『独眼竜政宗』第31回「子宝」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

ナレーション「天下統一を終えた秀吉の次の目標はアジアであった。中国、インド、フィリピンを征服し都を北京に遷して天皇を迎える、この途方もない計画の第一歩が朝鮮出兵であった。日本軍は最大十六万の兵力を以て七年もの間朝鮮の国土を蹂躙した。これは我々の認識を遥かに超える大戦争であり朝鮮半島の人々の胸には今もなお生々しい悲劇として記憶されている。文禄元年四月、全国から三十万の軍勢が肥前名護屋に結集、西国勢を中心とする第一陣が海を渡った。日本軍は漢陽則ち今のソウルと平壌を落とし八月には朝鮮半島の大半を支配したかに見えた。しかし十二月末、明の援軍十万が駆けつけると形勢は逆転。日本軍は漢陽に退却して防戦一方となった。さらに朝鮮の水軍は半島南岸の制海権を奪い名護屋~釜山間の補給路を脅かした。第二陣の出発命令が下るのはいつか、政宗は歴史の巨大な渦に巻き込まれてただ待つしかなかった」

アバンタイトルのナレーションに簡単な地図とアニメーションで文禄の役を分かりやすく解説してくれました。
いつもながら視聴者教育には抜かりがありません。

一方、出陣を待つ政宗の陣所では抜かりが出て来ました。

兵「申し上げます」
片倉小十郎「どうした」
兵「遠藤文七郎殿、陣所を立ち退き出奔なされた模様にござりまする」
伊達成実「なにぃ」


遠藤文七郎は亡き遠藤元信の嫡男です。
あろうことか、村娘と駆け落ちしたのでした。
ちなみに文七郎は妻帯者です。

原田左馬助「文七郎、神妙に致せ。かかる大事の時に持ち場を離れて駆け落ち致すとは言語道断。それでも武士の端くれか!」

文七郎は村娘の元へ逃げた所をあっと言う間に捕縛されてしまいます。
お粗末な逃亡劇でした。

小十郎「女にかまけて姿を隠すとは。遠藤家は宿老の家柄ではないか。大殿に殉死した元信殿があの世で嘆いておられようぞ。陣中における逃亡は大罪と知っての事か」
遠藤文七郎「承知致しております」
成実「打ち首は免れんぞ」
文七郎「…」
小十郎「ご裁断の前に申し分があらば聴く。有り体に述べよ」
成実「文七郎」
文七郎「武士は人を殺さねばなりません。某は殺し合いが恐ろしゅうござります」
成実「情けない奴だ」
文七郎「殺す相手には親も子もござりましょう。恋女房もござりましょう」
成実「それを考えて戦ができるか!」
左馬助「敵を殺さねば我等が殺されるではないか」
文七郎「…」


これで黙りこんでしまうとはますます情けない奴。
どうやら恋愛ではなく長い間待たされて「イクサハイヤデゴザイマス」病にかかったようです。

小十郎「よいか文七郎、国許では留守居の衆や民百姓が食うものも食わず食料を送ってくれる、有り難い事だ」
左馬助「その通り」
小十郎「我等が戦に勝てば恩賞を受けて国許が潤う。伊達家は国許も戦場も殿の御差配の元に一心同体でなければならん」
文七郎「…」
政宗「文七郎、心の迷いは誰にでもある」
成実「!」
政宗「文七郎出奔の儀、此度はとくに父元信の功績に免じて咎めるに及ばず。早々に帰参致し己が陣中の乱れを立て直すべし」


かつて陣中の逃亡者を見せしめのためことごとく銃殺した成実にとって、政宗の裁きは何とも生ぬるく思われたでしょう。
また、逆にそんなだから規律が緩むのだとも思われたことでしょう。

明けて文禄二年四月、伊達勢は釜山に上陸しました。
しかし既に日本軍の兵力は半減し食料の不足に悩み極めて危険な状態にありました。
文禄二年五月、政宗は朝鮮の戦場から山形の保春院に手紙を出します。

久方ぶりにお東の方改め保春院と御佐子の登場です。

保春院「(政宗の手紙)明国との和睦もならず我が軍は南へ押し返され致し方なく海辺付近に城を築きて籠城も止むを得ざる仕儀かと存じおり候」
御佐子「痛ましや」
保春院「或いは政宗、母上より賜りし水晶の数珠を抱きて異国の地に骨を埋むるやも知れず」
御佐子「…」
保春院「…此が最後のご挨拶と覚悟の上いついつまでもご健勝にお過ごしあらん事を乞い願い奉り、取り急ぎ一筆認め申し上げ候」
御佐子「…殿は母上様とお書きあそばしました。保春院様をお赦しになられた証しにござります」
保春院「御佐子」
御佐子「はい」
保春院「ありったけの金子を調達して朝鮮へ届けるのじゃ」
御佐子「え?飛脚が海を渡りましょうか」


御佐子、いいボケっぷりも健在です。
あるいは渡海の困難にかこつけて「飛脚が持てる程度の金しか用意できないですよ」という謎かけか?とも思いましたが…御佐子ですもんね。そんな深読みは要らないでしょう。

保春院「政宗を死なせてはならぬ」

げに有り難きは母心。めでたく天に通じました。

保春院「御佐子、政宗が朝鮮から引き上げて参った」
御佐子「え゛?」
保春院「金子も書状も有り難く頂戴したと礼を述べておる」
御佐子「あァ…おめでとう存じまする」
保春院「(二人して仏壇に手を合わせ)さぞや苦しい戦であったろう。怪我などしておらねば良いが」
御佐子「保春院様、恙無くお過ごしになれば何時の日か必ずお目文字が叶いましょう。忌まわしい出来事を水に流し親子して語らう時が参りましょう」
保春院「それは今更望むべくもない」
御佐子「何故でございますか?」
保春院「会えば辛さが甦る。忘れていた憎しみも戻って来よう。私は母の道を踏み外したおなごじゃ」
御佐子「いいえ、殿は保春院様をお慕いあそばしておいでです」
保春院「…戦場の徒然に筆を取ったのであろう。異国の空で心細い思いをしたのであろう」
御佐子「恐れながら、殿は吾子をおもうけになり人の親とおなりあそばしました。自ずから省みて母君の慈悲を悟られたのでござります」
保春院「…御佐子は優しいのぅ」


保春院も御佐子もいつしか子を想う慈母観音のような顔になっていました。

しかし水を差す訳ではありませんが、伊達政宗ともあろう者が戦場から母親に泣き言を書き送るとは、独眼竜らしからぬ振る舞い。
成実に限らず、京暮らしが長引いて軟弱化が進行していると言われても仕方のない所です。
京に呼び寄せた兵五郎の甘やかしぶりや、姫を産んだ愛への気の遣い様も、かつての政宗からは考えられません。

成実「御免」
政宗「どうじゃこの香りは」
成実「殿」
政宗「ん?」
成実「そろそろ国許へ戻り弓矢鉄砲の稽古に精を出されては如何かと存ずる」
政宗「…」
成実「京に長居して芸事に現を抜かせば武将としては骨抜きになる」
政宗「俺に注文を付けるのか?」
成実「家中の若手をご覧あれ。殿の真似をして和歌じゃ能じゃ茶道じゃ香道じゃと武士たる者が笑止千万」
政宗「これからの武士は嗜みが肝要じゃ」
成実「合戦には何の役にも立ちますまい」
政宗「成実は古い。大名同士は嗜みを通じて昵懇になり腹のうちを探りながら和を求める。今はそういう世の中だ」
成実「!…殿は変わられた」
政宗「!…変わってはおらん」
成実「…」


成実出奔の前フリでしょうが、なんか『平清盛』でもありましたねこんな場面。

以下はおまけ。

秀吉「わしはその方に四つの訓戒を与えておる。憶えておるか」
秀次「はっ、しかと胆に銘じておりまする」
秀吉「申してみい」
秀次「…は…第一は武門の心掛け油断なかるべき事。第二は法度についてえこ贔屓なかるべき事。第三は朝廷に対し奉り…懇ろに御奉公の事。第四は平生の嗜み慎むべき事」


途中つっかえかけました。
関白のビクビク感がよく出ています。

秀吉「お前どない思う。守っておるか」
秀次「…」
秀吉「茶の湯はまぁええ。人を招くのやからの。女子も若いのやから五人十人はええ…外の女子がいかんと言うてるのじゃ」
秀次「…」


「そとのおなご」って何なんでしょう?
出所のしっかりした側室ならいいが遊び女を城内に入れるから悪い噂を振りまかれるのだという事でしょうか?

秀吉「わしはの秀次、お前が立派な関白になるよう毎日神仏に願うておるのじゃ」
秀次「あ、あり難き幸せにござりまする」
秀吉「例えばじゃ、日本国を五つに分けその方には四つ与えこのお拾いは一つでもええ、そこまで考えておるのじゃ」
秀次「…」


その一つって、都周辺の一番いいトコなんでしょうね。
でも秀次はそんな口ごたえなどできません。

秀吉「おのれは言いつけに背き殺生関白などと陰口を叩かれ」
秀次「あ…」
秀吉「人を殺せば、秀次…己れも死ぬぞ」
秀次「!(ぞぉぉぉ~っ)」
秀吉「わしを怒らせるな…ええか、わしを怒らせるな…ええな」
秀次「(ガクガクブルブル)」


やっぱりこの秀吉は怖いよぉ。

※原田宗時(はらだ むねとき)は、安土桃山時代の武将。通称は左馬之助。永禄8年(1565年)、伊達氏の家臣である山嶺安長(源市郎)の子として誕生。幼名は虎駒。天正10年(1582年)4月に相馬表の戦いにて叔父の原田宗政が戦死し、宗政に嗣子がいなかったため、伊達輝宗の命により、御字を賜って宗時と称し、左馬之助と名付けられ原田家第17代当主となった。原田氏は伊達氏累世の宿老家にあたる。天正11年(1583年)にはわずか18歳にして原田城主を継いだ。剛直な性格にして勇武の士であったといわれ、才気に富み、各所の戦いにおいて顕著な戦功をあげ、輝宗やその子・政宗の厚い信頼を受けた。特に天正17年(1589年)の摺上原の戦いに参陣して武功を挙げている。天正19年(1591年)、豊臣秀吉による奥州再仕置きによって伊達氏が米沢を召し上げられ、岩出山に移封となると、宗時も原田城から離れ政宗に従った。文禄元年(1592年)、秀吉よる朝鮮出兵では、政宗に従って渡海するが、文禄2年(1593年)に釜山にて風土病を患う。御暇を賜い帰船したが、病が益々重くなり釜山浦近くの島に滞留して対馬国まで戻ったが、そこで病死した(釜山浦で死去したという)。享年29。朝鮮出兵に参陣した伊達軍は派手な格好をしていて評判になった。中でも宗時は同僚の後藤孫兵衛信康と二人で駿馬にまたがり、長さ1間半(約2.7メートル)もの大太刀に金の鎖をつけて肩から提げ、「さすがは伊達者」と人々を驚かせたという。(Wikipediaより)