『八重の桜』第1回「ならぬことはならぬ」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

えー、あの、わたくし、
今年の大河ドラマは見ない!と宣言していましたが

…まぁ一回も見ないで悪く言うのもなんだし
…まぁあの『シエ姫じゃ~っ!』でさえ第6回までは見たんだし
…まぁ苦手だった幕末から明治にも興味が湧いてきたことだし

見ない!は見ない!でも「あまり期待して見ない!」ということにしました。

というわけで、
第1回を見終わった感想です。

幕末に疎い私としては、歴史教養番組を見ている心地でした。
いや、おかげさまでいろいろと勉強できました。

・アメリカの南北戦争で使われ発達した銃や大砲が、時を経て日本の内戦でも使われたこと。

・主人公の父が会津藩の砲術師範であったことや、幼い頃の「什の掟」、そして若き藩主との出会いが、その後の八重の生きざまを決定づけた!という設定であること。

・黒船来航時の江戸では佐久間象山が幕末の志士たちに洋学の講義をしていたこと。

・同じころ幕府内では開国の是非を巡って対立が深まっていたこと。

・容保は「かたもり」、頼母は「たのも」と読むこと。

よくわかりました。
知るは楽しみなり。

俳優さんの演技も良かった。
子役も上手でした。

ということで、
第2回も見ることにします。
あまり期待しないで。

ただ、
ひと言だけ言わせてください。

聞き取りにくい方言には、字幕を入れて欲しいなあ。

※新島八重(にいじまやえ、1845年-1932年)は、幕末から昭和初期の女性。同志社創立者の新島襄の妻として知られる。旧姓は「山本」。悪妻、烈婦、元祖ハンサムウーマンなどと呼ばれるほど明治の時代にあってエネルギッシュに生き、皇族以外の女性としてはじめて政府より叙勲を受けた先進的な女性である。会津藩の砲術師範であった山本権八・さく夫妻の子として誕生。戊辰戦争時には断髪・男装し家芸であった砲術を以て奉仕し、若松城籠城戦で自らもスペンサー銃を持って奮戦した。 戊辰戦争が始まる前、但馬出石藩出身で藩校日新館の教授をつとめていた川﨑尚之助と結婚したが会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが戦の最中に尚之助は行方不明になった。明治4年(1871年)、京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って上洛する。翌年、兄の推薦により京都女紅場(にょこうば 女子に対して読み書き算盤や裁縫・手芸を授けた教育機関)(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となる。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになる。兄の元に出入りしていた新島襄と知り合う。明治8年(1875年)10月に新島襄と婚約。当時、新島のキリスト教主義の学校建設を阻止しようと町の僧侶・神官たちが連日のように抗議集会を開き、京都府知事・文部省に嘆願書を提出するなどし圧力をかけていた為、八重は婚約直後、突如京都府により女紅場を解雇された。翌明治9年(1876年)1月3日に再婚。京都初の日本人同士のキリスト教式の結婚式であった。女紅場に勤務していたときの経験を生かし、同志社の運営に助言を与えた。欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦であったという。夫をかしずかせ、車にも夫より先に乗る姿を見て世間から悪妻と評された。同志社英学校においても戊辰戦争の際、会津藩を攻めた薩摩長州出身の学生を冷遇したり、問題を起こした兄嫁を義兄や襄が許しても家から追い出したりと、西洋の感覚を身に着けながらも、武士の誇りと道徳にこだわったため、周囲と軋轢を生んだ。このため、同志社英学校の学生達の演説会に夫婦で出席した際は、当時学生であった徳富蘇峰に演壇より「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺(ぬえ)のような女性がいる」と強く非難された。これに対し八重は全く動じなかったと伝わっている。しかし夫婦仲はとても良くこの時期夫の襄はアメリカの友人への手紙で「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。」と書いている。明治23年(1890年)、襄は病気のため急逝。二人の間に子供はおらず、更にこの時の新島家には襄以外に男子がいなかったため養子を迎えたがこの養子とは疎遠であったという。さらにその後の同志社を支えた襄の門人たちとも性格的にそりが合わず、同志社とも次第に疎遠になっていったという。この孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知りあった円能斎であり、その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かり、以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し裏千家流を広めることに貢献した。日清戦争、日露戦争では篤志看護婦となった。功績により昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を下賜される。その4年後、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて死去。86歳没。葬儀は「同志社社葬」として4,000人もの参列者があった。(Wikipediaより)