『独眼竜政宗』第33回「濡れ衣」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

秀次謀反の連座に問われ絶体絶命の政宗。
今回は過去二回のように秀吉に直訴する機会を与えられず、大坂の施薬院全宗宅で判決を受けます。

前田玄以「上意!伊達政宗を流罪に処す」
政宗「!」
玄以「子息兵五郎を家督に立て伊達家を継がしむるべし」
政宗「お待ちくださりませ」
玄以「神妙に神妙に。在所にある家臣どもを直ちに上洛せしめ、上意に基づき些かも不満なく兵五郎に奉公致す旨連判状をもって奏上仕るべし」
政宗「…」
玄以「また、政宗配流の地には何人と言えども通信致すこと罷(まか)りならず。政宗は配流の御沙汰あるまで聚楽屋敷に蟄居致すべし」
政宗「…」
施薬院全宗「喜ぶべし伊達殿。重畳至極じゃ」
政宗「喜べとは如何なるご所存か」
全宗「兎も角、お家の廃絶は免れたではないか。お主は切腹を覚悟していたはず」
政宗「命が惜しいわけではござらん。某は無実を訴えておる」
稲葉是常坊「虫が良すぎるぞ伊達殿。我等が如何に奔走し如何に殿下の御前を取り繕うたか、お察しなさるがよい」
木村吉清「左様左様、直訴に及んだ家臣の助命も我等が取りなしたのでござる」
片倉小十郎「恐れながら、兵五郎君は当年四歳にござりまする。家督の儀は未だ心もとなく家臣にとっては晴天の霹靂」
玄以「それを申せば伊達家は断絶じゃ」
伊達成実「然らば逆心無き者を逆心と断じ島流しの重罪を賜るのが御政道でござりましょうか!」
玄以「黙らっしゃい!」
吉清「頭が高いぞ」
玄以「家来の分際で御政道を云々するとは不埒千万!」
政宗「…重々お詫び申し上げまする」
成実「殿」
政宗「逆心表意の疑念を抱かれたるは某の不徳。お歴々のご高配は身に染みて有り難く存じまする」
玄以「然らば観念なされよ。この期に及んではお家の存続を以て重畳とせねばなるまい」
政宗「上意、謹んで承りました」
玄以「それは重畳。もし不服を申し立てれば秀次殿同様一族皆殺しの憂き目を見る処でござった」
政宗「…」
小十郎「…」
成実「…」
吉清「くれぐれもお力落としの無きよう。ご子息の前途は我等が格別の計らいを以て案内仕る」
政宗「…」


心の声(政宗「悪いがおまいらが束になっても三成ひとりに敵わないだろうよ」)

さて、

成実と留守政景は徳川屋敷を訪れ家康に赦免嘆願を行いますが、家康は血の気の多い成実を煽って謀反をそそのかします。
しかしこれは、政宗の本心と家臣に対する影響力を量るためのものでした。

茶室にて

秀吉「伊達はどうじゃ」
家康「謀反の動きがござりまする。が、政宗が秘かに我が屋敷に参り、『秀次様より頂いた餞別、これは全て太閤殿下より賜りしもの。この御礼は伊達家子々孫々に於て豊臣家に忠誠を尽くす事が臣としての礼と心得まする』と斯様に申しております」
秀吉「…」
家康「また、此度の流罪に於ても『殿下の大きなお教えとして御意に従う覚悟でござる』…何とも出来過ぎた物言い」
秀吉「ゴホゴホ、政宗の心根、家臣共に伝わっておらんのか」
家康「その儀にござりまする。如何様に兵を集めて謀反を起こそうとも、はは、此を取り潰すは容易きこと。殿下のお手を煩わせずともこの家康が…が、その時殿下にお止めいただきますると…」


心の声(家康「どうせぃっちゅうねん」)
政宗を助けて良いのか悪いのか?秀吉の真意を測りかねている家康でした。

秀吉「ゴホゴホ」
家康「おいしいお茶でござりました」
秀吉「どうじゃその茶碗は」
家康「今焼き、でござりまするな」
秀吉「その茶碗、利休が欲しがっておる。…その方に遣わそう」
家康「?…」
秀吉「利休に言うでないぞ」
家康「!」
秀吉「おもろい奴よのう。ゴホゴホ」


ここは秀吉がボケをかましているとは思えません。
耄碌か?認知症か?狂気か?
おもろい奴とは政宗のことか?家康か?

訳わかんね。
でも面白い。

さてさて、

政宗が隠居の覚悟を決めた八月下旬のある夜、徳川屋敷の門前に奇怪な高札が立てられました。
文面の内容は秀次反逆事件の中心人物は伊達政宗と最上義光であるという告発です。

秀吉「(高札)日本国を二つに分け、東を伊達越前守政宗、西は最上出羽守義光に与え…」
家康「よりによって我が門前に立てるとは大胆不敵」
秀吉「ははは、誰じゃ、こんな阿呆な事を書く奴は。政宗はだいぶ贔屓がおる思うとったが、恨んでる奴もおるのやの」
家康「…」
秀吉「お前どない思う。日本国を二つに分け東が政宗、西が義光。こんな絵空事みたいな事を書く奴はよっぽどの阿呆か…大人物か…(ジー)」
家康「!これは異なことを。有り体に申せば、某この儀…太閤殿下のからくりと推察致しておりまするが」
秀吉「ほほほ、はははは」
家康「はははは」


猿と狸の化かし合いでしょうか?

訳わかんね。
でも面白い。

秀吉「だがのぅ家康、人を見るのは難しいのぅ。鯛や魚に例えれば、これは鯛やと思う奴が鮒になりよる。政宗は鯉、鯉の洗いよ」
家康「鯉の洗い?」
秀吉「噛まずに飲み込めば小骨が喉へ突き刺さりよる。よう噛めばそれなりに味も出てきよる」
家康「…」
秀吉「…」
家康「政宗も本気で観念を致しておりましょう。殿下が今思いがけずお手を差し伸べればひれ伏して未来永劫御意に従いましょう」
秀吉「…ふぐ」
家康「は?」
秀吉「河豚」
家康「(俺?)」
秀吉「旨い。河豚は旨い…食いようによっては命を落とす。のぅ」
家康「罪を赦し恩を与え、拾丸様への忠誠を誓わせる…なるほど…!?」
秀吉「zzz…」
家康「???…」


何処までが猿と狸の騙し合いなんだか?役者のアドリブ合戦なんだか?

訳わかんね。
でも面白い。

わかんないままに、家康の取りなしで事態は一変。
謀反の疑いが消え、流罪は取り消しになりました。
めでたしめでたし。

以下はおまけ。

前田利家「何はともあれ祝着至極」
吉清「伊達殿は不死身でござる」
政宗「これみなお歴々様のお陰にござりまする」
福島正則「お前が片倉小十郎か?」
小十郎「はは」
正則「賤ヶ岳七本槍の福島正則じゃ。見知りおけ」


通説では福島正則は七本槍の連中と同列にされるのを嫌がったそうですが、ここは小物感全開。

小十郎「御拝顔の栄に浴し恭悦至極に存じまする」
正則「そちは嘗て太閤殿下より田村領五万石を遣わされながらにべもなく断ったそうだな」
利家「おお、その話はわしも聞いておる」
吉清「なぜ断った」
小十郎「恐れながら、某は伊達家の家臣にござりますれば」
正則「無礼千万ではないか。殿下は天下人なるぞ。政宗は高々むちょうりのへんぷくではないか」
利家「ん?むちょうりのへんぷく」
吉清「なんじゃそれは」
正則「むちょうりのへんぷくでござる。はははは」


こいつ、知らずに喋ってた?

政宗「福島殿、無鳥里即ち鳥無き里、蝙蝠はコウモリの事でござろう」
吉清「なになに無鳥里は鳥無き里、蝙蝠は、おぅコウモリか」
政宗「は」
正則「(ムッ)学があるのぅ」
是常坊「して、その心は」
政宗「奥羽は鳥無き里にてさしたる武将もおらず、政宗如きコウモリ風情が大手を振っておると、斯様に仰せられたのでござろう」
正則「不服があるのか、伊達政宗!」
政宗「…」
小十郎「…恐れながら、福島様はちんちくりんのりんりんにござりまする」
正則「???」
吉清「ちんちくりんの、りんりん?」
利家「どういう意味じゃ」
小十郎「お当て下さりませ」
全宗「はてさて、それは大和言葉か」
正則「むぅ~」


宿題を持ち帰ったシズガタケ七本槍。

是常坊「ちんちくりんのりんりんか」
吉清「ええぃ、何処にも見当たらん」
正則「何としてでも見つけねば正則の男が立ち申さん」


安い男だな。

是常坊「伊達家には和学漢学に通じた家来が揃うておりまするぞ」
正則「ん~」
吉清「ちくりんは竹の林、ちんは珍味の珍でござろうか。珍しき竹林に、つまりその、りんりんという木がある」
正則「お!」
吉清「いや例えばの話でござる」
正則「えぇい!小癪な若造がぁ。う゛ー」


一方伊達の宴席では。

小十郎「ははは、要するにチンチクリンとは、さるお方でござる」
石川昭光「さるお方?」
大内定綱「左様つまり猿に似たお方かな?」
一同「(笑)」
小十郎「猿回しの猿の首には鈴がついており、リンリンと鳴りまする」
成実「なるほど、福島正則は太閤の首にぶら下がった鈴か」
一同「(笑)」
定綱「痛快至極だ」
政景「チンチクリンのリンリンか」
一同「(笑)」
政宗「太閤の腰巾着は福島正則にあらず」
定綱「は?」
政宗「秀吉に媚びへつらい淀の方や拾丸殿を篭絡せんと試みおるは石田三成。讒言を以て関白に腹を切らせ、俺の流罪追放を図ったのも石田三成。いずれあ奴には煮え湯を飲ませてやらねばならん」
一同「…」


心の声(一同「あーあ、大将やっぱり懲りてねーよ」)
伊達家臣団の苦労はまだまだ続くのでした。

※石川昭光(いしかわあきみつ)は、天文19年(1550年)、伊達晴宗の四男として生まれる。永禄6年(1563年)、三芦城主・石川晴光の養嗣子となる。永禄11年(1568年)、晴光が隠居し石川家跡を相続、第25代当主となる。天正2年(1574年)、蘆名盛氏が佐竹義重と白川郡、石川郡の覇権、支配権をめぐって戦う。閏11月には、実兄・輝宗が昭光を含む関係諸家の調停に奔走して蘆名氏・白川氏と佐竹氏の講和が実現した。しかし、田村清顕は同天正2年、須賀川勢(二階堂氏)の手切れを受けて二階堂領を攻め、さらに勢いに乗って蘆名・白川領まで攻め入っており、輝宗の調停に応ずることはなかった。輝宗は石川氏と連携して田村氏・相馬氏の牽制を図るが、石川氏は蘆名氏を最たる脅威として佐竹氏に従った。天正12年(1584年)実家の伊達氏の当主が輝宗から甥の伊達政宗へ代替わりし、蘆名氏・佐竹氏との対立姿勢を強めるようになると、昭光は伊達氏と敵対するようになった。その後、天正17年(1589年)の摺上原の戦いで伊達氏が蘆名氏を下し、須賀川の二階堂氏をも下すと、石川昭光と白川義親は伊達氏の軍門に属した。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しないことを咎められ奥州仕置にて三兄・留守政景、白川義親らと共に改易、領地没収となった。天正19年(1591年)、政宗が岩出山に転封されると、昭光は政宗に謁し、松山城6,000石を賜わり、以後は伊達家に属した。伊達家では一門筆頭の家格を与えられる。文禄2年(1593年)、文禄の役に出陣。文禄4年(1595年)、関白豊臣秀次謀反事件に関連し政宗に疑いがかけられると、政宗は伊達家重臣19人の連判誓詞文を提出。嫡男義宗はこのとき御一門筆頭として最初に署名がなされている。慶長3年(1598年)、1万石へと加増され角田城に移住する(角田城は成実の居城であったが上洛の後出奔し知行主不在の状態であった)。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に昭光は石川家中を率いて参陣。元和7年(1621年)、合高12,000石を嫡孫の宗敬に引き継ぐ。元和8年(1622年)7月10日、角田城にて死去。享年73。(Wikipediaより)