度の差あれ、誰にでも日常的に起こりうる。
 
このような経験から、不安は自分の認識の「枠」が引き起こしているかもしれない、という思考回路が私の中に生まれました。
 
 

2.ネット上で起きていること

ふとネットに視線を移してみると、Twitterは140字という少ない字数の中で、発信者と受信者の間で認識のズレが生じやすいなと思います。この前の5x20ツアーでは、最後のツアーかもしれないという思いも暗にあってか、とくに本人の挨拶がレポされることも多く感じたのですが、本人の挨拶であってもレポしている人の強い思い込みでニュアンスが人によって違ったり、たった1つの言葉が書かれていなかっただけで全然違う意味として伝わっている様子見かけるようになりました。

 

また、色んな人の意見に触れていると、そこはかとなく不安な気持ちが湧いてくることがあります。この不安をたどってみると、実は自分が触れた意見そのものが根拠に乏しかったり、目的がずれていたり、間違った認識によるものだった、なんてことがあるんですよね。何万RTされていようとも。「なんだ不安に感じる必要なかったじゃん」ってスッキリすることも多くありました。根拠のない不安は、根拠のない発言から呼び起こされることもまた、「あるある」かもしれません。

 

週刊誌やスポーツ紙のスクープは金儲けのためだから無視する、という考えは随分波及した気がしますが、こういう悪意のない事実誤認から悪意が生じていくこともあるので、読む方はあくまで「その人の目線からはそうだったのね」とラフに捉える必要があるし、書く方もまた「私の目線からはこうだった」という前提を示す必要があるのかなぁと感じています。私は「勝手に思ってる」って言葉が便利に思います。他にもいい方法あるといいのだけど。

(つづく)
Next→3.人間はなぜ攻撃的になる?(21時更新予定)