法隆寺金堂壁画 京都便利堂コロタイプ印刷と再現模写 | タクヤNote

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元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
アメーバピグや、配信アプリ『RIALITY』で知り合った人の
アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

南都七大寺にこだわるこのブログ、タクヤNoteですが、最近特に法隆寺の記事を連続で上げておりまして、昨年12月11日今年1月19日に続いて、今回もまたまた、法隆寺金堂壁画のことを記事に書きます。1月14日に法隆寺に参拝した時に見た、修正会に合わせて金網が外され、これまで無いほどにはっきりと目の当たり出来た復元壁画が印象に残っていて、壁画に対する想いがずっと続いていたからです。

 

法隆寺金堂 撮影:2014年12月9日

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そこで、アマゾンで一冊の本を注文して取り寄せました。『法隆寺 金堂壁画 奈良の寺8』(柳沢 孝著・岩波書店刊)です。これまで図書館などで参考資料としてよくお世話になっていた本ですが、この機会に中古本で購入しました。

 

 

届いた本を開封して手に取ると、まず表紙が目に入るわけですが、そこでちょっと気になるところを見つけました。本のタイトルの下、著者の名前の横の文字です。

 

 

『撮影 便利堂』

法隆寺金堂壁画について調べるにあたり、この『京都 便利堂』が何度も目にするワードとなりました。小生が便利堂についてよく知るようになったのは、昨年12月7日に鑑賞した、奈良国立博物館での『特別陳列 法隆寺金堂壁画写真ガラス原版』です。

この特別陳列では金堂壁画を昭和9(1934)~10(35)年に微細に撮影した写真ガラス板を中心とした展示がされました。昭和24(1949)年1月26日に発生した火災によって焼損した貴重な壁画を後世に残した奇跡の記録となり、平成27(2016)年に写真ガラス板が国の重要文化財に指定されました。

 

奈良国立博物館で展示される法隆寺金堂壁画写真ガラス原版 画像引用:産経フォト2019年12月6日 

 

この貴重な奇跡の写真撮影の大役を担ったのが、京都の美術印刷出版会社の便利堂だったのです。

「一度行ってみたい」

ブログ記事を書くための資料調査で、85年前に金堂壁画を撮影した京都便利堂が、老舗の美術印刷の会社として今でも営業をしていることを知ったのです。それで重ね重ね名前を聞くことになった京都便利堂に一度訪れたいという想いが募って、今年1月29日に京都へと出かけました。大阪北部在住の小生にとって、京都は奈良よりも本当は行きやすい所なのです。

 

京都便利堂は京都市中京区・新町通り二条、西に二条城、北に京都府警本部、東に京都御苑という立地に会社を構えておられます。グーグルアースで見ると、大きな会社ビルです。

 

 

便利堂の会社があるのはこの場所なのですが、今回小生が訪れた場所は違う場所です。小生が向かったのは京都一の繁華街である中京区の河原町三条です。鴨川三条大橋から西へ、三条商店街を抜けた先に便利堂の直営店があるのです。

 

 

小生がこのブログの取材で京都・三条商店街を訪れるのは実はこれが初めてではありません。アメーバピグで友だちになったまち針アーティストの みいみい さんの作品を置いているということから、三条商店街の針の専門店『みすや針本舗』に2012年11月30日に訪れて、2015年1月13日のブログ記事で紹介をしているのです。

今回訪れた便利堂の直営店の場所は みすや針本舗の本当に近くで、タクヤNoteはこの場所とよくよく縁があると思いながら便利堂へ向かいました。

 

三条商店街のアーケードを抜けて200mも無い距離を歩いた所、便利堂の直営店『美術はがきギャラリー京都便利堂 京都三条富小路店』があります。京都らしい町家の店舗でした。

 

 

明治20年創業という130年以上の歴史を持つ老舗の便利堂の、創建時に営業をしていたという地に2004年オープンした店です。あの法隆寺金堂壁画を復元した美術印刷の店舗と聞いて興味津々で店の中に入りましたが、店の中は絵はがきや便箋、アートグラフィックなど、主に京都にまつわる美術印刷の商品が店一面に陳列され、京都の土産店という様相でした。

 

便利堂京都三条富小路店 画像引用:グーグル・ストリートビュー 

 

「法隆寺金堂壁画に関する物は売られていないか」小生は京都みやげが並ぶ店内を、つぶさに見て廻りました。そして、一冊の本が棚に置かれているのを見つけました。『便利堂創業一三〇周年記念出版 時を超えた伝説の技 文化を未来に手渡すコロタイプによる文化財の複製』というサブタイトルも合わせるとちょっと長いタイトル(以下『時を超えた伝統の技』と略)

 

 

便利堂が刊行した『時を超えた伝統の技』は52ページとページ数は多く無いのですが、便利堂が培った高い技術と、長い歴史の中で残してきた文化財複製の記録の詳細が書かれているのです。

その中には法隆寺金堂壁画の複写事業についてもあり、まさに欲しかった価値にある資料。すぐに購入のために本を持ってレジへ。

 

 

会計の時、レジの女性店員さんに「奈良国立博物館での写真ガラス原板の展示を見て、一度この店に来たいと思い今日は来ました」とちょっと話してしまいました。これを便利堂で言いたかったのです。

 

それと家に帰った後、京都便利堂オンラインショップで、『絵はがきセット 法隆寺金堂壁画』(19枚セット)をネット販売で購入しました。ブログの図録によく使うので絵はがきを買うことは多いのですが、金堂壁画を撮影した便利堂が販売している絵はがきですから、他で買うのとはわけが違うとちょっと満足感に浸っております。

 

 

「焼損した法隆寺金堂壁画が、どのように復元模写されたのか。その詳細を知り法隆寺のことをより深く知りたい」

以下この記事では『時を超えた伝統の技』を元に、奈良国立博物館の『特別陳列 法隆寺金堂壁画写真ガラス原板』の図録を一部資料として、便利堂と法隆寺が取り組んだ壁画の復元事業について書いていこうと思います。便利堂におじゃまをして、さらに法隆寺の波乱の歴史を学ぶ機会となりました。

 

 

京都便利堂は明治20(1887)年に貸本売店として創業、翌年(1888)には印刷・出版業を始め、明治38(1905)年にコロタイプ印刷という写真製版を行うようになりました。小生は印刷技術のことも少し知識を持っていましたが、奈良博での特別展を観るまではコロタイプ印刷という技術は聞いたことがありませんでした。

 

『時を超えた伝統の技』によると、コロタイプ印刷は140年ほど前にフランスのアルフォンス・ポアトヴァンが原理を発見し、ドイツのヨセフ・アルバートによって実用化された最も古式の写真製版技術の一つです。

 

 

 

コロタイプ製版とはどのような写真製版法なのか、『時を超えた伝統の技』やWikipediaを参考に要約して書いてみます。

まず、ゼラチン(膠)に感光材を混ぜたものをガラス板に塗布したゼラチン版を作ります。そのゼラチン版にネガ版の写真を焼き付け機で投影し感光させると、印刷の原版となるゼラチン版が完成します。そしてそのゼラチン版の原版を印刷機に掛けて、顔料でプリントすると、ゼラチン版の光が投射され硬化した部分だけにインクが付着するため、ネガ写真板の白の部分のみ顔料インクが刷られるのです。

 

コロタイプ印刷機 画像引用:『時を超えた伝統の技』

 

現在の印刷物のほどんどは『オフセット平版印刷』という技法でされています。PS版と呼ばれる感光材が施されたアルミ板に写真技術で原版を作成。輪転機という大型ローラーを持つ印刷機で大量印刷に向いている技術。

オフセット印刷技術が発明されたのは110年ほど昔で、コロタイプ印刷に遅れること30年ですが、コロタイプ印刷に比べて印刷をするのに手間ひまが短縮されること、多重刷りに長けているためカラー印刷に適していること、印刷速度が格段に速いなど現代の大量印刷の時代の流れで主流となり、かつて広く行われていたコロタイプ印刷は時代遅れの技術として衰退して行ったのです。

 

現在ではコロタイプ印刷を主軸として印刷業を運営している会社は、世界でこの京都便利堂ただ一つとなったそうです。京都便利堂が写真製版初期からのコロタイプ印刷に現代でもこだわり続けることが出来たのか。それは、京都便利堂という会社が日本の国宝・重要文化財の図画の複製印刷という独自の路線にコロタイプ印刷の特性を活かすことが出来たからです。

コロタイプ製版ではゼラチン版に投射する光の量で中間調が表現出来るのに対し、オフセット製版ではこの中間調というものが出せないために、網点と呼ばれるドットで階調を表現するするしかありません。そのために微細な描画を追求すると、コロタイプはオフセットよりも秀でているのです。

 

画像引用:便利堂・リーフレット(拡大)

 

そして、その京都便利堂のコロタイプ印刷の名を世に知らしめる機会となったのが、法隆寺金堂壁画の模写事業でした。この事業のことは昨年12月11日の記事『特別陳列 法隆寺金堂壁画 写真ガラス原板 ─ 奈良国立博物館 令和元年12月7日 ─』でも詳しく触れていますので、今回の記事はその補足として書きます。

 

法隆寺金堂壁画がいつ描かれたのか。文書による記録がないために、7世紀初期の法隆寺創建時から、五重塔塑像群が作られた8世紀始めの奈良時代初頭まで諸説がありますが、古来から中国の敦煌莫高窟などと並んで古代仏教絵画を代表する1つとされて来ました。

便利堂がこの金堂壁画の写真撮影を行ったのは昭和10(1935)年のこと。当初の目的は文部省法隆寺国宝保存事業部が主導した『昭和の大修理』に合わせ、壁画の複製模写の下絵にすることが目的の写真撮影だったそうです。

驚くべきはその写真の精細さです。原板は全紙判で有効画面サイズが565×456㎜。我々が普段カメラで使っていた35ミリフィルムのサイズは35×24㎜ですから、単純計算で縦で16倍、横で19倍という超高画質での原版となります。奈良国立博物館での特別陳列で小生は、重要文化財に指定されている写真ガラス乾板の実物を見た時は、あまりの乾板の大きさにビックリしてしまいました。

 

法隆寺金堂壁画写真ガラス原板 画像引用:『時を超えた伝統の技』

 

コロタイプ印刷では写真ガラス板をそのまま原版として等倍で印刷をするために、こんな大きな写真ガラス板が必要だったそうです。等倍の原版にするために大壁である1号壁・6号壁・9号壁・10号壁は40分割、他の8面の小壁は24分割と、計352枚に加え、仏の顔の部分などの別途撮影分も加え合計363枚もの写真ガラス原板が作られました。

撮影には便利堂から4名、カメラ技術者として小西六写真工業(現コニカミノルタ)から2名が参加。壁面の前に枠を作り、その枠の中を上下左右自由に動く特製の写真機を取り付けて撮影されました。

 

 

法隆寺金堂壁画撮影風景(昭和10年) 画像引用:『時を超えた伝統の技』
壁画撮影模型 画像引用:『特別陳列 法隆寺金堂壁画写真ガラス原板』図録

 

その14年後、昭和26(1949)年1月26日の朝に法隆寺金堂で火災が発生し、昭和の大修理のため須弥壇の仏像群と外陣小壁の飛天図は他に移されていたものの、小壁十八羅漢図は破壊され、菩薩や浄土図が描かれた12面の大小壁は火災の高熱によって見るも無残に変色してしまいました。

 

こうして、古代の壁画が焼損したことにより、奇しくも便利堂の写真ガラス原板がオリジナルを記録した唯一の本物になってしまったのです。

最初に紹介した岩波書店刊 写真集『法隆寺金堂壁画 奈良の寺8』ですが、現在法隆寺で見ることが出来る模写壁画を撮影した写真は載っていません。掲載されている壁画の図版は、すべては85年もの昔に便利堂によって撮影された写真だけなのです。つまり便利堂が撮影したこの写真のみが現在では本物とされているのです。本物は失われてしまいましたが、写真では本物を見ることが出来る、まさに便利堂の奇跡なのです。

 

『法隆寺金堂壁画 奈良の寺8』(柳沢 孝 著・岩波書店刊)

 

『時を超えた伝統の技』ではこの写真ガラス板を用いて行われた壁画の模写事業についての解説もありました。

法隆寺金堂壁画の模写は二度行われました。初めは昭和15年から始められた模写事業で『昭和の模写』と呼ばれています。荒井寛方・入江波光・中村岳陵・橋本明治の4人の日本画家を主任とし、4チームで手分けして12面の壁画の模写が行われました。

この時は画家が実物の壁画を見ながら写生するという方法を取られ、画家は便利堂が撮影した写真からコロタイプ印刷で和紙に刷られた下絵の上から彩色をして複写を行いました。この時、正確な色彩を見るため、壁画を照らす照明に電器メーカー東芝が試作品を完成したばかりの白色蛍光灯を導入したのは有名な話です。

 

金堂壁画の前で模写をする日本画家・橋本明治 照明の蛍光灯も見えます 画像引用:『時を超えた伝統の技』

 

この昭和の模写は画家同士の意見の衝突や各々の画家のこだわりなどが祟り、作業は遅々として進まなかったそうです。さらに始まった翌年には太平洋戦争が勃発し、2年後の昭和17(1942)年にははや、模写は中断、戦争の被害を受ける恐れもあると、金堂の解体まで一部行われました。

戦後、この模写作業は細々と再開されたそうですが、中断期間の間に主任画家であった荒井寛方と入江波光は故人となり、さらに昭和24年の火災によって、模写事業は完全に頓挫してしまったのです。結局昭和の模写で描かれたのは12面中5面、未完で終わったのが3面、残り4面は着手もされませんでした。

 

二度目の模写事業は金堂火災から18年後の昭和42(1967)年で、戦後の模写と呼ばれています。この模写事業は焼損した壁画の代替えとして、新たに金堂の壁に飾る模写図を作成するのが目的でした。

朝日新聞社が後援となり、前回の昭和の模写同様に4人の日本画家を主任としたチームでの模写となりました。主任となった4人は 前回も担った橋本明治に加えて安田靫彦・前田青邨・吉岡堅二という錚々たるビッグネームが名を連ねることとなりました。後に日本画壇の巨匠と呼ばれることとなる平山郁夫も、前田青邨の弟子としてこの模写に参加をしています。

 

自身のアトリエで再現複写を行う前田青邨 画像引用:『時を超えた伝統の技』

 

このお話は、1月14日の修正会結願の日に金堂で拝観をした時に、堂守さんから北子さん(仮名)と一緒に聞かせていただきました。堂守さんは北面の薬師浄土図を指さして「あの壁画は安田靫彦のチームが描きました」とか西面の阿弥陀浄土図を指さして「前田青邨のチームが描きました」など、身振り手振りで教えていただいたのが印象的でした。

 

戦後の模写は実物の壁画が焼損してしまったので、戦前の昭和の模写のように金堂で壁画の実物を見ながら写生をすることが不可能になってしまったので金堂に籠る意味が無くなり、4チームはそれぞれの画家のアトリエで、便利堂の写真や昭和の複写図などを見本に模写をすることとなりました。

対立する別の画家もいない,、勝手のいい自身のアトリエでの模写。その環境が功を奏したのでしょうか、わずか一年ほどで模写図は完成、昭和43(1968)年11月には落慶法要の運びとなったのです。今の金堂で壁画を見ることが出来るのは、この事業によってなのです。

そして、この模写でも下絵となったのが、便利堂によるコロタイプ印刷だったのです。

 

またこれも1月14日修正会のために金網が外された金堂で、頭を出して外陣の中を覗き込んで初めて知ったことですが、金堂の復元模写壁画というのは和紙に描かれた絵が木のパネルに貼られ、そのパネルが鴨居などに金具で固定されていたのです。そのために壁画は金具さえ取り外せば、壁から外して持ち出すことも可能なのです。

小生は“壁画”というくらいですから壁に描かれているものとばかり思っていたので、このことはとても驚くべき大発見でした。北子さんもそのことには驚かれていたようでした。

 

法隆寺金堂模写壁画 画像引用:https://twitter.com/horyujikondo/status/1217736042595246081 

 

『時を超えた伝統の技』には、法隆寺金堂壁画以後の文化財復元事業のことを書かれていました。紹介されていたのは『正倉院文書』『宮内庁書陵部の古典籍』『岐阜・来振寺 五大尊像』『伊藤若冲筆《動物綵絵》《釈迦三尊像》』『尾形光琳筆《風神雷神図屏風》』『酒井芳一筆《夏秋草図屏風》』と、いずれも国宝指定されていたり、宮内庁所蔵などの名だたる文化財ばかりです。

コロタイプ印刷は日本画と同じ紙に日本画絵具と同じ色を出す顔料を重ね刷りするので、紙に描かれた文化財に対しては限りなく本物に近く印刷が出来るという特長があるのです。

 

左上・花園院宸記(宮内庁書陵部蔵) 右上・五大尊像[平安時代・国宝](岐阜 来振寺蔵 奈良国立博物館委託管理)
左下・動植綵絵 伊藤若冲筆[江戸中期・御物](京都 相国寺旧蔵・三の丸尚蔵館蔵)
右下・夏秋草図屏風[江戸時代後期・重文](東京国立博物館蔵)
画像はいずれもコロタイプ印刷による模写 画像引用:『時を超えた伝統の技』

 

昨年鑑賞した奈良博での法隆寺金堂壁画の写真の特別陳列から始まった京都の旅。140年前の非常に古い写真製版技術が、現代になって文化財複写の最先端技法として見直される。たくさんの文化財を鑑賞して来た小生にとっても、とても興味深いレポとなりました。

 

なお、今京都便利堂のHPを見ると、今回訪問をした便利堂京都三条富小路店および、東京神保町店が1月31日で一旦休業の告知がされていました。小生が訪れた1月29日時点ではそんな告知は無かったと記憶しており、正直あまりに突然でびっくりしています。再びのオープンを強く希望します。

 

 

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