『平清盛』第25回「見果てぬ夢」感想  | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

今回は、平治の乱のプロローグにして、
もうすぐ非業の最期を遂げる信西と源義朝への鎮魂歌のような回でした。

また腐ァンが「死亡フラグ」とか騒ぐんだろな。

私としては、信西にも義朝にも、最後の最後まで、
平清盛の強大なライバルであり続けてほしかったのですが、
優しい、純粋な人で終わってしまいそうなのが残念です。

義朝は、頼朝のために捨石になることを覚悟した、為義的いい親父路線。
信西なんか、生き仏路線ですもん。

まあしかし、
平治の乱までを『平清盛』の「青雲編」とするならば、
若い時から清盛に関わってきたこの二人を、
青春の象徴として描き切ってしまうのもよいでしょう。

そのかわり、
政権奪取後の「諸行無常編?」においては、
清盛が拓いた「武士の世」を奪い去ってしまう源頼朝、
そして「二本松」一方の雄、後白河院に、
おおいに清盛を苦しめてほしいものです

おっと、もう一人。
讃岐に流された崇徳院が、
『新八犬伝』の「玉梓が怨霊」の如く祟りをなすか?

※平治の乱(へいじのらん)は、平治元年12月9日(1160年1月19日)に発生した政変である。保元元年(1156年)の保元の乱に勝利した後白河天皇は、全国の荘園・公領を天皇の統治下に置くことを意図し、その国政改革を立案・推進したのが信西であった。信西は、内裏を再建し、新制30ヶ条を出し、公事・行事の整備、官人の綱紀粛正に取り組んだ。信西一族の台頭は目覚ましく、経済基盤の確保にも余念がなかった。平氏一門は北面武士の最大兵力を有していたが、乱後にはさらに勢力を拡大した。平清盛は大宰大弐に就任することで日宋貿易に深く関与し経済的実力を高めた。一方、鳥羽法皇から荘園の大半を相続していた美福門院を中心としたグループは、美福門院の養子、東宮・守仁の即位を信西に要求した(二条親政派)。もともと後白河の即位は守仁即位までの中継ぎとして実現したものであり、保元3年(1158年)「仏と仏との評定」すなわち信西と美福門院の協議により後白河天皇は守仁親王に譲位した(二条天皇)。後白河は、頼れるのは信西のみであったが、その信西も元は鳥羽法皇の側近で美福門院とも強い関係を有していることから、状況は不利であった。そこで後白河は、武蔵守・藤原信頼を抜擢する(後白河院政派)。信頼は右近権中将、蔵人頭、参議・皇后宮権亮、権中納言、検非違使別当と急速に昇進する。もともと信頼の一門は武蔵・陸奥を知行国としており、両国と深いつながりを持つ源義朝と連携していた。義朝の武力という切り札を得た信頼は、摂関家との婚姻も実現させる。二条親政派と後白河院政派は対立していたが、信西の排除という点では意見が一致し、信西打倒の機会を伺っていた。一方、清盛は中立的立場にあった。平治元年(1159年)12月、清盛が熊野参詣に赴き京都に軍事的空白が生まれた隙をついて、反信西派はクーデターを起こした。9日深夜、信頼と武将らの軍勢が院御所・三条殿を襲撃する。信頼らは後白河上皇の身柄を確保すると、二条天皇が居る内裏内の一本御書所に移した。このクーデターには二条親政派の同意があったと推測される。山城国田原に逃れた信西は追撃を振り切れず、14日自害した。二条天皇・後白河上皇を確保して政権を掌握した信頼には、大半の貴族が反感を抱いていたが、二条親政派も密かに離反の機会を伺っていた。清盛は、紀伊国で京都の異変を知り、17日帰京する。信西と親しかった内大臣・三条公教は信頼の専横に憤りを抱き、清盛を説得するとともに二条親政派に接触を図った。二条天皇の六波羅行幸の計画が練られ、25日夜、後白河は仁和寺に脱出し、二条天皇は清盛の邸である六波羅へと移動する。公卿・諸大夫は続々と六波羅に集結する。摂関家も参入したことで、清盛は一気に官軍としての体裁を整えるに至り、信頼・義朝の追討宣旨が下された。26日早朝、信頼・成親は義朝とともに武装して出陣する。義朝は決死の覚悟で六波羅に迫るが六条河原であえなく敗退した。清盛の前に引き出された信頼は自己弁護をするが、処刑された。義朝は東国への脱出を図るが、29日尾張国・長田忠致の邸にたどり着いたところを鎌田正家とともに殺害された。ここに後白河院政派は事実上壊滅することになる。平氏一門の知行国は乱の前の5ヶ国から7ヶ国に増加した。信西打倒に関わった者は、後白河院政派・二条親政派を問わず政界から一掃された。後白河上皇と二条天皇双方の有力な廷臣が共倒れになったが、乱勝利の最大の貢献者である清盛はどちらの派にも与することなく、平氏一門は要職を占め、政治への影響力を増大させた。平氏の知行国も一門だけでなく郎等にも及びその経済基盤も他から抜きん出たものとなった。さらに、多くの軍事貴族が戦乱で淘汰されたため、国家的な軍事・警察権も事実上掌握した。清盛はその政治力・経済力・軍事力を背景に朝廷における武家の地位を確立して、1160年に正三位に叙され、参議に任命され、武士で初めて公卿(議政官)の地位に就いた。やがて一門からも公卿・殿上人が輩出し、平氏政権を形成していったのである。(Wikipedia)