『独眼竜政宗』第46回「離縁状」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

再びクレジットのトリを張った片倉景綱。
第46回にしてとうとう別れの時がやって来ました。

これまでの場面をフラッシュバックする演出もあったでしょうが、そうではなくきちんと臨終間際の演技で最期を締めくくりました。
流石は真面目律義な片倉小十郎景綱。
視聴者としても感慨深いものがあります。

ナレーション「大坂夏の陣が終わり、慶長二十年は改元されて元和元年となった。その八月の末、政宗は江戸を発って仙台へ向かい、途中で白石城の片倉景綱を見舞った」
片倉景綱「わざわざのお運び恐悦に存じまする」
政宗「苦しゅうない。横になれ」
景綱「いやいや。先ずは戦勝の儀祝着至極にござりまする」
政宗「勝つには勝ったが物入りばかりで加増がない。仙台へは手ぶらで帰らねばなるまい」
景綱「かかる業病にて参陣叶わず、またお出迎えもならず景綱かえすがえすも無念にござりまする」
政宗「よいよい。そちは政宗の片腕としてよう働いてくれた。今後は体を愛うてじっくりと余生を楽しむがよかろう」
景綱「お言葉はかたじけのうござりまするが既に景綱は天寿を使い果たしました」
伊達成実「戯けたことを申すな」
景綱「今生の別れにご拝顔の栄に浴するは望外の喜びにござりまする。これにて思い残すことはござりませぬ」
成実「うそをつけ」
景綱「は?」
成実「ならばなぜ小十郎をこの城に入れん」
景綱「うぅ、あれは親不孝を致しました」
成実「親不孝じゃと?」
景綱「ゴホゴホゴホ」
蔦「恐れながら小十郎は大坂の陣にて自ら敵中に斬り込み雑兵ばらと命のやり取りをした由。主人はそれが気に入らず、凱旋しても城へ入る事まかりならぬ、勘当じゃと申し続けております」
成実「思い違いも甚だしいぞ。小十郎は伊達勢の先陣を承り見事に一番手柄を立て、あれが片倉小十郎よ鬼の小十郎よと武名を轟かせたではないか」
景綱「手柄云々は別儀でござる。卑しくも小十郎は白石城の主でござる。もし雑兵の手に掛かって討ち死に致せば親不孝はおろかこの上なき不忠にござりまする」


かねがね己れの才を鼻にかけた分をわきまえぬ振舞いがいかんと忠告しているのに、まだわからんか。ですかね。
親の心子知らず。
しかし景綱も、そんな親の情から出た厳しさの引っ込め所を探していたのでしょう。

成実「小十郎は白石城の主に相違ないか」
景綱「相違ござりませぬ」
成実「されば景綱は何者じゃ。隠居した以上は居候に過ぎまい」
景綱「憚りながら白石城はこの景綱が殿より拝領仕った居城でござりまする。たとえ嫡男と言えども不都合あれば勘当致すは理の当然」
成実「頑固者め。どうしても城へは入れんと申すか」
景綱「勝って兜の緒を絞めよと申しまする。かかる場合には見せしめが肝要でござる」
成実「ならば致し方あるまい。小十郎の身柄はこの成実が申し受けようぞ」
景綱「ぉ?」
成実「儂の養子に迎え亘理城を継がせるが依存はあるまいな」
景綱「!これはしたり。小十郎は片倉家の跡取りにござる」
成実「勘当すると申したではないか」
景綱「ゴホゴホゴホ」
政宗「はははは、どうやら景綱の負けらしいな」
景綱「なかなか」
政宗「儂に遠慮は無用じゃ。ここらで小十郎を呼び寄せ大手柄を誉めて遣わせ」
景綱「…」
政宗「政宗に免じて赦してやれ」
景綱「!」
政宗「…」
景綱「…(首肯)」


これは父親である景綱、本当に嬉しかったに違いありません。

蔦「ありがとうございます」
成実「蔦殿、城門を開いて小十郎を通されよ」
蔦「かしこまりました」
景綱「待て待て」
成実「未練がましいぞ」
景綱「殿に別してお願いの儀がござりまする。倅の顔を見る前に何とぞ暫くのご猶予を」
政宗「望みがあれば何なりと申せ」
景綱「かたじけのうござりまする。永らえてお目文字叶うた喜びをせめて笛に託しとう存じまする」
政宗「…その体で笛が吹けるのか」
景綱「何とぞお手合わせを」


いま子十郎の顔を見てしまえば甘い顔が出る。気力が萎えてしまう。
そうなる前に残り僅かな力を奮い立たせて政宗に最後の奉公をしようとしているのですね。

白石城に長らく聴くことのなかったであろう笛の調べが流れます。
かつては輿入れしたばかりの愛姫の不聊を慰め望郷の思いをかきたてた小十郎と政宗の名セッション。
暫くは昔と同じ美しい音を響かせていましたが、長くは続けられませんでした。

政宗「どうした」
景綱「ゴホゴホゴホ」
蔦「殿」
政宗「もうよい」
景綱「ゴホッホッホッ」
政宗「もうよい。見事であった。寝かしてやれ」
蔦「はい」
景綱「この笛を」
政宗「…」
景綱「恐れながらこの笛を景綱の形見として殿のお側に置いて下さりませ」
政宗「相わかった」
景綱「有り難き幸せにござりまする」
成実「良い音色じゃ。久々に聴いたが衰えておらんのぅ」
景綱「滅相もない。息切れ致し申した。ゴホゴホ」
政宗「はははは」
子十郎「父上」
景綱「ふぅ…それに控えておれ」
子十郎「は」


鬼の小十郎が小さくなっています。
初代小十郎に自信満々の鼻っ柱を折られて反省したようです。

景綱「殿に申し上げます。これにて景綱は二度と殿の御ん前に出る事はござりますまい。永のお暇(いとま)を賜るにあたって昔の傳役に立ち返り忌憚なく存念を申し述べとう存じまする」
政宗「苦しゅうない」
景綱「お耳障りの儀は平にお赦し下さりませ。先ずは遺言の初めに何とぞお体を大切に何時までも長生きなされまするようにと申し上げまする」
政宗「…」
景綱「次に、山形におわす保春院様を必ず伊達家にお迎えあそばされまし」
政宗「…」
景綱「伊達政宗は慈悲を持たぬ冷酷なご仁、ご母堂を見捨てて顧(かえりみ)もせずと詰まらぬ噂を流されては如何にも無念」
政宗「しかし…」
景綱「最上家親殿はお父君とは似ても似つかぬ暗君にござりまする。さぞかし保春院様もご苦労の多い事と推察申し上げる次第」
政宗「相わかった。早速使者を遣わす」
景綱「…今ひとつの気掛かりは支倉常長が事にござりまする。常長は異国の果てにありキリシタンご法度も豊臣家滅亡も知らぬままただひたすらに殿の密命を命綱と心得ておりましょう。イスパニア艦隊にからくりの儀もし幕府の知る所となれば伊達家存亡に関わる一大事と心得まする」
政宗「その儀は迎えの者によう言い含める所存じゃ」
景綱「何とぞ遺漏なきよう」
政宗「申し分はそれだけか」
景綱「最後に、ご当家の婿君松平忠輝殿が事にござりまする。庇(かば)いだては程々になされませぃ。五郎八姫様のお嘆きは察するに余りあるものの、忠輝殿のご気性は乱世に向いており泰平の御世には合い申さぬ。大御所のご勘気は解けず良くて改易、悪ければ切腹を仰せつけられましょう」
政宗「見放せと申すのか」
景綱「御意にござりまする。もはや全ての戦は終わりました。これからの武将は大御所のため領民のため善政を競うに如くはないと心得まする」
政宗「…」
成実「そうか…戦はもうないのか…」
政宗「安堵致せ。景綱の諫言確と胆に銘じ、花も実もある大名よと民百姓に言わせてみせようぞ」
景綱「…千穐、万歳…(フッ)」


ここで力尽きたように意識を失いかける景綱に、思わず子十郎が駆け寄ります。
いい場面だなぁ。

子十郎「父上!」
蔦「殿!」
子十郎「父上、小十郎でござる」
景綱「…儂の遺言を聞いたか」
子十郎「確と、伺いました」
景綱「いずれも伊達家の重大事ぞ。心してご奉公せよ」
子十郎「委細、承知致しました」
成実「景綱、大手柄を誉めよ。誉めてやれ」
景綱「…小十郎、ようやった…でかしたぞ…」
子十郎「父上…」


政宗への最後の諫言は、嫡男への最後の訓戒でもありました。

ナレーション「仙台城へ帰って間もなく政宗は片倉小十郎景綱の訃報に接した。行年59歳」

合掌。

次回は遂に徳川家康がこの世を去ります。
次々に大物達がいなくなって行く中で、われらが国分盛重がひょっこり帰って来てくれたのは、まさに望外の喜びでした。
政宗の面前で決して立ち上がらない背面ゴキブリ走行は特筆されますね。

※片倉氏(かたくらし)は、伊達氏に仕えた武士の一族である。仙台藩にあって白石城を預けられ1万8000石を領した。代々の当主は初代片倉景綱にならって片倉小十郎を名乗り、藩の内外の人々は通常この名で呼んだ。「小十郎」は、景綱の母方の一族の武勇の士・飯田小十郎にちなんだとされる。伊達家中での家格は、最高の「一門」ではなく二番目の「一家」であり、石高も最多ではない。家格でも役職でも片倉氏は数ある重臣の一人にすぎなかった。しかし片倉氏は外から特別な待遇を受け、内でも特別な信任を受けていた。景綱は豊臣秀吉に知られて独立した大名に取り立てられかけたことがあり、他の大名家からは政宗の第一の重臣とみなされていた。江戸幕府は江戸城下で片倉氏に屋敷を割り当て、大名に準じる扱いをした。片倉氏の居城、白石城は幕府が一国一城令の例外として認めた正式の城である。また、片倉氏が仙台で与えられた屋敷は大手門に通じる大橋の南西のたもと、広瀬川を堀にみたてて石で護岸したところで、仙台城の外郭防衛の要であった。片倉氏は代々神職の家系でもあり、現在は政宗を祭神とする青葉神社の宮司の職を継いでいる。伊達騒動の後、ある藩士が3人の片倉小十郎を「家中の美談」として紹介したところ、伊達家中皆が納得して片倉家を皆が重んじるようになったと言われている。・初代景綱が、主君政宗に秀吉の小田原征伐に参陣するように諫言して伊達氏討伐を回避させたこと。・2代重長が、大坂夏の陣で真田信繁と互角に戦い後藤基次を討ち取ったことで伊達氏の武名を守ったこと。・3代景長が、伊達騒動の際に幼君綱村の傍にいて藩内の混乱を鎮め、伊達氏改易の危機を免れさせたこと。(Wikipediaより)