『独眼竜政宗』第46回感想おまけ | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

ナレーション「逐電していた政宗の叔父、国分盛重がひょっこりと仙台城を訪れた」

 

視聴者一同「おかえりなさーい」

 

亘理定宗「面を上げられよ」

盛重「いやはやどうも、久々に御尊顔を拝しまことに恐悦至極。盛重、ただただ感激に耐えませぬ」

政宗「歳を取ったなぁ」

伊達成実「佐竹の世話になっているそうだな」

盛重「はい、家格を持って客分の扱いをかたじけのうしておりまするが、かの地は寒うてさむうて」

成実「勝手を申すな、自ら求めて出奔したはずじゃ」

盛重「さすれば某は寒がりゆえ温暖の地常陸を選び申したが、なんと、関ヶ原の合戦の後佐竹殿は秋田へ国替えと相成り大いに当てが外れ申した、ははは」

政宗「笑うな」

盛重「は?」

政宗「主人に暇乞いもせず逐電に及んだ罪は重いぞ」

盛重「平にご容赦を」

政宗「此へ何しに来た」

盛重「お祝い事を申し述べるべく」

政宗「それだけではあるまい」

成実「有り体に申せ」

盛重「畏れながらこの仙台は嘗ては国分の所領にございました。されば遠く異郷にありましても朝な夕なに望郷の念黙(もだ)し難くついつい足を向けてしまいました」

成実「さては仙台城の佇まいを探りに参ったな」

盛重「さにあらずさにあらず」

成実「隠すとためにならんぞ」

盛重「隠すも何も盛重は耳も遠く目も悪うなっております」

政宗「定宗」

定宗「は」

政宗「こやつを牢へぶち込め」

定宗「心得ました」

政宗「寒風の吹きすさぶ石牢がよかろう」

盛重「あいや、あいや暫く」

成実「石牢が嫌ならば水牢じゃ」

定宗「承知」

盛重「ご勘弁を、ご勘弁」

定宗「こちらへ」

 

ここでイッセー盛重は、座っている政宗の前で決して立ち上がらないまま逃げ回る究極芸?「背面ゴキブリ走行」を披露。

お見事、礼儀作法に則った?逃げ様です。

しかし残念ながらあっさり取り押さえられます。

 

盛重「ひえ…ひえっ…」

政宗「佐竹に何を頼まれた」

盛重「あ、痛い痛い痛い痛い」

成実「申すか申さぬか」

盛重「あたぁ…じ、実は、実は、痛い、大御所の御触れによる一国一城の取り決めを…」

政宗「…今一度申してみよ」

盛重「その、つまり、要するに、伊達家はこれを如何にお取り計らう御所存にあられますやと。仙台城を除く全ての城を惜しみなく破却なされるかどうか」

政宗「佐竹に頼まれたのか」

盛重「いえいや、頼まれたわけではございませぬが、奥州随一の伊達家のありようをつぶさに知らせれば佐竹殿の覚えも目出度からんと愚考いたした次第」

成実「不届き千万」

盛重「いやお聞きくださりませ。この儀は佐竹のみならず、んー最上、南部、上杉、すべて等しく考えあぐねておりまする」

政宗「ならば秋田へ立ち返り佐竹義宣に申せ」

盛重「は?」

政宗「一国一城令は大御所と将軍によるご裁断じゃ。右顧左眄(うこさべん)することなく速やかに領内の諸城を取り壊すべしとな」

盛重「では伊達領においても」

政宗「申すに及ばず」

盛重「…(嘘つけぇ)」

成実「なんじゃその顔は」

盛重「いえ」

成実「用が済んだら早々に立ち去れ」

 

いや、この程度では帰れません。

 

盛重「願わくば、墓参りをいたしとうござる」

成実「墓参り?」

盛重「余命いくばくもない盛重にございますれば、伊達家代々の霊にあらかじめご挨拶を申し上げ…いや、うしろめたいには相違ござらぬが、某とて養子に出されずばいっぱしの…ついつい愚痴にはなりまするが…」

 

そこへ救いの神来訪

 

片倉子十郎「小十郎にござります」

政宗「苦しゅうない」

子十郎「はっ」

盛重「そちが鬼の小十郎か」

子十郎「江戸表より書状が参りました」

政宗「大儀」

盛重「そちの武勇は伝え聞いておる。ははは、さすが景綱の倅じゃ、あっぱれあっぱれ」

成実「出しゃばるな盛重」

盛重「はは…」

政宗「!…」

成実「如何なされた」

政宗「大御所の病が一段と重うなられた」

成実「なに」

盛重「…」

 

政宗や成実と渡り合い、結果してそれなりの情報も手に入れました。大いばりで秋田へ帰ったに違いありません。

我らが国分盛重、歳を取っても本当に食えない奴です。

 

国分 盛重(こくぶん もりしげ)は、甥の伊達政宗に仕えた戦国時代の武将で後に久保田藩重臣。秋田伊達氏初代。はじめ伊達政重といい、さらに国分氏を継いで国分政重、ついで国分盛重と名を改め、最終的には伊達盛重と名乗った。通称は彦九郎、能登守、三河守。 兄の輝宗の代のとき、天正5年(1577年)に国分氏のもとに代官として遣わされ、後に国分氏を継いだ。国分氏は今の仙台市付近を治めた小大名(国衆)で、これによって伊達氏に従属した。盛重は伊達氏の武将として活躍し、天正13年(1585年)に甥にあたる主君政宗の下で人取橋の戦いに加わった。しかし、家中の反発を抑えきれず、天正15年(1587年)に政宗に討伐されかかった。盛重は政宗に謝罪して許されたが、国分氏の家臣は政宗直轄とされた。天正18年(1590年)から19年(1591年)の葛西大崎一揆鎮圧で、伊達政宗と蒲生氏郷が不和になったときに、氏郷の帰国の安全を保証する人質になった。盛重はその後も伊達氏一族の武将として重きをなしたが、慶長元年(1596年)に出奔して佐竹義宣のもとに走り、その家臣になった。慶長5年(1600年)に佐竹氏の転封に従って秋田に移り、横手城を与えられ、元和元年(1615年)に死去した。享年63。(wikipediaより)