『八重の桜』第16回「遠ざかる背中」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

「幕府をぶっ壊す!」
「幕府を立て直すまでは一歩も引かない!」


いやあ、蛙の子は蛙。政治家の子は政治家。
ぴったりはまっていましたね。

さて、

今年の大河ドラマのおかげで、
幕末・明治に疎い私も、だいぶ勉強させていただきました。

ヒストラマの予習がだいぶ進みましたので、
今度は遅まきながら、おんな一代記の予習にとりかかりました。
実話新島八重の桜

すると、
なんということでしょう。

放送局が用意した主人公を語る4つのキーワード
「ならぬことはならぬ」
「幕末のジャンヌダルク」
「ハンサムウーマン」
「日本のナイチンゲール」

が、いずれもかなりマユツバであることがわかってしまいました。

ならぬことはならぬ~故郷・会津の教え~」会津武士(上士)の息子たちは6歳から10歳までの4年間、町内の区域を分割した「什(じゅう)」というグループに組み込まれた。階級差別はなく、“什の掟”が会津の人材育成の指針。「ならぬことはならぬもの」という理屈ではない強い教えが、会津武士道の礎となっている。(番組ホームページより)

差別がないどころか、当時は身分の上下、武士の中でも家柄の違い、男女の別に対する考えが厳しい時代でした。
「什の教え」は、「戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ」というものがあるとおり、あくまでも士分の男子のものでした。
女性である八重は守らなくて良いものであり、当然その行動原理にも反映されていませんでした。

幕末のジャンヌダルク~仲間の死、故郷の喪失~」鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は敗れ、会津は新政府軍から「逆賊」として扱われる。鶴ヶ城での籠城戦で戦う会津軍と新政府軍との力の差は歴然。女や子どもを含め、多くの仲間が次々と死んでいく中、男装し、自ら銃を持ち最後まで奮戦した八重だったが、会津戦争の敗北を自らの中で受け入れていく。(番組ホームページより)

闘う会津の女性として名を後世に残したのは、戦場に散った中野竹子であり神保雪子であり、砲弾処理で落命した山川トセらでした。
幕末のジャンヌダルクとは、放送局が主人公のために用意したキャッチフレーズであって、少なくとも地元でそう呼ばれていたわけではありませんでした。

ハンサムウーマン~不義に生きない女の生き方~」会津戦争の敗北ですべてを失った八重は、京都で「知識」という新たな生きがいを得る。鉄砲から知識へ。会津のプライドを貫く八重は、京都でも存在感を増し、アメリカで西洋文化に触れた青年・新島襄をも魅了、結婚する。封建的風潮の残る中、男女の平等を望む八重の生きざまを夫・新島襄は「ハンサムウーマン」と称した。(番組ホームページより)

新島襄は、八重との結婚を報告した手紙にこう書いています。
「of course she is not handsome at all, but what I know of her is that she is a person who does handsome.」
「もちろん彼女は美しくはありません。しかし私は知っています、彼女が美しい行いをすることを。」
「ハンサムウーマン」も「幕末のジャンヌダルク」と同様、放送局が数年前にある番組でこの主人公のために用意したキャッチフレーズであり、新島襄が八重をそう称したものではありませんでした。

日本のナイチンゲール~幸せでなくてはならぬ~」会津戦争を生き抜いた八重たちは、日清、日露戦争が起こると、仲間と共に篤志看護婦として名乗りを上げる。戦場に女が行くなど考えられなかった時代、八重たちは果敢に行動する。それも「弱者はいたわらなければならぬ」の会津の教え。これにより八重たちは皇族以外の女性で初の宝冠章を受ける。(番組ホームページより)

たしかに新島八重は、新島襄の看護に結婚生活の三分の一を費やし、襄の死後は赤十字の活動を積極的に行い、日清・日露戦争中は広島や大阪の病院でも従軍看護婦として活躍しました。
しかしそれは会津の教えというよりも聖書の教え、キリスト教の精神にのっとったものでした。

このように、どうやら放送局がまたぞろ
ときの権勢におもねった新しい歴史ヒロインを生み出そうとしているのですね。

まあ、
「歴史は作られるもの、書き換えられるもの」ですから
面白ければ、それでもいいでしょうよ。

※徳川氏(とくがわし、徳は旧字体)は、徳川家康(とくがわいえやす)が創始した苗字で、系図によると、ルーツは三河国の在地領主の松平信重の婿養子に入った時宗(じしゅう)の遊行僧と伝えられる徳阿弥である。彼は清和源氏系得川氏(徳川氏、世良田氏)の末裔で、還俗して松平親氏(まつだいらちかうじ)と名のったという。しかしこれらは、新田氏と松平氏を系譜上において繋げるために、家康の代に唱えられた創作の可能性が高いとされており、親氏以前の確かな系譜は不詳といえる。「徳川」姓は、家康個人が松平氏内部で専制権力を確立して松平一族と家臣団を統制するために使われたと考えられる。初代家康が慶長10年(1605年)に将軍職と当主の座を辞して隠居するまでに徳川姓を称したのは、三男で世子の秀忠ただ一人であった。なお、家康が興した親氏流松平氏嫡流である徳川将軍家(徳川宗家)のほかに徳川姓を許されるのは、家康直系の子孫(親藩)のうちでも特に徳川御三家(尾張家・紀州家・水戸家)、御三卿(田安家・一橋家・清水家)およびこれらの後嗣のみ(一時期、館林徳川家、甲府徳川家、駿河徳川家も存在した)であり、これらの家に養子として入る者も家康の男系の子孫たちであった。家康直系以外の松平氏は親氏末裔として家康と同族だが、徳川姓を許されていない。(Wikipediaより)