『花燃ゆ』第4回「生きてつかあさい」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

今回は学園ラブコメなかったですね。ちょっと寂しい。
でも、百合之助父さんと文、梅太郎のやり取りにはちょっとホロっとしました。

にしても、明治維新の精神的指導者・吉田松陰はこのまま危ないヤンチャもんで終わるのでしょうか?

※吉田松陰(よしだしょういん)は、文政13年(1830年)、萩城下にて長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。通称は寅次郎。天保5年(1834年)、叔父で山鹿流兵学師範・吉田大助の養子となるが翌年大助は死去。同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。11歳にして藩主・毛利慶親に才能が認められる。嘉永3年(1850年)、西洋兵学を学ぶために九州に遊学。次いで江戸に出て佐久間象山に師事する。嘉永5年(1852年)、東北旅行を計画し長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。東北遊学では、水戸、会津を始め秋田を経て津軽海峡も見学した。江戸に帰着後、士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航すると佐久間象山と黒船を視察し外国留学を決意。長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが失敗。安政元年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には、旗艦ポーハタン号に乗船したものの渡航は拒否された。幕府の一部ではこのときに象山、松陰両名を死罪にしようという動きもあったが助命され長州へ檻送された後に野山獄に幽囚された。安政2年(1855年)に出獄を許され杉家に幽閉の処分となる。安政4年(1857年)、叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などの面々を教育した。安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。だが、弟子の久坂、高杉や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫した。結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される。安政6年(1859年)10月27日、安政の大獄に連座し江戸に檻送され斬首刑に処された。享年30(満29歳没)。(Wikipediaより)