『独眼竜政宗』第30回「伊達者」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

秀吉が太閤となり、関白となった秀次に祝いを述べるため政宗が聚楽第を訪れます。
ところが秀次は昼間から酩酊状態。

豊臣秀次「待たせたの政宗!」
政宗「ご機嫌麗しゅう…」
秀次「遠路大儀であった。関白左大臣、豊臣秀次(とよとみのひでつぐ)じゃ!はははは」


豊臣は名字ではなく氏。ちゃんと“の”が入っています。
で、太政大臣ではなく左大臣。
最高の官位である太政大臣は依然秀吉です。

政宗「御任官の儀、後れ馳せながら謹んで賀詞…」
秀次「もうよい!面倒な口上は聞き飽いたわ」
政宗「は」
秀次「おぉ、酒じゃ酒じゃ、酒をもて」


酒に酔って側室をはべらせ醜態を晒す俗物ぶりです。

秀次「ときに政宗」
政宗「は」
秀次「太閤は何ぞ仰せではなかったか。つまり、わしのことを」
政宗「いえ別段」
秀次「隠すな政宗、そちとわしの仲じゃ。ん?」
政宗「関白を助け、末代まで忠節を尽くすべしとのお言葉を賜りました」
秀次「あれは若年にして器が小さいとは言わなんだか?」
政宗「滅相もござりません」
秀次「わしはそれほど阿呆ではないわ!」


秀次は関白になっても秀吉に叱られ続けているようですね。

秀次「学問も風流も程々に嗜んでおる!合戦も決して平凡(へぼ)ではない!」
政宗「無論仰せのとおり」
秀次「太閤の器が大き過ぎるのじゃ。功成り名を遂げた年寄りと比べられては敵わんわ」
政宗「…」


政宗、厳しい眼差しで秀次のボヤキを聴いています。
その心中、「これは関白職の荷が重すぎると見える。近づいたのは早計であったか」ですかね。

さらに、

秀次「木工助、面を上げよ」
粟野木工助「は」
秀次「政宗」
政宗「は」
秀次「この男を知らぬか」
政宗「…藤八郎か」
木工助「…お久しゅうござります」
政宗「おのれ何の顔(かんばせ)あって是に控えおる!」
木工助「は」
秀次「はははは、驚いたか政宗。粟野藤八郎は名前を木工助と改め今ではこの秀次の側近じゃ」
政宗「お戯れを」
お万「お戯れではござりませぬ。殿下はわざわざ木工助に一字をお与えになり諱を秀用(ひでもち)となされました」
政宗「許せ政宗、伊達家を逐電した男を召し抱えたのは他でもない。木工助は奥州諸大名の内情に詳しくなかなかの智恵者でもある」
政宗「ご油断はなりませぬ。藤八郎はわが弟の傳役にござりましたが徒党を組んで逆臣に及んだ次第」
木工助「その儀は平にご容赦下さりませ。省みて己の不明を恥じ日夜悶々と過ごしております」
政宗「聞きとうない!」
秀次「政宗、過ぎた事は赦してやれ。殊勝にも木工助は政宗を誉めちぎり儂との仲を取り持とうと致しておる」
政宗「しかし」
秀次「政宗!…赦してやれ」
政宗「…」


ますます秀次に反感を持つ政宗でした。

一方太閤秀吉も、昼間から葡萄酒でご機嫌です。
しかし流石に俗な酔っ払い方はしません。
そこここ呂律が回らないことで酔いを表現しています。

秀吉「ははは、伊達はやりおるのぅ。利家ゃ家康の行列を見た町衆はさほど驚かなんだが、伊達の行列を見た時の町衆の顔はどうじゃぁ」
稲葉是常坊「いやぁ、その煌(きら)びやかなること毘沙門天の行列の如くでござりましたなぁ」
浅野長政「かぶき者のようでござるなぁ(笑)」
秀吉「んぉ、政もぅぬぇ(ママ)はわしの側に置いて行け」
是常坊「は」
秀吉「あれほどの飾りを此度の朝鮮の戦で泥まりみれ(ママ)に致すは惜しい。呂宋、安南、天竺の時に政宗を連れて参るぞ…ん?…面を上げい(ペタペタ)」


酔った秀吉相手では毛染め係も命懸けです。

※太政大臣(だじょうだいじん)は、日本の飛鳥時代から明治時代まで存続した官職。太政官における最高の官職である。定員1名。官位相当は正一位・従一位。太政大臣の職務「一人に師範として、四海に儀形たり」とは、天皇の師範であり天下の手本となる者であることを意味し、ふさわしい人物がなければ空席とされることになっていた。のちに太政大臣の実権は摂関に吸収され、太政大臣は単なる名誉職へと変化する。在任期間は1年前後の短期間であることが多く、それはしばしば引退の花道を意味した。天正14年(1586年)12月から足かけ12年にわたって在任した豊臣秀吉は、中世・近世では稀有の例外である。このケースでは、太政大臣を頂点とする秀吉独自の武家官位制が構想されていたものと考えられるが、その実態は秀吉の死と豊家の滅亡により永遠の謎となった。(Wikipediaより)