『軍師官兵衛』第14回「引き裂かれる姉妹」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

『独眼竜政宗』の再放送第1回をじっくり堪能した次の日にLite大河を見せられて、果たして平常心でいられるか?

と案じていましたが、とりあえずは、冒頭から上月城の戦いと尼子家や山中鹿介のエピソードがちりばめられたおかげで、そこそこ面白く見ることができました。

ただ、やはりどうしても比べてしまいます。

『独眼竜政宗』と『軍師官兵衛』、どちらも同時代の戦国乱世を描いており、親類同士身内同士が憎しみ合い敵味方となって争う構図も同じです。

しかし、『軍師官兵衛』は、乱世を終わらせるの、戦のない世にするのという妙な思想を、くどくどくどくど視聴者に押し付けています。
あくまで天下を狙い続けたとする『独眼竜政宗』に比べて、いかにも甘っちょろく感じてしまいます。

女性の描き方もだいぶ違います。
親兄弟が敵味方に別れた場合の心構えは、政宗の生母義姫が最上家から伊達家に嫁入りした時に輝宗に語った毅然とした覚悟こそが本当なのでしょう。
視聴者としても、そちらの方に共感できます。

制作局も、あまり現代の価値観にこだわっていては、いくら映像技術が進歩しても『独眼竜政宗』を超える戦国大河ドラマなぞ未来永劫出来ないでしょう。
否、かえって退化するばかりではないでしょうか。

文句ついでにもう一つ。

宇喜多直家があまりに悪役然としているのは、何とかならんのかと思います。

彼を腹黒い策謀家に描くのはまだしも、戦場で女をはべらせたり、わざわざ官兵衛を呼びつけて己れの悪事を得意気に話して聞かせるなど、あまりに漫画的です。

それこそ大河ドラマの視聴者を馬鹿にするなと言いたい。
岡山県民、何か言ってやってください。

と、嘆いていても始まりません。
LiteはLiteなりに楽しんで…あぁ…いけるでしょうか?

これから毎週、『独眼竜政宗』の翌日に、今回のような『ぐんしかんべえ』を見せられては、同じような感想ばかりになってしまいそうです。

いやいやいやいや。
別物別物別物別物。

せめて、この間のような秀吉メインの回をまた作ってほしいものです。

※山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将。尼子氏の家臣。優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話は有名である。天正4年(1576年)、幸盛ら尼子再興軍は、当時丹波に出動していた明智光秀の軍に加わり、但馬の八木城攻撃や、丹波の籾井城攻撃に参加する。天正5年(1577年)には、織田信忠に従い松永久秀が篭城する信貴山城攻略に参加する(信貴山城の戦い)。このとき幸盛は、河内片岡城にて、松永久秀の部将の河合将監を討ち取っている。織田信長の命令を受けて、羽柴秀吉が播磨国へ進軍を開始すると、尼子再興軍もその攻撃に参加することとなる。秀吉が、播磨西部の毛利方の拠点である上月城を攻略すると、尼子勝久・幸盛ら尼子主従はそこに籠もり、備前・美作・播磨の国境の守備と美作国方面の調略を開始する。しかし天正6年(1578年)、三木城の別所長治が信長に叛旗を翻す事件が発生する。毛利軍はこれを機ととらえて、吉川元春・小早川隆景らが軍勢を率いて播磨に攻め込み、上月城を包囲する。毛利軍が上月城を包囲した、という知らせを受けた秀吉は、荒木村重らとともに軍勢を率いて上月城の救援に向かうが、信長から三木城の攻撃を優先するよう命じられたことや、高倉山合戦で毛利軍に敗北したこともあって、兵を撤退する。その結果、上月城は孤立無援となり、尼子主従は毛利軍に降伏した(上月城の戦い)。尼子勝久は切腹。幸盛は生け捕りとなり、毛利輝元の下へ護送される途上謀殺された。幸盛の死をもって尼子氏再興活動は完全に絶たれることとなった。若武者が将来勇敢な武士になれるかどうか、幸盛が判断する逸話がある。ある日、初陣を終えた2人の若者が幸盛にそれぞれ話しかけた。ひとりは「敵に向かうと震えが生じて、しっかり敵を見ることもできず、討ち取った敵がどんな鎧であったかも覚えていません」と話した。別のひとりは「自分はそうではありません。敵がどんな鎧を着て、どんな馬に乗り、組み合った場所など鮮明に覚えています」と話した。2人が帰った後、幸盛は傍の人にこう語った。「最初に話した若武者は、立派で勇敢な武士になるだろう。後に話した若武者は、はなはだ心もとない。もしかしたら、他人のあげた敵の首を拾い取って自分の手柄としたのではないだろうか。さもなくば、次の戦で討たれてしまうだろう」はたして後日、その言葉のとおりとなった。(Wikipediaより)