『独眼竜政宗』第42回「大坂攻め」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

今回、大坂冬の陣を描きながら徳川家康の出番がなかったのは二つの理由があると思われます。
一つは、豊臣秀頼らにとって何を考えているのかわからない家康の不気味さを引き立たせるため。もう一つは、実質退場となる小十郎に対するリスペクト。つまりエンド・オブ・クレジットを片倉小十郎に譲るため。
まことに粋なはからいです。

江戸伊達屋敷

政宗「待たせたな。折り入っての願い事とは何じゃ」
伊達成実「は」
片倉小十郎「…」
政宗「どうした小十郎、いまだ気鬱に取りつかれておるのか」
小十郎「恐れながら気鬱ではござりませぬ」
政宗「どこか痛むのか」
小十郎「されば目眩が酷く耳も遠くなりました」
政宗「ははは、老け込むのはまだ早いぞ。程なく越後へ出立致さねばならぬと申すに」
小十郎「申し訳次第もござりませぬ」
政宗「苦しゅうない。じっくりと養生して後から参れ」
小十郎「…」
成実「小十郎は隠居を願い出ておりまする」
政宗「!…何」
小十郎「お許し下さりませ。素より此度は老骨に鞭打ってお供つかまつる所存にござりましたが、薬師の見立てではこの病些か難物の由にござりまする。されば思案の行きつく処、曲げて隠居の儀お申しつけ頂く他はないと心得るに至りました」
政宗「何を申す。そちがおらねば政宗の身上は成り立たん」
小十郎「身に余るお言葉、感涙の極みにござりまする」
政宗「成実と小十郎は幼少の砌(みぎり)より儂(わし)を支えてくれた。有り体に申して政宗は二人を頼りにして来たのだ。片腕をもがれてこの正念場を乗り切れるか」
成実「仰せごもっとも至極。さりながら小十郎は我等より歳かさにて既に精魂を使い果たしたと申しておりまする。かくなる上は格別の慈悲を以て暇を遣わし、ゆるゆると奉公致すべくお申しつけあれかし」
政宗「そうは申しても血気に逸(はや)る忠輝殿をなだめすかすには小十郎の知恵が何より肝要じゃ」
成実「然らばうってつけの人物を推挙つかまつる」
政宗「うってつけの人物?」
成実「小十郎の嫡男でござる」
政宗「…左門のことか」
成実「御意」
政宗「あれはまだ若い」


ちなみにこの時小十郎58歳、政宗48歳、左門は30歳。

成実「若さに似ず極めて冷静沈着。しかも文武両道に秀でた逸物にござる。これに召し出してござりますれば兎に角お目通りの程を。左門!」
片倉左門「はは」
成実「これへ!」
左門「はっ」
政宗「…(ムスッ)」


自分達の若い頃のヤンチャ振りを考えてみれば今の左門が若いと言えた義理ではありません。
それはわかっているのですが、成実に主導権を握られているのが気に入らない政宗です。

左門「ご拝謁を賜り恐悦至極に存じ奉ります」
成実「よもやお忘れではございますまいな。左門は白石城の合戦に於て初陣ながら一番槍の勲功を上げ殿にお褒めの駿馬を頂戴致しました」
政宗「わかっておる(ムスッ)」
成実「面を上げい、左門」
左門「はっ」
成実「若き日の小十郎にそっくりでござろう。いや小十郎よりひと回りもふた回りも器が大きい」
小十郎「それは誉め過ぎでござる」
成実「誉め過ぎではない。左門に家督を継がせ越後へ随行を命ずれば、必ずやお役に立つと推察致しまする」


成実にそこまで言われては片倉家の代替わりを了承せざるを得ない政宗でしたが、ここで得意のへそ曲がり術を発動させます。

政宗「小十郎に随行を命ずる」
成実「これはしたり」
政宗「小十郎でなければならん」
成実「殿はわがままじゃ!」
政宗「わがままだと」
成実「病人を無理に連れて行って何になる」
政宗「たわけ。儂が越後へ連れて行くのは左門じゃ」
成実「?何と仰せられた」
政宗「わからんのか」
成実「さっぱりわかりませぬ」
政宗「左門は片倉家の家督を継ぐがよい。ただし名を変えて片倉小十郎重綱と名乗れ」
小十郎「片倉小十郎重綱」
政宗「そうだ。儂はその小十郎を連れて行く」
成実「殿」
政宗「どうだ、参ったか成実、はははは」
成実「はははは、小十郎の名義替わりとは恐れ入った」
小十郎「世にも有難きお計らい、謹んで承りました。倅は未熟者ゆえ何卒宜しくお引き回し下さりませ」


それにしても、病とはいえ老いた小十郎は痛々しい。かつての凛々しい若武者ぶりを見ているから余計にそう思います。
でもそう思わせるのが役者の演技力。こういう演技を大河ドラマで見なくなって久しいような気がします。

成実「これ左門、いや小十郎、お礼を申し上げよ」
左門「はっ。若輩の身に格別の思し召しを賜り光栄の極みに存じ奉ります。かくなる上は父になり代わって万事御意に従い終生伊達家に忠節を尽くすべく八幡大菩薩にかけてお誓い申しあげます」
政宗「執着じゃ。初代は隠居して備中を名乗れ。片倉備中守景綱の備中じゃ」
小十郎「ありがとうござりまする」
成実「いやぁめでたい。殿の御前ではあるが成実が祝いの品を取らせようぞ。これへ」
左門「はっ」
成実「これは肌小袖と申しての、その昔稙宗候が天子様より賜った宝刀じゃ。わが父実元が上杉家へ養子入りの砌形見分けとして遣わされた」
小十郎「なりませぬ。由緒正しき伝家の宝刀を倅ごとき若造に」
成実「若造とは何事じゃ。家督を継いだ以上今日只今より白石城の城主じゃ」
小十郎「しかし」
成実「成実の祝いが受け取れぬと申すか」
小十郎「…滅相もござらん」
成実「遠慮するな。儂には家を継ぐ子がないのだ」
左門「有り難くお預かり致します」
成実「預かるだと?」
左門「さればこの宝刀は武勇を以て鳴る成実殿の魂にござりますれば、某もまた伊達家一番の武勇を以てご恩返しを致しとう存じます。それまでは肌身離さずお預かり致し、大望を果たしたあかつきに改めて頂戴つかまつります」
成実「なるほど」
政宗「天晴れなる物言いじゃ。構えてその約束を忘れまいぞ。成実の思い入れを確(しか)と受け止め日夜精進の糧と致すべし」
左門「はは」
小十郎「…」


確かに父以上に弁舌鮮やかな二代目小十郎です。
しかし、父に比べて今ひとつ魂が込もっていないように思えるのは気のせいでしょうか?
はたまた単に演技力の違いなのでしょうか?

いずれにせよ、初代小十郎にしてみれば息子の評判がいいのは嬉しいものの、天狗になって人に嫌われぬか心配だったでしょう。
自分も先輩達に疎まれ出奔直前までいった経験がありますしね。

ナレーション「慶長十九年十月、真田幸村ら武闘派が主導権を握った大坂方は戦闘体制に突入。徳川家康も各地の大名に出陣命令を下した。政宗は仙台でこの知らせを聞いた。出陣の途中、政宗は白石城を訪れ療養中の片倉備中守景綱を見舞った」

白石城
この場面では、父小十郎景綱の名演技とともに主君政宗に対する蔦さんと“子”十郎の立ち居振舞いの美しさが光りました。

蔦「主人は中風の病にて手足不自由なれば、かくのごときご無礼の段平にご容赦下さりませ」
政宗「苦しゅうない。楽にいたせ」
景綱「かたじけのうござりまする」
政宗「景綱も蔦も喜べ。そち達は良い息子に恵まれたものだ。成実の申すとおり父親を凌ぐ知恵と胆力を持ち合わせておる」
蔦「恐れ入ります」
政宗「城普請にもことのほか詳しく越後では大いに面目を施した。忠輝殿も大層お気に召され、暇を見ては小十郎小十郎と呼び寄せ相撲を取ったり将棋を指したり、まるで兄弟の如くじゃれ合ってのう、ははは」
景綱「身分をわきまえよ」
子十郎「心得ておりまする」


親心がわかるはずもなく軽く答える二代目です。

政宗「儂は良い家臣を持ったと自負しておったが忠宗はさらに運が良い。片倉小十郎がおる限り伊達家は安泰じゃ」
景綱「殿」
政宗「ん?」
蔦「主人は殿の御前にて片倉家家臣の伝授を致したいと申しております」
政宗「存分に致せ」
景綱「小十郎、これへ」
子十郎「は」
蔦「軍勢総数一千二百。これに記してあります」
子十郎「確かに拝領致しました」
蔦「存じておろう。この馬印は片倉家の宝じゃ。釣鐘の如く名を轟かす武将たれと父上が姉君より授かった品じゃ」
子十郎「有り難く頂戴つかまつります」
景綱「歴戦の馬印じゃ。大戦十四回、小戦数知れず」


初戦は摺上原でしたかね?
視聴者も共に懐かしさに浸れます。

政宗「景綱は全ての戦を儂と共に戦った」
景綱「かえすがえすも此度は無念」
政宗「代わりに小十郎がおるではないか」
景綱「されば小十郎を某と思し召し何卒先陣をお申しつけ下さいますよう、ひとえに」
政宗「相わかった。必ずや先陣の手柄を立てさせようぞ」
景綱「有り難き幸せにござりまする。小十郎、殿のご恩努々(ゆめゆめ)忘れてはならぬぞ」
子十郎「承知致しました。片倉家の名を辱しめぬよう相努めまする」


やっぱりどこか軽いんだよな。
子十郎はこの先父の勘気を被るはずなので、それを見越しての演技ならば大したものですが。

景綱「…人払いじゃ」
子十郎「は?」
政宗「二人だけで話がしたいのじゃ。下がってよい」
子十郎「かしこまりました」


ここから先はエンド・オブ・クレジットが魅せてくれました。

政宗「よう働いた。この手が俺を守ってくれたのだ」
景綱「勿体無や」
政宗「…」
景綱「殿」
政宗「ん?」
景綱「大坂方から誘いの書状は」
政宗「なぜそれを知っている。相変わらずの千里眼じゃ」
景綱「如何なされまするか」
政宗「どうしたものか」
景綱「きっぱりとお断りなされませ」
政宗「断るのはまだ早い。大坂城は天下一の要害じゃ。莫大な黄金が蔵に溢れ浪人も日に日に増えておる。ひょっとするとイスパニアの艦隊が間に合うやもしれぬ」
景綱「海の彼方はあてにはなりませぬぞ」
政宗「やはり家康の勝ちか」
景綱「はい。此度こそは神妙になされませ」


きっぱりと言い切りました。

政宗「…」
景綱「伊達の総軍勢は如何ほど」
政宗「江戸の四千を加えれば一万八千にはなろう。さらに越後勢を加えると」
景綱「越後勢は剣呑至極。決してご同陣は願い出てはなりませぬぞ」
政宗「婿殿は血気に逸(はや)っておる」
景綱「そのご気性が災いの元。大坂への出馬は許されますまい。大坂の戦は大御所の信用を取り戻す戦にござりまする。一にも二にも将軍家が大事」
政宗「…」


まだ迷っている様子の政宗に対し、小十郎景綱が一世一代の未来人発言をかまします。と言うより神職ならではの予知能力の演出でしょうか。

景綱「戦はすぐに収まりまする」
政宗「ん?」
景綱「恐らく大坂方が和睦を申し入れ、大御所とて千姫可愛さに無理押しは致しかねまする」
政宗「それからどうなる」


さすがに政宗も引き寄せられます。

景綱「また戦が起こりまする。来年、もしくはさ来年」
政宗「…」
景綱「その時は殿の存分になされませ。イスパニアの艦隊が間に合うやも知れませぬ…っふう」


ここで力尽きた感。
何とか政宗を引き止められたと感じて安心したのか?それとも…

政宗「小十郎…」
景綱「疲れました」
政宗「横になれ。水でも飲むか」
景綱「…酒が」
政宗「ん?」
景綱「飲みとうござりまする」
政宗「はははは」
景綱「っふっふっふ」


イスパニア艦隊の件は小十郎景綱一世一代の冗談だったのでしょうか?

※「キリシタン」は、戦国時代から江戸時代、更には明治の初めごろまで使われていた言葉(口語)である。もともとはポルトガル語で「キリスト教徒」という意味であり、英語では「クリスチャン」となる。元来はキリスト教徒全般を指すが、実際に使われるこの語は、戦国期以後日本に伝来したキリスト教(カトリック)の信者・伝道者またその働きについてである。たとえば、貿易に関わったオランダ人は、キリスト教徒(プロテスタント)であるが、キリシタンとは捉えられていない。漢字では“吉利支丹”などと書く。1605年には日本のキリシタンは75万人にもなったといわれている。江戸時代以降は禁教令等による弾圧に伴い“切支丹”という表記が一般となった。(Wikipediaより)