『八重の桜』第15回「薩長の密約」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

坂本龍馬の出番はありませんでした。

わずかな後ろ姿と桂小五郎の台詞「坂本さぁから聞きました」だけ。
ナレーションも「土佐脱藩浪士」という表現に留めていました。

はい、
あまり有名どころが出すぎると、主人公周辺が霞んでしまいますもんね。
かつてない「黒い龍馬」でも良いのではないかと思うのですが。
辛いところです。

さて、

最近はヒストラマの方にばかり関心がいって、
おんな一代記はあんみょに(いい加減に。言いますよね?)見ていたのですが、
ふと、こんなことを考えました。

川崎尚之助と結婚した山本八重は川崎八重になって、
やがて離縁するからまた山本八重に戻って、
のちに新島襄と結婚して新島八重になる…
という常識は、少なくとも明治以降のことであって、
江戸時代の女性に家名(名字=苗字)を名乗る習慣があったのだろうか?

そもそも、ちゃんとした武士には正式な名があります。
例えば、
織田信長は「織田三郎平朝臣信長」(おだ・さぶろう・たいらのあそん・のぶなが)
豊臣秀吉は「羽柴藤吉郎豊臣朝臣秀吉」(はしば・とうきちろう・とよとみのあそん・ひでよし)
徳川家康は「徳川次郎三郎源朝臣家康」(とくがわ・じろうさぶろう・みなもとのあそん・いえやす)

もっともこれは氏(うじ、本姓(ほんせい))や姓(かばね)のほかに名字(なあざな・みょうじ)が普及した鎌倉時代以降のことのようです。
平清盛や源頼朝には名字がありません。

仮に、伊勢平氏、河内源氏だった二人を、上記三武将のように呼ぶと
平清盛は「伊勢太郎平朝臣清盛」(いせ・たろう・たいらのあそん・きよもり)
源頼朝は「河内三郎源朝臣頼朝」(かわち・さぶろう・みなもとのあそん・よりとも)
となりましょうか。
伊勢清盛とか河内頼朝じゃあ格が下がるような気がしますね。

閑話休題。

まあ、江戸時代以前には、女性に氏(うじ)や諱(いみな)がなくても
通称に家名(名字)をかぶせて名乗ることくらいは
その気になればできたかもしれません。

でも、北条政子(ほうじょう・まさこ)はともかく
織田市(おだ・いち)とか羽柴於寧(はしば・おね)とか徳川江(とくがわ・ごう)とは
あまり麗しい呼び方ではないような気がします。

結論。

少なくとも江戸時代においては、八重は、
「山本(権八)の娘の八重」「川崎(家)の嫁の八重」とは名乗っても、
「山本八重」「川崎八重」とは名乗らなかったのではないでしょうか?

※坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日(1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(1867年12月10日))は、江戸時代末期の志士。土佐郷士に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えた。大政奉還成立の1か月後に近江屋事件で暗殺された。(Wikipediaより)