『独眼竜政宗』第38回「仙台築城」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

和賀忠親を犠牲にしても家康の政宗に対する謀反の疑いは晴れず、関ヶ原の合戦における論功行賞の結果、伊達家の禄高は六十万石に止まりました。
一方で最上家は二十四万石から五十七万石へと大幅に加増され伊達家と肩を並べる大名家となりました。

伏見城

政宗と家康、どちらもしれっと型通りの挨拶を交わします。

徳川家康「遠路大儀であった」
政宗「麗しきご尊顔を拝しこれに過ぐる喜びはござりませぬ」
家康「暫くじゃの」
政宗「此度の大勝利まことに目出度く御同慶の至りに存じまする」
家康「政宗もよう働いた。礼を申すぞ」
政宗「有り難き幸せにござりまする」
家康「秀忠に会うたか」
政宗「はは、江戸城にて親しく拝謁の栄に浴し身に余るお言葉を賜りました」
家康「それは重畳」
今井宗薫「えー伊達殿より献上の品、目録をお取り次ぎ申し上げます」
家康「宗矩」
柳生宗矩「心得ました」


ここから本題に入ります。

家康「城は」
政宗「は?」
家康「千代(せんだい)城じゃ。普請は捗(はかど)っておるのか」
政宗「荷役の人数が足りず些か難渋致しておりまする」
家康「さもあらん。大阪城より大きな石垣造りの山城と聞いた」
政宗「滅相もござりませぬ。身分相応の城にござりまする」
家康「しかし今どき山城とは珍しい。家臣が登城下城に難渋致すであろう」
政宗「そのかわり足腰が強うなります」
家康「なるほど。兵馬を鍛えて山城に籠り、戦でも起こす所存かのぅ」


ねちねち来ます。
これが秀吉なら眼光鋭く問い詰めるところですが。

政宗「恐れながら、武将たる者は平時にあっても合戦に備え、一旦事ある時は進んで天下のために働く気概が肝要かと心得まする」
家康「ん?…誰のために働くと?」
政宗「天下のため、即ち徳川殿に忠節を尽くす覚悟にござりまする」
家康「それは、良い心がけじゃ」


ここまではお互い腹の内は見せません。
ところが家康はただの狸ではありませんでした。
政宗をはじめ諸大名の動向をしっかり把握していました。

家康「精々大きな城を築いて奥羽の要となすがよかろう」
政宗「かたじけのうござりまする」
家康「屋敷割りは如何致した」
政宗「は?」
家康「士分の屋敷は何坪じゃ?」
政宗「未だ決めかねておりまする」
宗矩「はてこれは面妖な」
政宗「面妖とは?」
宗矩「当家の調べによりますれば千石以上の大身(たいしん)には二千坪、五百石以上には凡そ千坪のはず」
政宗「ははは、さては隠密を遣わされたか」
家康「隠し事はためにならんぞ」
政宗「つい失念致しました」
家康「わしも屋敷割りを致さねばならん、江戸にな、大名どもの屋敷割りをな」
宗薫「内府様は近き将来江戸へ下り関東の地より天下をお治めになられます」
政宗「おぉこれは有り難い。東国武士の誉れにござりまする」
家康「伊達の屋敷は桜田辺りに決めてある。石高に合わせてなるべく大きな屋敷を遣わさねばならんのぅ」
政宗「かたじけのうござりまする」
家康「せっかく千代に城を築いても妻子は江戸に置かねばならんぞ」
政宗「何事も御意のままに」
家康「お主もじゃ」
政宗「!?」
家康「わしが許すまでは帰国の儀まかりならん」
政宗「…恐れながら、国許では城普請の途上なれば」
宗矩「ご懸念召されまするな。当家の調べによりますれば城普請はご家来衆の肝煎りにて滞りなく進んでおりまする」
家康「この度の上洛、真に神妙であった。早う奥方に顔を見せてやるがよい」
政宗「…」


百万石を当てにして大きな城を築き始めたものの、禄高は増えず政宗も帰らず。
岩出山城の鈴木重信や矢代兵衛、茂庭綱元らは、年貢の取り立てやら突貫工事やらで憎まれ役になっているのでしょう。

慶長七年正月
大坂城

政宗「新年の御慶目出度く申し納め、併せて豊臣家のご繁栄を幾久しく寿(ことほ)ぎ奉りまする」
豊臣秀頼「大儀であった」
政宗「はは」
淀殿「政宗殿」
政宗「は」
淀「新年の賀詞は伏見が先か大坂が先か」
政宗「は?」
大野治長「家康殿が先か秀頼君が先かとのお訊ねにござる」


お屠蘇が入って新年早々愚痴をこぼす茶々は、からみ酒の気があるようです。
しかし政宗はこれを余裕綽々で受け流します。

政宗「申すまでもなく我らが主君は太閤殿下でござった。されば秀頼君を差し置いて徳川殿へご挨拶致す訳には参りませぬ」
淀「見上げた心がけじゃ。然るに昨今の大名は殿下への大恩を忘れ先ずは伏見へ年賀に赴く始末。一体秀頼を何と心得ておるのか」
治長「嘆かわしい限りでござる」
政宗「諸大名は骨抜きと相成り何れも徳川へ徳川へとなびきまする。さすれば禄高はうなぎ登り」
淀「政宗殿の加増はたった二万石と聞きましたが」
政宗「ははは、如何なる所以か某は覚え目出度からず」
淀「はて何ゆえじゃ?」
治長「伊達殿には気骨がございます。有り体に申せば目の上のたんこぶ。百万石も与えては背中が危ない」
淀「ふ、けちな性分じゃ。いかにも家康らしい」


淀殿は家康への反感を露骨に表し始めました。
側近大野治長も政宗を懐柔にかかります。
が、ノミニケーションで本音を吐くなどはいかにも稚拙。
秀吉流の人たらし術は秀吉なればこそできたこと。
これでは、権謀術数に優れた家康とその家臣団には対抗できませんね。

治長「ところで、伊達殿は国許に巨大な城を築いておられるとか?」
政宗「いかにも。大坂城、江戸城よりもちと大きい」
治長「ほぅ、いずれは徳川殿が横槍を入れて普請を差し止めるとの噂がござる」
政宗「差し止めるとは笑止千万。まことであれば政宗にも覚悟がござる」
淀「覚悟とは」
政宗「徳川殿を敵に回してひと合戦交えましょうぞ」
淀「さても口惜しきお言葉」
政宗「は?」
淀「そなたが三成殿に与しておれば、むざむざ家康に負けはしなかった」
政宗「お言葉ではござりまするが、三成は器が小さ過ぎ申した。天下を束ねるには清濁併せ飲む器量が肝要かと心得まする」
治長「やはり徳川殿でござるか」
政宗「ここにも一人、おりまするぞ」
治長「!」


政宗は、徳川に対抗するため豊臣の力を利用しようとしています。

淀「ふふふ」
政宗「はははは、お許し下され。つい法螺を吹き申した」
淀「ふふふ、政宗殿、久々に気が晴れました。これを機会に度々大坂に参り秀頼と昵懇にしてもらいたい」
政宗「恐れ入り奉りまする」
淀「治長殿、もっと酒を」
治長「は、誰かある!」


情勢がどう動いても対処できるように先回りして手を打っておくのが政宗流外交政策のようです。
関ヶ原では裏目に出ましたが、全然懲りていませんね。

で、家康との第2ラウンドは伏見城

家康「(ムスッ)」
政宗「伊達の少将政宗、謹んで新春の祝詞を申し上げ奉りまする」
家康「…政宗は幾つになった」
政宗「三十六と相成りました」
家康「相変わらず腕白じゃの」
政宗「は?」
家康「淀殿はわしの悪口を言うておったか」
政宗「ご機嫌斜めでござりました」
家康「あの鼻っ柱の強さはどうにもならぬ」
政宗「いっそ攻め潰して秀頼君をお斬りなさりますか」
家康「(チッ)それでは太閤殿下との約束が反故になる」
政宗「然らば大坂へおいでなされませ」
宗矩「僭越でござるぞ伊達殿、内府様に指図をなされるか」
政宗「黙らっしゃい!徳川殿は道義を以て国を立てると仰せられた。道義とは即ち筋を遠し理を尊ぶものと心得まする。秀頼君はご幼少なれどやがて関白に任ぜられるお方、臣下の礼を尽くすは当然至極かと存ずるが如何に」


豊臣の威を借りたとは言え、家康に理を以て言い返せるとは流石は政宗。
しかし、その政宗のさらに上を行くのが家康の家康たるところです。

家康「…政宗」
政宗「は」
家康「近う」
政宗「…」
家康「お主の言うこと、いちいち尤もじゃ。秀頼はいずれ関白となろう。がしかし世の中は変わった。何人といえども武将の手を借りずして天下の秩序は保てまい」
政宗「…」
家康「ま、我慢比べじゃのぅ」
政宗「?…」


家康は二月になってからやっと大坂城を訪れ、秀頼に新年の挨拶をしました。
しかし、淀殿をはじめ秀頼の側近達は家康に対する高姿勢を変えませんでした。
なるほど我慢比べですね。

第3ラウンドは今井宗薫の茶室

家康「大坂の連中は気位が高い。秀頼に六十万石を与えると申すのになんじゃかんじゃと難癖をつけよる」
政宗「馬には人参、猫にはまたたびがよう効きまする」
宗薫「またたび?」
政宗「淀殿をしとめるのでござる」
家康「殺すのか?」
政宗「いえいえ、色仕掛けで」
家康「誰が」
政宗「無論、家康殿の手練手管で」
家康「ははは、埒もない」
政宗「ははは、秀頼君を引き取って家康殿がお育てになると仰せられればよろしゅうござりましょう」
家康「お主は知恵者じゃ」
政宗「痛み入りまする」
家康「だがな、六十一歳のこの身には無理は禁物。急がず騒がずゆっくり待てば自ずと道は開けよう」
政宗「恐れながら、政宗は些か気が短うござりまする」
家康「ん?お主が口説くと申すのか?」
政宗「いやその儀はご勘弁を」
家康「じゃあ何の話じゃ」
政宗「されば、徳川殿の寛大なるお計らいにより千代の城はつつがなく落成の運びと相成りました。つきましては、普請成就の祝儀のため帰国のお許しを賜りとう存じまする」
家康「まだ早い」
宗薫「恐れながら、伊達殿は千代城に天守閣の造営を差し控えられました。これ即ちご公儀への遠慮にござりまする」
家康「存じておる」
政宗「江戸には総領の秀宗を差し出しておりまする。伏見には嫡男の虎菊丸を置いて参りまする」
家康「政宗」
政宗「は」
家康「千代、千代と声高に申すな。わしに遠慮があるならば先ず江戸屋敷に入るのが順序であろう」
政宗「…」


十月、政宗は家康に随行して江戸へ下り、家康の三男徳川秀忠に謁見しまた。

慶長八年二月十二日、朝廷は徳川家康を征夷大将軍に任命しました。
これは、武家政治を目指す家康が名実ともに最高権力者の座に就いたことを意味します。
一方で家康は豊臣秀頼を内大臣に推し、その妻として孫娘の千姫を送り込んで大坂方の懐柔を図りました。

ここまで来て漸く政宗は帰国を許され、五郎八姫の縁組みも進められることとなりました。
鞭が多かった後での大きな飴です。

千代を仙臺と改め新たなホームグラウンドとした政宗は、この東北の沿海地から天下をうかがう大望も新たにしたのでした。

※大久保長安(おおくぼながやす)は、戦国時代の武将。天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵太夫十郎信安の次男として生まれる。長安は武田信玄に見出されて、猿楽師では無く家臣として取り立てられ、譜代家老土屋昌続の与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安は蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。信玄没後は武田勝頼に仕えた。天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍の侵攻(甲州征伐)によって甲斐武田家が滅んだ後、長安は家康の家臣として仕えるようになる。長安は大久保忠隣の与力に任じられ、姓を大久保に改めた。長安は堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐国の内政を再建したと言われている。天正18年(1590年)の小田原征伐後、長安は奉行に任じられ、家康が関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い後、長安は異例の昇進を遂げた。家康が長安の経理の才能を高く評価していたことがうかがえる。慶長8年(1603年)2月12日、家康が将軍に任命されると、長安も特別に従五位下石見守に叙任され、家康の6男・松平忠輝の附家老に任じられた。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったことから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称され、大久保忠隣と共に大久保派を幕府内に形成した。しかし晩年に入ると、全国鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、代官職を次々と罷免されていくようになる。慶長18年(1613年)4月25日、卒中のために死去した。享年69。長安の死後、生前に長安が金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財をしていたという理由で、長安の7人の男児は全員処刑され、縁戚関係にあった諸大名も連座処分で改易などの憂き目にあった。(大久保長安事件)。(Wikipediaより)