『独眼竜政宗』第47回「天下の副将軍」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

いつもの出演者ロールでは政宗から二枚目の成実が、今回は家康の前に置かれました。
きっと次回から最終回まで成実がトリを張るのですね。

『独眼竜政宗』が大河ドラマの最高傑作である理由のひとつは、歴史上の通説(いわゆる史実)にこだわることなく、そこここにオリジナルの展開(つまりは史実でないこと)を挿入しながらドラマをより深くより面白いものにする事に成功しているからです。
お東の政宗毒殺未遂しかり。
成実妻子の自害しかり。
そして今回の、家康による政宗の副将軍推挙もその一つなのでしょう。

ナレーション「元和二年正月に発病した徳川家康は、七十五歳の老齢でもあり徐々に悪化する病状から死をはっきりと自覚していた」

駿府城、春

徳川家康「風流じゃのう。死出の旅路に花見を楽しむ」
今井宗薫「縁起でもござりませぬ。上様は快方に向こうておられまする」


宗薫は家康を大御所ではなく上様と呼ぶのですね?

家康「出まかせを申すな」
宗薫「いえいえ、薬師(くすし)がそう申しております」
家康「武士は散り際が肝要じゃ。この桜を見よ、見事ではないか」
柳生宗矩「伊達の少将がお見えでござりまする」
家康「ん、わかっておる。伊予の蜜柑はことのほか旨かった」
政宗「かたじけのうございまする」
家康「政宗」
政宗「は」
家康「秀忠をどう思う?将軍として些か強さに欠けるとは思わぬか」
政宗「いえ、決して」
家康「泰平の世の将軍はあれでよいのだ。優れた家臣に支えられて只々聡明であればよい。聡は聞く、明は見る。良い耳と良い目を持つのじゃ。将軍は覇者ではない、王者でなければならぬ」


その後の徳川十五代に聡明な王者がどれだけいたのでしょうか?

政宗「恐れ入りました。潔くも尊いお言葉を承りいちいち感服仕りました」
宗矩「伊達殿は忠輝様の所在を存じておると仰せられます」
家康「!見つかったのか」
政宗「只今駿府の城下にて大御所のお沙汰をお待ち申し上げておりまする」
家康「…不埒者めが」
政宗「恐れながら、忠輝殿は父君の病尋常ならざるを知って大いに驚き、止むに止まれず深谷を出奔致し一路駿府へ馳せ参じた次第にござりまする」


江戸の伊達屋敷経由でしたが。

家康「政宗の指し金か?」
政宗「滅相もござりませぬ」
家康「虫がよすぎる」
政宗「さりとて幕府に訴えることもならず。窮余の一策とお目こぼしの程を願い上げ奉りまする」
家康「…大儀であった」
政宗「では、お目通りの儀ご承認下されましょうか」
家康「…目通りまかりならん」
政宗「これはしたり。余りにもお情けないお言葉を承りまする。不躾ながら、今生のお別れにたったひと目とはるばる深谷から参られましたものを」
家康「忠輝は蟄居の身じゃ」
政宗「今は常の時ではござりませぬ」
家康「法を曲げては泰平の世が立たぬ。宗矩」
宗矩「は」
家康「例のものを」
宗矩「はっ」
宗薫「お願いでござりまする。この今井宗薫に免じて今わの際に一目だけ」
家康「今わの?際じゃと?」
宗薫「!…ぁ…」
家康「お前は快方に向こうておると申したではないか。い~ま~わのきわじゃと?」
宗薫「ぁ…いぇいゃ…」


このとき宗薫の後ろに控えている侍女の口角がぴくりとも動きません。
黒田家の侍女ならあからさまに含み笑いをするところですが、さすがは徳川家。

家康「下がっておれ」
宗薫「ぁぁご無礼仕りました」
家康「ぇぇ下がれと申しておる」
宗薫「はは…」
家康「宗矩も、下がれ」
宗矩「は」


残されたのは政宗だけとなりました。

家康「政宗」
政宗「は」
家康「これへ」
政宗「…」
家康「あのな、天麩羅はいかん」
政宗「は?」
家康「儂は鯛の天麩羅を食して毒に当たって命を縮めてしもうた。旨いものを食う時は気をつけねばならんぞ」
政宗「有り難く承りまする」
家康「忠輝は、何処におる」
政宗「臨済寺にござりまする」
家康「臨済寺?目と鼻の先じゃのぅ」
政宗「御意」
家康「…あれも運の悪い倅じゃ。戦乱の時世に生まれておれば天下の役に立ったかもしれん。が、泰平の御世では無用の長物」
政宗「…」


「政宗はよかったな。もう二十年早く生まれていたら天下を取れたかもしれぬが、二十年遅かったら忠輝同様だったな(意訳)」ですかね?

家康「これはな、信長公より拝領の名物。これを忠輝に届けてくれ」
政宗「は」


野風の笛ですね。

家康「儂の形見として遣わす」
政宗「…畏まりました」


片倉小十郎景綱が政宗に形見として渡した笛と相通ずる思いがあったようです。

家康「あの信長公も舞を舞い能を楽しみ雪月花を愛でる優しさをお持ちであった。そこに思いを致すようにと。そして、もうひと言」
政宗「…」
家康「父も忠輝に会いたかった、とな」


これは流石に本心、親ごころでしょう。

政宗「…確と心得ました」
家康「…政宗」
政宗「は」
家康「…頼みとするは伊達政宗。天下の副将軍として秀忠を助けてはくれまいか」
政宗「承知仕りました」
家康「これが儂の遺言じゃ」
政宗「…」
家康「…」


二人とも目を潤ませてはいますが決して涙をこぼしたり、ましてや声を上げて泣いたりはしません。
まったく最近の大河ドラマの男達は泣きすぎです。

ナレーション「元和二年四月十七日午前十時、徳川家康は眠るようにその生涯を閉じた」

そして、

ナレーション「元和二年七月五日、家康の六男松平忠輝は六十万石を没収されて失脚し伊勢の朝熊(あさま)に閉じ込められた。その後忠輝が歴史の表舞台に出ることは遂になかった」

※副将軍(ふくしょうぐん)は、大将軍あるいは将軍の次席に位する武官の職。律令制では大将軍、将軍、副将軍という序列が規定されたが、実際には大将軍に対しても将軍を中抜きして副将軍がつけられた。史書には「副使」(使≒将軍)とも記される。延暦13年(794年)、朝廷が奥羽の蝦夷を征伐するために派遣した征夷大将軍大伴弟麻呂の副官として坂上田村麻呂が征夷副将軍に任じられるなど、たびたび奥羽の蝦夷征伐に副将軍の人事がなされた。平安時代中期では、承平天慶の乱の最中の天慶3年(940年)に経基王が征夷副将軍に任ぜられたとする記録がある。鎌倉時代には一度も副将軍が任ぜられる例はなかった。室町時代においては何度か任命された例がある。永禄11年(1568年)、15代将軍足利義昭が自らの将軍職就任に功のあった織田信長に対して副将軍か管領職への就任を要請したという記録が残されている。朝廷も織田信長に対して副将軍就任の打診をしている。義昭が信長によって京都を追放され、備後国の鞆にて毛利氏の庇護に入ると、義昭は毛利輝元を副将軍に任じ、鞆において幕府の再建を目指した。後に徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府が開かれたが、幕府内に「副将軍」という役職はなく、江戸時代において副将軍が任ぜられることは一度もなかった。しかし、徳川御三家の一角である水戸藩主は天下の副将軍または水戸の副将軍と称されることが多い。これは、水戸藩主の地位が他の大名と違って、参勤交代せずに常に江戸に留まる定府が義務付けられていたこと、将軍の補佐役としての色彩が強かったことなどから、そのように呼ばれるようになり、幕府もこの俗称を半ば黙認したとされる。(Wikipediaより)