大相撲古今ケタはずれ物語<強情>「玉錦三右衛門」 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

  玉錦三右衛門は、大正五年二月、両親の反対を押し切って相撲入り。当時の規定である十七貫(63.75㌔)に達して初土俵を踏んだのは八年春、番付についたのは九年夏。正式の力士になれないうちから、夜中のうちに起きてドタンバタンやるので、兄弟子はみんな睡眠不足になるほどだった。
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 玉錦が、体といい足腰といい、素質的に恵まれなかったにもかかわらず大成することができたのは、ひとえに、ケタはずれの強情がまんと相撲好きによるものだった。
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 取的時代は近所でケンカばかりして、日に何度も部屋にシリがくるので、親方婦人はほとほと困り果てた。“ゴロ玉”“ケンカ玉”の異名を取り、またあまりのけいこ熱心から生キズとコウヤクがとれたことがなく“ボロ錦”といわれた。
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 十両、平幕時代は、早朝からけいこ場におりて若手にけいこをつけ、六時ごろからは同僚と、八時ごろ、栃木山、常ノ花がけいこをはじめると、さっそく飛び出し、ただ一人の玉錦が二人の横綱にかわいがってもらう。くたくたになっても「もう一丁、もう一丁!」とぶつかっていくので、さすがの横綱も根負けしてわざと負けてやる。するとようやくニコニコして引き下がったという。
 横綱昇進後も、おそくとも五時までにはけいこ場におりていたそうな。
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 出足鋭く一本差してどっと寄る一手。いかなる弱敵相手でも緊迫の意気ものすごく“シシがウサギを倒すにも全力をつくす”の概があり、八百長ぎらいでスゲなく断るため、相手の後援者や力士仲間からうらまれることも再三ではなかった。一度負けた相手には必ず借りを返すという根性で大成した。
 九州巡業から大阪へ乗り込む船中で、盲腸炎を急発、大阪日生病院で手術を受けたときはすでに手おくれ。あまりの強情がまんが死因になった。「きょうはお客さんに申しわけなかった。あすは死んでも取る。締め込み持ってこい」と口走っていた、という。
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 傍若無人な反面、弟子をかわいがることひととおりでなく、現役で亡くなったというのに、当時すでに百人を超す大所帯になっていた。
(古今大相撲事典より)

※二所ノ関部屋(にしょのせきべや)は、日本相撲協会所属の相撲部屋。1909年(明治40年)1月に二枚鑑札で5代二所ノ関を襲名した関脇・海山は、1911年(明治41年)1月場所限りで引退して友綱部屋に預けてあった内弟子を連れて二所ノ関部屋を創設した。なかなか弟子に恵まれなかったが、苦労して玉錦を大関に育て上げた。しかし玉錦が1932年(昭和7年)10月に第32代横綱に昇進する直前の1931年(昭和6年)6月に胃癌で死去し、弟子は粂川部屋に預けられた。1935年(昭和10年)1月に横綱・玉錦の二枚鑑札が許可され、6代二所ノ関を襲名して部屋の師匠に就任した。当時の二所ノ関部屋は稽古場さえ持たないほどの弱小な部屋だったが、猛稽古により一代で部屋を大きくし、先代弟子から関脇・玉ノ海や幕内・海光山などといった関取を育てた。しかし、勧進元も務めてこれからという1938年(昭和13年)12月に虫垂炎を悪化させ、腹膜炎を併発して34歳の若さで死去した。6代二所ノ関(玉錦)が亡くなった後、関脇・玉ノ海が1939年(昭和14年)1月に26歳の若さで二枚鑑札・7代二所ノ関を襲名して二所ノ関部屋を継承した。戦争中は食糧確保のために部屋単独で勤労奉仕を行ったが、このことにより玉ノ海は戦犯容疑で逮捕された。その際の日本相撲協会の冷遇が要因となり、玉ノ海は弟弟子の大関・佐賀ノ花に二所ノ関部屋を譲って1951年(昭和26年)5月に38歳の若さで廃業した。7代二所ノ関は先代弟子から関脇・神風、幕内・大ノ海、幕内・十勝岩、直弟子から関脇・力道山などの関取を育てた。1951年(昭和26年)9月に二枚鑑札で8代二所ノ関を襲名した大関・佐賀ノ花は、1952年1月に引退して年寄専務となり二所ノ関部屋の経営に専念した。7代二所ノ関の「分家独立を推奨する」という方針の下で、大ノ海(花籠部屋を創設)、琴錦(佐渡ヶ嶽部屋を創設)、玉乃海(片男波部屋を創設)らは分家独立を目指して二所ノ関部屋に自分たちの内弟子を抱えていたものの、実際の分家独立に際しては問題が相次いだ。8代二所ノ関は横綱・大鵬や大関・大麒麟などを育て上げ、二所ノ関一門の総帥となるまでに部屋を大きくしたが、1975年3月に急性白血病で死去した。その後は、8代二所ノ関の通夜の晩に後継の名乗りを上げた大鵬親方が一代年寄を返上して9代二所ノ関として部屋を継承するか、部屋付き親方の押尾川親方(大麒麟)が後継として9代二所ノ関を襲名すると見られていた。正式に後継者が決まるまで、6代二所ノ関(玉錦)の弟子で二所ノ関一門の最長老であった湊川親方(十勝岩)が暫定的に9代二所ノ関を引き継いだが、その期間は実に1年4ヶ月にも及んだ。部屋の相続争いに嫌気が差した大鵬は後継争いから降り、対する押尾川親方の後継は大おかみ(8代二所ノ関未亡人)が拒否して、混乱は長期間に及んだ。結局、部屋の所属力士である金剛が8代二所ノ関の次女と婚約して娘婿になることで10代二所ノ関を襲名することに決定し、1976年9月場所限りで27歳で引退して部屋を継承した。10代二所ノ関の相続争いに敗れた押尾川(大麒麟)は、1975年9月3日に自分を慕う小結・青葉城、幕内・天龍など16名の力士を連れて8代二所ノ関の墓所である台東区谷中の瑞輪寺に立てこもり、二所ノ関部屋からの分家独立を申し入れた。これに対し8代二所ノ関未亡人側は、押尾川の要望を一切認めなかった。そこで二所ノ関一門の実力者である花籠親方(大ノ海)の調停により、1976年9月場所後に押尾川部屋の分家独立を認めること、16名中6名(青葉城ほか幕下力士)だけの移籍を認めることで合意した。この際に移籍が認められなかった天龍(天龍源一郎)は、同年9月場所を最後に26歳で廃業して全日本プロレスに入門し、プロレスラーへと転身した。10代二所ノ関が師匠に就任して以降は、現在までに小結・大善しか関取を輩出できておらず、平成時代に入ってからは急速に部屋の勢力が衰えている。(Wikipediaより)