『独眼竜政宗』第34回「太閤の死」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

鬼庭綱元が太閤秀吉に気に入られて茂庭姓を賜ったばかりか賭け将棋に勝って愛妾香の前を下げ渡されたのを不快に思った政宗が綱元に辛く当たったせいで伊達家を出奔したという通説に拠らずとも、全くのフィクションでありながら成実出奔の顛末と合わせて視聴者に「さもありなん」と思わせる。
小説より奇な事実よりもさらに面白い脚本、いつもながら本当に行き届いた大河ドラマです。

政宗「はははは」
片倉小十郎「それは痛快至極」
政宗「流石の太閤も顔色を失うて呆然としておった。はははは」
伊達成実「香の前は如何なされた」
政宗「綱元の家に預けておる」
成実「直ちに返上したほうがよい」
政宗「ん?」
成実「手痛いしっぺ返しを食いまするぞ」
政宗「懸念致すな。ほんの座興じゃ。のぅ」
成実「座興では事が済みますまい」
政宗「…」
成実「綱元」
茂庭綱元「は」
成実「お前は秀吉に仕えたいのか」
茂庭綱元「?…綱元は勝ち申した」
成実「負けていたらどうなった。太閤は成り上がり者ゆえ諸大名に引き比べてお側衆が手薄い。さればこそ嘗ては小十郎に目をつけ此度は綱元に目をつけ自らの家臣に引き入れようとしたのだ」
綱元「…」
成実「それくらいも見抜けなくて伊達の奉行が勤まると思うか」
綱元「…」
小十郎「仰せの儀はごもっとも。されど綱元殿とて止むに止まれず勝負に及んだものと覚えまする」
成実「賭け将棋だけではない!綱元は先祖代々の名字を捨て秀吉の命名を甘んじて受けた。左月が生きておれば烈火の如く荒れ狂うに相違ない」
小十郎「成実殿、天下人に名を賜るは部門の誉れではござらぬか」
成実「家名こそ武士の拠り処ではないか」
小十郎「…」
成実「返上せよ。名字も女子も返上して伊達の気骨を示すべし」
政宗「その儀に及ばず」
成実「!」
政宗「賭け将棋を許したのはこの俺だ。茂庭姓も俺の目の前で与えられた。綱元を責めるなら俺を責めるに等しいと思え」
成実「(ムッ)…ならば敢えて所信を申し上げる。太閤殿下の気まぐれはようご存知のはず。近づき過ぎては剣呑でござる」
政宗「(ムッ)百も承知じゃ」
成実「承知ならば徳川殿の如く一線を画されよ。足繁くご機嫌伺いに出入り致すは、茶坊主同然」
政宗「(カッチーン)…茶坊主だと」
小十郎「(おいおい)…成実殿」
成実「(言ったがなんだ)…」
政宗「(プチッ)…今一度申して見よぉ!」
綱元・小十郎「(大将、刀はマズイよ)お待ち下さりませ!」
成実「(斬れんのかよ)成実の諫言お気に召さずば遠慮なくご成敗願いたい!」
政宗「(コイツここんとこ下手に出てたら図に乗りやがって)おのれ!」
小十郎「(抜いちゃダメだよ)殿!」
綱元「(あー謝っちゃお)綱元が悪うございました。深くお詫び申しあげます」
成実「殿に申しておる!」
政宗「黙れ成実!今日こそは赦さんぞ!」
小十郎「(おいおい抜きそうだよ)なりませぬ!」
綱元「(ダメだこいつら)これにてお引き取り」
成実「離しおろう!」
綱元「(ええ加減にせんかい)成実殿!」
小十郎「(調子こいてんじゃねーぞ)お控えなされ!成実殿!」
成実「(ハッ)…はははは、は、俺としたことが…ご無礼仕った(退室)」
政宗「成実ぇーっ!」


まぁ、根は体育会系脳筋同士の喧嘩ですかね。
しかし、怒鳴ってスッキリした政宗とは異なり、成実には積もり積もった鬱屈がありました。

登勢「如何なされました?いつになく悲しそうなお顔。ご気分が優れぬのでは?」
成実「…登勢」
登勢「はい」
成実「お前は在所に戻れ」
登勢「何を仰せられます 」
成実「離縁すると申しておるのだ」
登勢「ま、またそのような戯言を」
成実「俺には武士の何たるかが解らなくなった。何のために生きているのか、何のために伊達家の禄を食んでいるのか」
登勢「武士は家名を重んじ主君のために死ぬるものでござりましょ?」
成実「昔はそうであった。侍はこぞって己れの死に場所を求めたものだ。然るに今の武将は皆秀吉に牙を抜かれ猫の如く手なずけられておる。口先上手のご機嫌取りが幅を利かす世の中だ。俺のような武骨者は…お家の役には立たん」
登勢「いいえ、決してそのようなことは…」
成実「お前には判らん!俺は伊達家の厄介者だ!」
登勢「…」
成実「平時にあっては無用の長物なのだ」
登勢「情けないお言葉」
成実「確かに情けない。己れ自身に腹が立ってならん」


どっかの似非軍師のように悪さを人のせいにしないのは偉いです。

登勢「では登勢を離縁すればお気持ちが晴れるのでございますか」
成実「俺はこのまま逼塞(ひっそく)して虚しく朽ち果てとうはない。己れを活かす道を求めて諸国流浪の旅に出る」
登勢「滅相もない。殿がお許しになりませぬ」
成実「許しなど要らん。俺は黙って出ていく」
登勢「登勢は、登勢は嫌でございます」


優しくか弱い登勢さんが強がっていながらつい漏らした「嫌でございます」。
これは成実ならずともぐっと来ますね。

成実「聞け。離縁は元より不本意だが俺の罪をお前たちにまで及ぼしとうはないのだ」
登勢「それではあまりに身勝手過ぎます。残された家臣はどうなるのでございます」
成実「右馬之助には因果を含めておく。武士の心を持つ者ならば俺の胸の内は必ず察してくれよう」
登勢「(慟哭)」
成実「泣くな登勢、俺は身を以て武士の本分の何たるかを殿に問いかける。嵐に耐え抜く男が大切か、風流の道に勤しむ男が大切か」
登勢「ならばいっそ登勢に離縁ではなく死ねと仰せつけられませ」
成実「埒もない事を申すな」
登勢「生きている限り登勢は伊達成実の妻でござります」
成実「…」
登勢「どうしても出奔なさるお覚悟なら登勢は角田の城で殿のお帰りになるのをお待ち申し上げております」
成実「…」


登勢さん、それでこそ武将の妻の鑑です。
しかし、この覚悟が後に大きな悲劇を生むのでした。

一方、成実との喧嘩など子供の頃から何度も繰り返していたであろう政宗は、

政宗「出奔?」
小十郎「秘かに手を尽くして調べましたるところ既に京を離れた模様にござりまする」
政宗「慮外者め、一体何を考えておるのだ」
綱元「お赦し下さりませ。これは綱元へのご不満の表れに相違ござりませぬ」
政宗「捨て置くわけにはいかん。直ちに追っ手を差し向けて連れ戻すよう成実家中に申しつけよ」
小十郎「それが西へ下ったとも言い北へ向かったとも言い、とんと行方が分かりませぬ」
政宗「草の根を分けても探し出すのだ」
小十郎「されどあまり騒ぎ立てましては何事かと怪しまれまする」
政宗「不埒者めが」
綱元「殿、お願いがございまする」
政宗「…」
綱元「何卒綱元に暫しのお暇をお申しつけ下さりませ。恐れながら、身分を離れ成実殿の探索に専念致しとうござりまする」
政宗「何処を探すのだ」
綱元「先ず国許に帰ってくまなく探し、次に然るべき諸大名の城下を訪ね、何年かかっても必ずや探しあて帰参の儀を乞い願う所存にござります」
政宗「乞い願うには及ばず!あくまでも強情を張るなら俺にも考えがある」
小十郎「殿、成実殿は伊達家の柱石にござりまする。奥羽戦乱の巷に在ってよく殿を助け数多の危機をくぐり抜けた第一の功臣にござりまするぞ」
政宗「…」


茂庭綱元は暇を許され成実探索の旅に出ましたが手がかりはなかなか掴めませんでした。
んー、上手いですね。

慶長三年二月、太閤秀吉は越後の上杉景勝を会津に移し蒲生氏郷の子秀行を宇都宮に引き退かせました。

小十郎「会津のみならず仙道、置賜(おいたま)、さらに刈田郡(かったごおり)を併せた所領でござる」
留守政景「苦々しい限りじゃ」
大内定綱「さては伊達家に睨みを利かせるご所存か」
小十郎「恐らく石田三成殿のからくりであろう」
政景「何処までも執念深いお方じゃの」
政宗「それだけではなかろう。上杉を会津へ回したのは背後から徳川家康を押さえ込むためだ」
定綱「なるほど」
政宗「三成は殿下亡き後の布石を着々と打っておる。差し当たり目の上のたんこぶは徳川家康。無論我々も油断はできん」
定綱「殿のお見立てでは石田殿と徳川殿いずれが人物にござりましょうか」
政宗「何とも言えん。石田三成は剃刀のような男だ。秀吉の髭の塵を払いながら淀の方を籠絡して秀頼を抱え込む魂胆と見える」
定綱「うぅむ、となると三成殿が勝っておると」
政宗「家康は嫡男秀忠の正室に淀の方の妹を申し受けた。婚姻を通じて権勢を広げる構えだ」
定綱「ま、何れにしても鍵は淀の方が握っておりまするな


いつもながらの視聴者教育ありがとうございます。

政宗「成実が此度の領土仕置きを聞けば何と申すかのぅ」
政宗・小十郎「もう我慢がならん…はははは」
政宗「…まだ居場所は分からんのか」
小十郎「手を尽くしておりまするが、残念ながら」
政宗「…」


歳上ばかりの伊達家臣団の中にあって自分より歳下でありながら勇猛さでは敵わない成実を失った寂しさを痛感している政宗でした。

さて、今回の主題は太閤秀吉の死。
死に瀕した秀吉が大老奉行五人に秀頼の今後を託す場面は、お世辞抜きに圧巻。
なぜ勝秀吉だったのか?その答えがここにありました。

鼾をかいて眠っている秀吉の枕元には北政所、淀君そして秀頼。
秀吉がうなされて目を覚まします。

秀吉「おぉ…ぞ、象が…わしを踏んでいった」
淀君「殿下、夢をご覧あそばされたのですね」
北政所「殿下のご覧になった象は呂宋国の貢物にござりまする」
秀吉「拾丸…象を見たことあるか」
秀頼「はい、大きゅうございました」
北政所「大きゅうてもおとなしゅうございます」
淀「それから…」
秀頼「鼻が長うございました」
秀吉「よう、よう覚えておるのう」


可愛いね、秀頼。

稲葉是常坊「お歴々の御成りにござりまする」

お歴々とは大老前田利家と徳川家康、奉行は浅野長政、前田玄以そして石田三成です。

彼らが秀吉の居室に腰を屈めて入るカットの前に廊下を速足でずんずん歩くカットを入れることで伏見城の大きさが想像できます。
こういう所も上手い。

五人は次の間に座して秀吉に拝礼。

秀吉「近う」

秀吉の声があって初めて居室に入れます。

比べるのもおぞましいのですが、上座であろうが人のプライベートスペースであろうがズカズカと上がり込む無礼な成り上がり軍師を主人公にしたジュニア大河を見せられている大河ドラマファンにとっては、涙が出るほどに美しい場面です。

そして一人ひとりが秀吉に呼ばれます。
声をかける、つまり遺言を申し渡すのは当然ながら秀吉の方です。
どっかの道化芝居のように長々とお別れの言葉を垂れ流す不調法者は誰もいません。

秀吉「大納言」
前田利家「はは」


利家は枕元まで進みます。

秀吉「前田殿と、わしとは…幼友達。秀頼の傳役…お頼み申しまする」
利家「承知、仕りました」
秀吉「お頼み…申しまする」
利家「かたじけのうござりまする」


これは、伝わりますね。

秀吉「内大臣」

家康も枕元へ。
既に鼻をすすっています。

秀吉「孫娘…ひ、姫は…孫」
家康「千姫にござります」
秀吉「秀頼、千姫殿のえん、縁組…」
家康「有り難き幸せに存じ上げ奉りまする」
秀吉「お頼みも…申しまする。秀頼、お頼み申しまする」
家康「(落涙)」
秀吉「お頼み申しまする。秀頼…」
家康「確かに」


ここで冷めた視線の三成のカットが入りました。
これは後で効いてきます。

秀吉「前田玄以よ」

前田玄以は秀吉の足元までしか進めません。
画面のアングルが広がり稲葉是常坊が佑筆を勤めていることがわかります。

秀吉「その方、伏見城の留守居役申し付けるぞ」
玄以「はは」


自分は居なくなるという意味です。
責任の重い役目です。

秀吉「お頼み申しまする」
玄以「は」


秀吉「(北政所の手を取り)長政」
長政「(黙礼)」


長政は枕元まで。

秀吉「そちは寧々の妹婿…言わずとも…」
長政「(黙礼)」


そして大トリは、

秀吉「みつなりぃ」
石田三成「ははっ」


淀君の目つきが変わります。
三成は秀吉の足元に座ります。

秀吉「そちは大納言の意に従い秀頼の指南役、申しつける」
三成「ははっ、身に余る大役恐悦至極に存じ上げ奉ります」


あまりにも型通りの挨拶。
のちに関ヶ原で東西に分かれる家康、長政の視線が厳しくなります。

秀吉も何かを感じたのか、「お頼み申しまする」とは言いません。
その代わり

秀吉「秀頼がそちを殴ろうとも、草履取りを命じようとも、この太閤のした事と思え」
三成「!はっ、神明に懸けて心得ましてございまする」


流石の三成も、草履取りと言われてビクっとしていました。
死の間際でありながらも恐い秀吉を演じられる。恐るべき演技力です。

秀吉「ほかに望むことはない。秀頼こと、お頼み申し上げる。お、お頼み申し上げ…」

この場面の視聴中は全く言葉が出せませんでした。

※前田玄以(まえだげんい)は、豊臣政権の五奉行の1人。天文8年(1539年)、美濃に生まれる。はじめは尾張小松原寺の僧侶であったが、後に比叡山延暦寺に入った。しかし織田信長に招聘されて臣下に加わり、後に信長の命令でその嫡男・織田信忠付の家臣となる。天正10年(1582年)の本能寺の変に際しては、信忠と共に二条御所にあったが、信忠の命で嫡男の三法師を連れて京都から脱出、美濃岐阜城、さらに尾張清洲城に逃れた。天正11年(1583年)から信長の次男・信雄に仕え、信雄から京都所司代に任じられたが、天正12年(1584年)に羽柴秀吉の勢力が京都に伸張すると、秀吉の家臣として仕えるようになる。文禄4年(1595年)に秀吉より5万石を与えられて丹波亀山城主となった。豊臣政権においては京都所司代として朝廷との交渉役を務め、天正16年(1588年)の後陽成天皇の聚楽第行幸では奉行として活躍している。また寺社の管理や洛中洛外の民政も任され、キリシタンを弾圧したが後年には融和政策も採っている。慶長3年(1598年)、秀吉の命令で豊臣政権下の五奉行の1人に任じられた。秀吉没後は豊臣政権下の内部抗争の沈静化に尽力し、徳川家康の会津征伐に反対した。慶長5年(1600年)、石田三成が大坂で挙兵すると西軍に加担、家康討伐の弾劾状に署名したが、一方で家康に三成の挙兵を知らせるなど内通行為も行った。また豊臣秀頼の後見人を申し出て大坂に残り、更には病気を理由に最後まで出陣しなかった。これらの働きにより関ヶ原の戦いの後は丹波亀山の本領を安堵され、その初代藩主となった。慶長7年(1602年)5月20日に死去。享年63。(Wikipediaより)