『独眼竜政宗』第28回「知恵比べ」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

政宗は小十郎、留守政景、原田左馬助とともに聚楽第で秀吉、秀次に目通りします。
家臣に秀吉がどういう人物かを見せておく狙いもあるようですね。
その場で政宗は、秀吉から暫く京に留まるよう命じられました。
理由は、千利休が政宗を禁中茶会に招きたいため、殿上人の位階を授けられるよう秀吉が朝廷に働きかけているからというものでした。

前田利家「殿下、利休と申せば橋立の壺如何相成りました。お望み通りお手元に参りましたか」
石田三成「いえ、未だ利休が聚光院に預けたままにござりまする。利休は住職に己れ以外の誰が来ても渡す事まかりならぬと命じております」
豊臣秀吉「利休も偉うなったものよの。あの壺を取り上げるのは容易い事じゃが、それでは数寄者の道に叶わんでの。…ふふふ、利休がいつ持参するか待つのも楽しみなものじゃ。はははは」


この時点では、利休に対する秀吉の感情はそれほど悪くなっていないようです。
しかしこの後も、利休は反骨精神を貫きます。

伊達屋敷

千利休「真に重畳」
古田織部「滋味掬(じみきく)すべき調べにござる」
片倉小十郎「恐れ入りまする」
政宗「田舎仕込みでござりまする」
織部「なかなか」
政宗「織部殿のお誉めに与るとは冥利に尽きまする」
織部「田舎田舎と仰せられますな。伊達殿は歴とした位にお着きじゃ」
政宗「有難き幸せ。これみな利休殿のお引き回しによるもの」
利休「いやいや、殿下は事の外伊達殿がお気に入りでござりまする」
政宗「さぁそれは。殿下は気まぐれでござる。今日はご機嫌麗しゅうても明日はどうなるか」
織部「ようご存知で」
一同「(笑)」
利休「舐めるように可愛がるかと思うと俄に突き放す。またやんわりと引き寄せて首を斬り落とす。天下人なれば何事も思いのままでござりまする」
織部「ところが利休殿だけは殿下の思いのままになり申さぬ」
利休「今まではの」
小十郎「そう言えば殿下はいたく橋立の壺にご執心でござりました」
留守政景「余程の名物と見えまするな、その橋立の壺とは」
利休「われにはつげよ天橋立」
政景「は?」
利休「華やかなること比類無きは殿下の茶の湯。これは天性のご器量でござりまする。されど侘び茶の極意は…」
織部「…」
利休「聚光院に預けたあの壺だけは殿下に召し上げられとうない」
織部「お察しいたしまする。お吟さまの時も同じ様に仰せられた」
政景「お吟さまとは」
織部「…利休殿のご息女じゃ。殿下より側室に差し出すべしと御下命がござった」
小十郎「して、如何なされました」
織部「お吟さまは自害して果てられた」
利休「…」
政宗「…」


利休はへそ曲がりを通り越して意固地になっていたのかもしれませんね。
いい側近はいなかったのでしょうか?

聚楽第、秀吉の居室。
三成は秀吉をマッサージ中。隣には茶々。

茶々「おぉ♪これは美しい。南蛮渡来のもの」
三成「このところ利休は政宗と頻繁に逢い、何やら親しげに語り合うている様子にござりまする」
茶々「ほんに羨ましいことよのぅ。当代きっての人気者が利休に入門しての風流三昧とは。殿下ぁ、私も一度伊達殿の手前で一服戴きとうございます。よろしゃうございますか?」
秀吉「よいよい」
茶々「♪」
三成「殿下のご威光を笠に着て近頃の利休の人も無げなる振る舞い、目に余るものがござりまする」
秀吉「三成」
三成「は」
秀吉「壺を」
三成「ツボ?」
茶々「殿下、これでございます♪私が欲しかったものは」
秀吉「壺を、もそっと強う押せ」
三成「は」
秀吉「…」
三成「!」
茶々「ね三成殿♪見て下され」
三成「…」
秀吉「…」
三成「橋立の壺はこの三成が必ず」
秀吉「…」
茶々「殿下ぁ♪殿下、デンカ、見て下され。ほれ、ほれ見てくだされ」
秀吉「…」


秀吉は間もなく利休を堺へ追放しました。
茶道具の売買に職権を濫用し暴利を貪ったというのが理由です。

徳川屋敷

徳川家康「さ、これへ」
政宗「は」


家康の前では政宗も次の間に控えていなければならない立場です。

政宗「濡れ衣に相違ござらん」
家康「…」
政宗「利休殿に限ってかかる卑しき行いは断じてあるまじき事」
家康「それだけではない」
政宗「は?」
家康「利休は大徳寺の山門に己れの木像を飾らせた。殿下がくぐる門の上にじゃ」
政宗「これはしたり。それぐらいで立腹なさるならば欄間の下もくぐれませぬ」
家康「…」
政宗「欄間に彫られた鶴亀がわが頭を土足にかけたと怒る者がどこにありましょうぞ」
家康「はははは、一理ある」
政宗「しかも利休殿の木像は二年も前に作られたはず。どう見てもこれは言い掛かりでござる」
家康「言い掛かりでも仕方があるまい」
政宗「家康殿!」
家康「そなたは四国へ行きたいか。それとも九州行きが望みか」
政宗「!?何と仰せられる」
家康「あまり利休の肩を持つと殿下の怒りを買い遠方に国替えになるは必定じゃ。それでも良いのか?」
政宗「!…」


利休は京に呼び戻されましたが、その屋敷を三千人の軍勢が二晩に渡って取り囲み、二日後切腹の命令が下されました。

伊達屋敷

政景「殿!」
小十郎「殿!お止まり下さりませ!」
原田左馬助「殿!」
政宗「俺は利休殿の門弟だ。腕づくでも首級を取り返して手厚く葬ってやらねばならん!」
小十郎「なりませぬ!」
政宗「離せ小十郎!」
左馬助「一条戻橋には利休殿の晒し首を見んものと見物人が群れをなしております!」
政宗「構わん!」
小十郎「殿!お待ち下さりませ。軽挙妄動は殿下の思う壺にござりまする!」
政宗「何」
小十郎「小十郎の察する処、此度の一件は殿下の嫉妬に始まったもの」
政景「嫉妬じゃと」
小十郎「されば利休殿を堺へ蟄居せしめたのも、足しげく伊達屋敷に出入り致した事へのお咎めかと存じまする」
政景「!俺が利休殿の死を早めたと申すのか」
小十郎「兎にも角にも!我関せずと素知らぬ体にて過ごされるのが得策かと覚えまする」
政宗「…解らん。俺にはあの男は解らん。秀吉という男、俺にはわからん!」


多分、小十郎にも解っていなかったのでしょう。
嫉妬云々は、政宗を止めるための口から出まかせだったのでしょう。

さて、

一揆を煽動した報いか、
利休との仲を咎められたか、
はたまた撫でたり透かしたりの秀吉流人たらし術の一環か、
政宗は大崎・葛西領を与えられる替わりに会津周辺の五郡を召し上げられてしまいました。
宙に浮いていた田村領も含まれます。
蒲生氏郷にしてやられたと憤る政宗。

あちらこちらに手を尽くして形勢挽回を図るも決定が覆ることはありませんでした。
失意の政宗は、小十郎や愛に八つ当たりし母お東を回想した後は新たな側室を求め家臣にまで酔い潰れた姿を晒すようになります。

上から攻められ下から責められやり場のない憂さを酒と女で紛らわす。
世のお父さん達も身に覚えのあるところです。

そして、

再度大崎葛西で不穏な動きがあり、政宗は討伐のため所領に戻ることを許されます。

利家「小手先のからくりは無用じゃ。伊達家を生かすも殺すもこの一戦にありと心得よ」
家康「よいか、鶺鴒の眼は二度と通用せん」


両巨頭に釘を刺されて米沢へ向かう政宗一行。
米沢到着前夜、政宗は小十郎、綱元、左馬助から秀吉に反旗を翻すつもりか否かを訊ねられます。

政宗「あれは化けもんじゃ。化け物には到底歯が立たん。京に長逗留してそれがよう判った」
鬼庭綱元「一寸の虫にも五分の魂と申します。初手から負け犬になっては武門の恥辱にござりまする」
小十郎「お控えなされ綱元殿」
綱元「黙れ。俺は我慢がならぬ」
政宗「よう聞け綱元。俺は秀吉に負けたとは言うておらん」
綱元「…」
政宗「武力を以て天下を攻め取るのが難しければ知力を以て攻め取るしかない。そうであろう」
小十郎「…」
政宗「俺は秀吉の命ずるままに大崎葛西を平らげ、絶大な信頼を得た上で懐へもぐり込む。その後は俺と関白の知恵比べだ」
綱元「…」


鬼の綱元を黙らせた政宗ですが、米沢には鬼より恐い成実がいます。
さてどうなりますか?

※古田重然(ふるたしげなり、ふるたしげてる)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。一般的には茶人古田織部(ふるたおりべ)として知られる。「織部」の名は、壮年期に従五位下織部正(織部助)の官位に叙任されたことに由来している。天正10年(1582年)から千利休の書簡に織部の名前(左介)が見える。この間に利休と知り合い弟子入りしたものと考えられ、のちに利休七哲のひとりとされる。天正19年(1591年)に秀吉によって利休の追放が決まると利休と親交のあった諸将が秀吉を憚って現れない中、重然と細川忠興のみが堂々と利休の見送りを行った。利休死後は、天下一の茶人となった。千利休が大成させた茶道を継承しつつ大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・庭園作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。(Wikipediaより)