『八重の桜』第4回「妖霊星」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

今回は半分くらいがヒストラマでした。
幕末に疎い私ですが、
事前に調べていたおかげでなんとかついて行けました。

一方、主人公周辺については、
一切歴史を知らなくても楽しめるようになっているようです。

しかし、今のところ、とくに思い入れのある役柄もなく
印象深い場面も台詞もないものですから
それほどの感想もないのは相変わらずです。

つまりは、まだ大河ドラマとして楽しめていない。かな?

※安政の大獄(あんせいのたいごく)とは、安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて、江戸幕府が行なった弾圧である。江戸幕府の大老井伊直弼(いいなおすけ)や老中間部詮勝(まなべあきかつ)らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂(とくがわいえもち)に決定した。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。弾圧されたのは尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、連座した者は100人以上にのぼった。形式上は第13代将軍・徳川家定(いえさだ)が台命(将軍の命令)を発して全ての処罰を行なったことになっているが、実際には大老・井伊直弼が全ての命令を発した。江戸時代後期の日本には、外国船が相次いで来航し、幕閣では海防問題が議論される。1854年にアメリカ合衆国と日米和親条約を、ロシア帝国とは日露和親条約を締結した。また、第13代将軍徳川家定は、病弱で男子を儲ける見込みが無かったので将軍継嗣問題が起こった。前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の七男で英明との評判が高い一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を支持し諸藩との協調体制を望む一橋派と、血統を重視し、現将軍に血筋の近い紀州藩主徳川慶福(よしとみ 後の徳川家茂)を推す保守路線の南紀派とに分裂し、激しく対立した。その頃、米国総領事タウンゼント・ハリスが通商条約への調印を江戸幕府に迫り、江戸幕府は諸大名に意見を聞いていた。条約締結はやむなし、しかし調印には朝廷の勅許が必要ということになり、勅許を受けに老中・堀田正睦(ほったまさよし)が京に上った。ところが、梅田雲浜(うめだうんびん)ら在京の尊攘派の工作もあり、元々攘夷論者の孝明天皇(こうめいてんのう)から勅許を得ることは出来なかった。安政5年(1858年)4月、南紀派の井伊が大老に就任する。井伊は無勅許の条約調印と家茂の将軍継嗣指名を断行した。徳川斉昭は、藩政を指揮して長男である藩主徳川慶篤(よしあつ)を動かし、尾張藩主徳川慶勝(よしかつ 相続当初は慶恕よしくみ)、福井藩主松平慶永(まつだいらよしなが 号は春嶽しゅんがく)らと連合した。彼らは「無勅許調印は不敬」として、井伊を詰問するために不時登城(定式登城日以外の登城)した。井伊は彼らを隠居謹慎などに処した。これが安政の大獄の始まりである。薩摩藩主・島津斉彬(しまずなりあきら)は井伊に反発し、藩兵5000人を率いて上洛することを計画したが、同年7月に鹿児島で急死、出兵は頓挫する。8月には朝廷工作を行なっていた水戸藩らに対して戊午の密勅が下され、ほぼ同じ時期、幕府側の同調者であった関白・九条尚忠(くじょうひさただ)が辞職に追い込まれた。このため9月に老中間部詮勝、京都所司代酒井忠義(さかいただあき)らが上洛し、近藤茂左衛門(こんどうもざえもん)、梅田雲浜、橋本左内(はしもとさない)らを逮捕したことを皮切りに、公家の家臣まで捕縛するという激しい弾圧が始まった。そして、吉田松陰(よしだしょういん 通称は寅次郎)が最後の刑死者となる(享年30 満29歳没)。京都で捕縛された志士たちは江戸に送致され、江戸伝馬町の獄などで詮議を受けた後、切腹・死罪など酷刑に処せられた。幕閣でも川路聖謨(かわじとしあきら)岩瀬忠震(いわせただなり)らの非門閥の開明派幕臣が処罰され、謹慎などの処分となった。安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変において井伊が殺害された後、弾圧は収束する。安政の大獄は幕府の規範意識の低下や人材の欠如を招き、反幕派による尊攘活動を激化させ、幕府滅亡の遠因になったとも言われる。(Wikipediaより