学校には呪いがある。

べつに真夏のホラーとかじゃなくて。

 

 

「自分は何もできない」

「自分は大したことない」

 

という呪い。

 

 

多くの教員が転職に二の足を踏んでしまうのは

この呪いのせいだとわたしは思う。

 

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学校=学ぶ場所という性質上

大前提として

 

「ものを知らない生徒」

 

「すべてを知っている教師」

 

 

という構図がある。

 

この構図が揺らげば学校の存続にかかわる。

 

 

ゆえに、教員の世界で

「ダメ出しは善であり愛である」

 

という価値観は絶対的な常識だ。

 

 

ほめてばかりでダメ出しができない教員

有益なフィードバックができない教員に

存在意義はないとでも言わんばかりの

 

目に見えない圧が確かに存在する。

 

 

 

そして同時に生徒の側には

 

人から言われたことを直す=成長・向上である

 

という価値観が植えつけられる。

 

 

わたしはこれが呪いの始まりだと思う。

 

 

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教員の世界でも

「研究授業」という形で

そっくりそのままこの構図が繰り返される。

 

だから教員は、

自分が日頃から生徒に対してやっているのと同じことを

自分より格上の教員に対して許す。

 

 

全ての正解をもっている(とされる)人間に

ありがたい教えを請い

 

そいつの考える正解(とやら)に沿った授業を

超がんばって作る。

 

 

そこでは

自分で正解を作り出すことが許されない。

 

 

自分の外に正解があって

そこに合わせるほど高い評価がもらえる。

 

 

そんなことを繰り返していると

自分には何もできない気がしてくる。

 

 

人からのダメ出しがないと

不安で生きられなくなる。

 

 

 

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人から言われた通りに

自分を修正することが

 

成長や向上につながるとは限らないと

 

今のわたしなら思う。

 

 

だから今のわたしはもう学校では生きられない。

 

それは学校の人たちが

外の世界で生きられない、

 

と思うのと同じこと。

 

 

信じたことに合わせて

生きられる場所が決まる。

 

 

わたしから見れば呪いのようなことも

また別の誰かから見れば金科玉条。

 

 

それで世界は回っている。

 

 

 

 

幼稚園の年中の頃

 

字が書けるようになって初めて書いた

七夕の短冊に

わたしは嘘の願い事を書いた。

 

 

「セーラーマーズになりたい」

 

 

 

本当は

セーラーマーキュリーになりたかった。

 

優しくて頭がよくて、

水色が似合う亜美ちゃんが好きだった。

 

 

マーズは意地悪で怒りっぽくて嫌いだった。

 

だけどわたしが短冊に

本当は嫌いなマーズと書いたのには理由があった。

 

 

自分は髪が黒いから

マーキュリーにはなりたくてもなれない。

 

 

だから妥協して

セーラーマーズになるしかない。

 

 

4歳なりにそう考えた。

 

でもそれは本当の願い事じゃなかったから

わたしは悲しかった。

 

 

 

他のみんなは

髪色のことなんてなんも気にせず

 

セーラームーンになりたいとか

セーラービーナスになりたいとか

 

本当になりたいものを書いていたのに。

 

わたしもマーキュリーって書けばよかったのに

それができなかった。

 

 

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あれから30年がたって

同じようなことが起こった。

 

 

わたしは本当に心の底から望んでいることを

正直に書くことができなかった。

 

 

それがもし、

自分の努力や行動次第で叶いうる望みなら

書けたと思う。

 

 

なぜならそれは目標だから。

 

 

だけどわたしは

そっちの種類じゃない望みを

言葉にできない。人に言えない。

 

 

あまりにも切実すぎて

叶わないことがこわすぎて。

 

 

もしそれを、わたしの望みとして

外に発表してしまったら

 

もしそれが叶わなかったときに

その先の望みも、芋づる式に消えるのだ。

 

 

わたしはそこまで想像してしまって

想像するのを止められなくて

 

その望みごと、

はじめからなかったことにしてしまう。

 

 

 

そんなところが30年も変わってない。

わたしは。

 

 

 

 

昨日は職員室で残業している夢を見た。

 

そこは本当に不思議な場所で

 

ドロドロに溶けた時間の中を

匍匐前進するような淀みがある。

 

 

漢字ドリルの〇つけをしていたら

 

学年の先生に次の単元のことを相談していたら

 

 

 

あっというまに夜の8時9時を回っている。

 

 

机を並べて仕事をしている他の人たちもまた

そのドロドロに溶けた時間の中にいる。

 

 

「12時間後にまたここに居るねー」

なんて話しながら。

 

 

そこから右足、左足、と順に抜け出すのは

なぜかとてつもなく難しい。

 

 

とくに身近にダラダラ仕事する系の

全然帰らない先生がいると

 

いつのまにか道連れになって

自分も全然帰れない。

 

 

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職員室でドロドロに溶けた時間の正体は

 

生活の時間だ。

 

 

自分のために家でごはんを作ったり

 

なんにもしないを自分に許す時間。

 

 

あとで振り返ると

確かに忙しかったのだけど

 

 

それと同時に

 

あの頃のわたしは、何をあんなに

忙しくしていたんだろう、と思う。

 

 

 

忙しかったわりには

あまり記憶にも残っていない

中身のない時間だから。

 

 

溶かしてしまった時間には

いつもそういう特徴がある。

 

 

ドロドロに溶けた時間の中にいる自分は

 

いつも、心ここにあらず。