『八重の桜』第23回「会津を救え」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

薩長や会津のように急進的でも
加賀のように風見鶏的でもなく、

旧幕府勢力と新政府の板ばさみにあっても双方を取り持って
何とか穏便に済ませようとする藩もありました。

越後長岡藩もそのひとつだったようです。

さて、

案の定、世良修蔵はこれでもかというくらい酷い扱いでした。

こんな安っぽい時代劇みたいな悪役を作って何が面白いのか。

あるいは、会津を戦火に巻き込むために
世良がわざと悪役を買って出たとでも言いたいのか。

今年の大河ドラマで強調された世良の醜さ、いやらしさは、
会津の正義ばかりを強調したい制作局の思惑の歪みそのものではないか。

そう思います。

※北越戦争は、戊辰戦争の局面として越後長岡藩周辺地域で行われた戦闘の総称である。北越での戦闘は、戊辰戦争を通じて最大の激戦の一つであった。慶応4年(1868年)、薩摩藩・長州藩を中核とする新政府軍は京都近郊での鳥羽・伏見の戦いに勝利し、東征軍を組織して進軍した。北陸道の新政府軍は北陸道鎮撫総督府の山縣有朋と黒田清隆を指揮官としていた。新政府軍は越後における旧幕府軍の平定と会津藩征討のため、長岡にほど近い小千谷を占領した。長岡藩は、大政奉還以後も徳川家を支持し、長岡藩主・牧野忠訓と上席家老、軍事総督・河井継之助のもと、ガトリング砲2門、フランスの新型銃2,000挺を購入するなどの火器・兵器を購入し富国強兵に努めていた。また河井の指導の下、恭藩論を武装中立論に統一していた。会津藩は長岡藩に奥羽越列藩同盟への参加を申し入れるが、河井は同盟への参加を拒んだ。5月2日(6月21日)、河井は長岡への侵攻の中止と会津藩の赦免を求めて新政府軍の軍監・岩村精一郎と小千谷で会談した。しかし岩村は河井の嘆願を一蹴、談判は決裂する。5月4日(6月23日)、長岡藩はやむなく奥羽越列藩同盟に正式に参加し、新発田藩など他の越後5藩もこれに続いて同盟に加わった。これにより長岡藩と新政府軍の間に戦端が開かれた。列藩同盟側は新潟港に武器弾薬の調達を頼っており、また新潟を制圧することにより、庄内方面及び阿賀野川を通じ会津方面へのルートを扼する事が出来た。そのため新政府軍にとって新潟の制圧は最重要課題であった。幕府直轄領であった新潟港には米沢藩兵・会津藩兵らの同盟軍が警備と防御のため進駐していた。小千谷談判の決裂後、長岡藩は先に新政府軍が占領していた榎峠を攻撃して奪回する。新政府軍は朝日山を攻撃するが、桑名藩兵と長岡藩兵に敗れた。その後、両軍とも攻め手を欠き、砲撃戦に終始する。新政府軍は小藩である長岡藩の頑強な抵抗によって被害を出しつつあった。膠着した戦局を打破すべく新政府軍は5月19日に信濃川を渡河し、長岡城下への奇襲攻撃をかけた。城はわずか半日で落城し、長岡藩兵は栃尾に退却した。長岡藩兵は態勢を整え加茂に集結。その後今町を奪回した。新政府軍は越後方面へ海軍も派遣し、5月24日の寺泊沖海戦で制海権を掌握した。八丁沖の戦いの末に7月24日(9月10日)、同盟軍は長岡城を奪還した。一度落城した城が奪還されるのは異例の事態であった。しかしこの戦いで長岡藩側も大きな被害を受け、河井も脚に弾丸を受け負傷した。新政府軍は、軍艦「第一丁卯」(長州藩)・「摂津丸」(広島藩運用)および輸送船「千別丸」(柳河藩)・「大鵬丸」(筑前藩)・「銀懐丸」(加賀藩)・「万年丸」(広島藩運用)から成る艦隊を投じて、7月25日(9月11日)に新発田藩領の太夫浜へ上陸戦を開始。新発田藩は新政府軍への寝返りを決め、抵抗せず開城した。新政府軍上陸部隊は、米沢藩兵・会津藩兵・仙台藩兵を撃破して、7月29日(9月15日)に新潟港を制圧した。新政府軍は長岡城への再攻勢も行って同じ7月29日に再占領する。同盟軍の米沢藩・庄内藩等は寝返った新発田藩を攻撃するため新たな部隊を派遣し、中条付近で新政府軍の広島藩兵・新発田藩兵を破ったが、新潟港・長岡城陥落を知って引き返した。同盟軍の残存部隊主力は、栃尾・八十里越を経由して会津藩領へ撤退した。河井は、会津へ落ち延びる途中で膝の傷から破傷風を併発し、8月16日(10月1日)に会津塩沢で死去した。新政府軍は下関村を経て出羽国(米沢藩領)まで追撃し、8月中旬には越後の全域が新政府軍の支配下に入った。(Wikipediaより)