『独眼竜政宗』第43回「ねこ、宇和島へ」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

病身の片倉景綱が「大御所の信頼を取り戻すための戦」と言い切った大坂冬の陣。
景綱の予言通り短期間で和睦が成り、大坂城は徳川勢によって外堀も内堀も埋め立てられました。
政宗も徳川将軍家のために大坂方を敵に回して奮戦してきました。
しかし、この後はどうするのか?
今回は、景綱が「殿の存分になされませ」と言っていた戦後の家康対策が見所です。
ところが、家康も政宗対策を持って待ち構えていたのでした。

二条城

徳川家康「大儀であった。堀を埋めさえすれば大坂城は与(くみ)しやすい」
政宗「やはり弓矢にかけるご所存にござりまするか」
家康「そうではない。大坂方が城に頼って再び謀反を起こさぬよう用心致したまでのこと」
政宗「然らば今後も秀頼君には危害を加えぬと仰せられまするか」
家康「危害を加える?」
政宗「生かすも殺すも大御所の胸三寸と心得まする」
家康「殺すつもりは毛頭ない」
政宗「それを承って安堵致しました」
家康「安堵?」
政宗「騙し討ち同然に豊臣家を滅ぼしては将軍家の威信に関わります。戦には勝っても恨みを残しまするぞ」
柳生宗矩「伊達殿はお忘れと見える。秀頼君の奥方は千姫にござりまするぞ。上様がお目の中に入れても痛くない孫姫様のご夫君をば如何なるご存念にてお討ちあそばしましょうや。さらばこそ、此度のご陣も御自ら和睦に持ち込まれたのではござりませぬか」
政宗「その和睦を城方は危うんでおる。堀を埋め立てるや否や一斉に攻め込んでなで斬りに致すのではないかと」
宗矩「ほほぅ、ようご存知で」
家康「ん、政宗は大坂方と昵懇じゃ」
政宗「昵懇ではござらん。さりながら埋め立てを巡って激しいやり取りがあり城方の並々ならぬ怒りを肌身に感じた次第にござりまする」
家康「…そんなに怒っておるのか?」
政宗「恐れながら、窮鼠猫を噛むという諺がござりまする。軽々しく追い詰めれば結束の固い浪人大名連のこと、なりふり構わず戦を仕掛けて参りましょう」
家康「その戦をしとうないゆえ堀を埋め立てたのじゃ」
政宗「確と相違ござりませぬか」
宗矩「伊達殿!お控えなされ」
政宗「ご本心が承りたい」
家康「…」
宗矩「ご本心なればこそ大御所様は駿府へ、将軍様は江戸へお引き上げなされます」
政宗「兵を引くと仰せられるか」
宗矩「いかにも」
政宗「…」


家康は、大坂方と北政所の窮状を知り勢い込んでやって来た政宗の切っ先をかわすと、やわやわ懐柔にかかります。
ここらは政宗のへそ曲がり術に対する家康の耄碌(ボケ)戦術でしょうか?

家康「…政宗…儂ゃあ、嘘をつく男か?(シレッ)」
政宗「…(プッ)いやいや、嘘はござらん。但し時々物忘れをなされまする」
家康「物忘れ?」
政宗「例えば某、上杉討伐の砌(みぎり)百万石の御墨付きを賜りましたが覚えておいでかどうか」
家康「?…あぁ、あぁあぁ、覚えておるわ」
政宗「ははは」
家康「ははは」


そして飴を取り出します。

宗矩「(ゴニョゴニョ)」
家康「あぁ、忘れておった。政宗の、上の…上の倅、えぇ…」
宗矩「秀宗殿にござりまする」
家康「おぉ、その秀宗に十万石を与える」
政宗「は?」
家康「約束どおり大名に取り立てると申しておるのじゃ」
政宗「有り難き幸せにござりまする」
家康「伊達本家六十二万石、分家十万石。併せて、なんぼじゃ?」
宗矩「七十二万石でござりまする」
家康「んぁ、ははは」
政宗「ご高配かたじけのうござりまする。して、拝領の地は奥州にござりまするか」
家康「んいや」
政宗「然らば関東にござりましょうか」
家康「いよ。伊予の宇和島を与える」
政宗「…伊予の宇和島?」
宗矩「四国でござる。これまでは富田信濃守の所領でござりましたが悪政の限りを尽くし領内に疲弊、不安を招いたために改易を仰せつけられました」
政宗「…」
家康「ん?何ぞ不服でもあるのか」
政宗「!あ、いや」
家康「ならもそっと喜べ」
政宗「あ、ははっ。はははは」
家康「はははは」


前回の飴、即ち百万石の御墨付きを反古にされている政宗が素直に喜ぶわけもありません。
しかし、政宗は伊達家の分割に神妙に従い、宇和島伊達家は立派に幕末まで存続することになるのでした。

慶長二十年

ナレーション「大御所徳川家康は四月四日、軍勢を率いて駿府城を出発した。徹底抗戦の構えを見せる大坂方に業を煮やし再び討伐を決意したのである。続いて五日、将軍秀忠も江戸城から大軍を従えて西へ向かった」

江戸伊達屋敷

片倉子十郎「申しあげます」
政宗「何事じゃ」
子十郎「五郎八姫様、火急の用件にてお目通り願いたいと」
政宗「火急の?」
五郎八姫「父上」
政宗「どうした?」
五郎八姫「今朝早く俄(にわか)に忠輝様が出馬致しました」
政宗「!何じゃと」
五郎八姫「大坂城は忠輝が奪ってみせると喚(わめ)かれて、馬上二百騎」
政宗「!あの馬鹿者が。勝手な真似を致しおって」
忠宗「…(フフン)」


さて次回、間に合うかイスパニア艦隊。

※山家公頼(やんべきんより)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての伊達氏の家臣。通称は清兵衛。最初は最上氏に仕えていた。伊達政宗に仕えて頭角を現し、政宗の庶長子である伊達秀宗が宇和島藩に封じられた際に藩惣奉行(筆頭重臣・1000石)として付けられた。初期藩政の構築のみならず、仙台藩(伊達宗家)や江戸幕府との関係調節に苦慮し、仙台の政宗に宇和島藩10万石のうち3万石を隠居料として割くことで宗家からの借財返済を繰り延べたり、幕府の大坂城石垣修復事業に参加したりした。こうした行為が秀宗や桜田元親ら他の重臣らとの対立を招いた。また山家自身、政宗が秀宗を監視するために送った目付を兼ねており、浪費の改まらない秀宗の行状を政宗に報告し、政宗が秀宗を諌める書状を出している。元和6年(1620年)1月の大坂城石垣普請工事で共に奉行を務めた桜田元親が、山家が不正をしたと秀宗に讒訴したため、山家は帰国して秀宗に弁明し謹慎した。これは工事の進捗状況の報告で山家と桜田の報告に齟齬があり、山家が正当だったので面目を失った桜田が讒訴に及んだとされる。元和6年(1620年)6月29日、秀宗の命を受けた桜田一派の家臣達が山家邸を襲撃、翌未明に公頼らは討ち取られた。享年42。この襲撃事件で山家のみならず、次男と三男も斬殺され、9歳の四男に至っては井戸に投げ込まれて殺された。さらに娘婿の塩谷内匠父子3人も殺され、生き残ったのは商人に匿われた山家の母と夫人だけだった(長男は仙台にいたため無事だった)。山家の死後、宇和島藩内では怨霊騒動などが続いた。政敵の桜田元親は変死し、宇和島を襲った大地震や台風・飢饉などの凶事をはじめ、秀宗の長男宗実と次男宗時、六男徳松の早世、秀宗の発病などは全て山家の祟りとして恐れられた。このため承応2年(1653年)に秀宗の命により和霊神社が創建されることとなった(和霊騒動)。ただし怨霊伝説がある一方で山家には殺害の首謀者であった秀宗の夢枕に立って火事を事前に伝えたなどとされる忠臣伝説もあり、宇和島では山家は「和霊様」と呼ばれている。また、山家公頼は蚊帳の四隅を切断され抗ううちに殺されたことから、命日などは蚊帳を吊らない風習が近代まで残るなど領民に慕われたことが伺える。(Wikipediaより)