修正会・結願 ─ 法隆寺 令和2年1月14日 ─ | タクヤNote

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元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
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アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

今年は東大寺の年始行事である修正会(しゅしょうえ)に初めて行ったのをきっかけに、まだ行ったことの無いもうひとつの奈良のお寺の修正会に行くことにしました。斑鳩の法隆寺の修正会です。

 

修正会(しゅしょうえ)とは年の初めに国家安穏と万民豊楽を祈願する法会で、上代の多くの大寺で大々的に行われてましたが、今では東大寺でも1月7日のみ簡略化した形で行われるにとどまるなど、多くの古寺で廃止や縮小をしています。そんな現代の事情の中で法隆寺は1月8日から14日までの7日間という大きな規模で行われます。

前回1月19日の記事『植村隆久 小品展*北子さん(仮名)との法隆寺デート♥』でも書きましたが、この7日間にわたる行法の結願となる1月14日に、まだ見たことの無かった法隆寺修正会を見学するために法隆寺に行きました。実は見学には事前の申し込みが必要ということで、法隆寺に事前申し込みをし事前準備をしっかりとして、法隆寺から届いたはがきを持参しての参拝でした。

 

 

法隆寺の修正会は、奈良時代から始められたとても長い伝統を持つ行事です。お水取りこと東大寺二月堂修二会は奈良時代の天平勝宝4(752)年から一度も途切れることなく続けられてきたという世界有数の伝統ある行事で知られますが、法隆寺の修正会も同じ奈良時代の神護景雲2(768)年に始められ大きな中断も無く続けられおり、お水取りに引けを取らないほどの伝統を持っています。

 

修正会の法会は7日間、早朝、午前、午後(夕刻)と3回営まれます。早朝は朝6時、午前は午前11時半、そして午後は午後6時からです。このうち午前は拝観時間内となっているため、時間を合わせて行けば誰でも見学をすることが出来ます。小生が事前申し込みをしていたのは午後6時からの午後(夕刻)の法会だったのですが、午後1時に法隆寺に着いていました。

 

 

1月7日の東大寺大仏殿での修正会も雨降る日でしたが、この日も夜から雨の予報が出ているどんよりとした曇りの日で、この後夜を待たずに雨粒が落ちて来る生憎の天気となりました。本当に小生の雨男ぶりは健在です。

お昼から法隆寺に行ったのは、この拝観時間中の修正会の法会が見れるのではとの期待からでした。午前11時半に間に合わせれば見ることが出来たのですが、法隆寺が時間を告知されていなかったこともあり、到着した午後1時にはすでに午前中の法会は終わっていたのです。

前回1月19日のブログ記事の中でも触れましたが、金堂では一般拝観の通路である裳階の廻廊と外陣との間にいつもは仕切っている金網が、修正会の期間は取り外されるのです。そのために三本尊や復元壁画が手で触れられるかと思うくらい、間近によく見ることが出来ました。このことはこの日の大発見となりました。法隆寺金堂の拝観は1月7~14日の修正会の期間がぜひお勧めです。

 

申し込みをしていた午後の法要は午後6時から、法隆寺が指定をされた集合時間は午後4時半となっていたので、それまでの時間をどうしようかと思っていましたが、この時に金堂でご一緒になった北子さん(仮名)と法隆寺を見て廻ったので、修正会までの時間は楽しいものとなりました。ただ、北子さんは午前11時半からの法要を見てみたかったと大変に残念がられていて、小生が夕方から修正会の法会を見ることを伝えると「修正会のことはブログにアップするので、そこで見て下さいね」と話しました。

金網が外されていた他に、境内には本坊から金堂まで、灯籠が列のように並べられているのが、普段の法隆寺とは違っていました。夕刻にはここのろうそくの明かりが灯されるのです。

 

 

そうして、北子さんと別れたのは午後3時半ごろ。それから後に少し法隆寺から出て、集合時間に指定された午後4時半に再び法隆寺に帰って来ました。法隆寺の拝観時間は午後4時半までとなっているので、それに合わせての集合時間です。北子さんと境内を歩いていた時より夕闇が近づいていました。南大門を入ると正面が金堂や五重塔が建つ西院伽藍。左手が本坊で、本坊の門の前には警備員らしい方が立っておられました。

 

 

門をくぐると庭を通って本坊玄関に。修正会の別称である『吉祥悔過』を案内する張り紙があり、中に入ると受付があったので、そこではがきを出して受付を済ませました。その時にいただいた受付番号は『27』。聞く話によると一回の定員は30名で、小生の27は再末尾の受付番号でした。

 

 

玄関で受付を済ませると本坊奥の20畳以上もある大広間に案内されました。畳の上に長机が並べられ、参拝者はそこで修正会について詳しく書かれたB4サイズ一枚の資料をいただき、法隆寺僧から修正会の説明を受けます。この時いただいた説明の内容については、この後に書きます修正会について紹介する中で書きます。

資料の左上は受付番号を書いた札、そして心遣いを感じる使い捨てカイロまでいただいたのです。

 

 

さらには「堂内は大変寒いです。これを食べて暖まって行ってください」と、きつね昆布うどんまで出していただきました。案内では午後8時20分終了予定で、それから晩ご飯をどこかで食べないとと思っていたのですが、思わぬご馳走で一食浮いた形になりました。

 

 

そして「ここを出るとトイレはございません。事前に済ませて下さい」と何度も注意を受け、小生も本坊内のトイレへ。そうして、午後5時半となり、見学者は本坊前の参道へ案内されました。午後4時半にはまだ本降りにでは無かった雨も、この時間にはかなり強い降りになり、見学者も傘を手放せなくなっていました。

足元を照らす灯籠のろうそくにの火も灯されていて、いよいよ修正会・午後(夕刻)の法会が行われる金堂へ我々は向かいます。

 

 

我々は受付番号順に列を作り、ゆっくりと金堂までお練りのように歩きます。中門へ向かう正面参道から、普段は出口となっている東口から西院伽藍内に入り、東回廊を歩いて行きました。お寺の人の先導で歩き、金堂に到着するまでの道順はすべて灯籠が並べられ、まるで自分たちもその儀式に参加しているような厳かさを感じました。

 

 

受付番号が再末尾だった小生はこの列の一番後ろで、行列の様子を写真に撮ります。普段は見ることの出来ない夜闇が迫った法隆寺境内を歩いて、金堂へは東口から入堂です。

非常に暗い境内で、しかも先導されて歩きながらの撮影だったので、この時の撮影はISO(ASA)2500という超高感度撮影だったにもかかわらず手ブレ気味となり、オートフォーカスは使えずマニュアルフォーカスも困難を極めました。雨という悪条件もあり、多くの写真はピントがかなりぼけてしまいました。

 

 

金堂に到着すると、南側の裳階の廻廊に通されました。須弥壇正面は普段は飛鳥時代の三本尊を見る拝観者の場所なのですが、この時はその廻廊に参拝時間中には置かれていなかった前後二列でパイプ椅子が並べられていました。我々修正会の見学者は、このパイプ椅子に座って約2時間にわたる法要を見学します。

 

イメージ 画像引用:イラストボックス

 

昼間には僅かに連子窓から差し込む陽光と、近年になって設置された白色LED照明でほの明るく照らされている金堂須弥壇ですが、この時は照明も消され揺らめく橙色の燭光のみの光で浮かび上がる飛鳥仏群は幽玄の情景となっていました。

本坊での説明の時にいただいた資料によると、吉祥天と多聞天の二天を本尊として、国家の安穏、万民豊楽、寺門の興隆を祈願し罪過を懺悔する法会とあります。本尊のひとつは多聞天と書かれていましたが、多聞天とは毘沙門天の四天王としての一つになった時の別称で、金堂の像は一般的には毘沙門天と呼ばれ、吉祥天と一対となっています。

奈良時代に修正会が行われていた時代には、大講堂で吉祥天と毘沙門天の図画を立てかけて本尊として行われたと記録されています。それが平安時代に大講堂が焼失したのがきっかけでしょうか、金堂に木造彩色の吉祥天・毘沙門天立像[平安時代・国宝]が造像され安置されると、以後吉祥悔過の異名を持つ修正会は大講堂から金堂で勤行されるようになりました。

金堂中央の釈迦三尊を挟み、向かって左が吉祥天、右が毘沙門天となっています。

 

修正会の飾り付けのされた金堂須弥壇(左から吉祥天立像 釈迦三尊像 毘沙門天立像)
画像引用:『法隆寺の四季 ─ 行事と儀式 ─』(小学館編 法隆寺刊)
 
金堂須弥壇中央の釈迦三尊像の前には山型に供餅が積まれ、“加持杖”という漆の枝に護札が付けられた杖や法螺貝などが用意されていました。加持杖は東大寺や京都・清水寺の修正会においては“牛王杖”と呼ばれており、法隆寺修正会 本尊となる弁財天・毘沙門天の二天像の前に供えられた加持杖は、まるで像が杖を手に持っているかのような置き方で供えられていました。
この金堂の飾り付けの様子は昼間の参拝時間にも北子さんと見ていて、堂守さんにいろいろと質問をしたりしましたが、夜の行法の様子を見て意味がよりよくわかりました。釈迦三尊・阿弥陀三尊・薬師三尊の三本尊ばかりが注目を集める法隆寺金堂ですが、修正会の間はこの吉祥天・毘沙門天の二尊が主役になるのです。
 

 

左・吉祥天 右・毘沙門天立像[平安時代・国宝]  画像引用:『もっと知りたい 法隆寺の仏たち』(金子啓明 著・東京美術 刊)
 

裳階の廻廊には何の明かりも無く、見学者は足元の見えない中を手探りでパイプ椅子に座ります。時々小さな懐中電灯で足元を照らす人もいましたが、元が暗かったのでわずかな懐中電灯の光も極端に明るく感じてドキッとしてしまいます。自分の感覚で言えば足元を照らすのなら、懐中電灯よりもスマートフォンのバックライトくらいの明るさがちょうどくらいに思いました。(行法中はもちろんマナーモードにしておきましたが…)

そうして、受付番号再末尾の小生がいすに座ると見学者の準備は完了し、勤行が始まる午後6時を待ちます。

 
午後6時。我々見学者も入る時に通った金堂東口から、十人ほどの僧侶が入堂します。古来『金堂十僧』と呼ばれていた僧侶は、法会にて導師、呪師、大衆(堂行事)の役を担う出仕僧です。僧侶が金堂外陣に入られ、いよいよ修正会の始まりです。堂内での写真撮影はもちろん、本坊での注意で声明の録音も絶対禁止と言われてますので、ここからは文章などでの紹介となります。
まずは、イメージ画像として報道による法隆寺修正会の写真を載せます。(平成30年1月11日の修正会 朝日新聞デジタル2019年1月12日より)
 
 
 
僧侶たちによる午後(夕刻)の悔過法要は、日没(にちぼつ) 神供(じんぐ) 初夜(しょや) 半夜(はんや) 厳祈(ごんき) 結願(けちがん) の式順で進行します。始まりの行法である日没は静かな声明で始まりました。日没と、この後に行われる初夜・半夜は、早朝に厳修される後夜(ごや)・晨朝(じんじょう)、午前に厳修される日中(にっちゅう)と併せて『六時の行法』と呼ばれる悔過法要であります。
 
悔過法要の声明はとても美しく、心地よく聴くことが出来ました。しかしその声明もすぐに終わり、少し静寂の間の後、法螺貝が一斉に吹かれて雰囲気が一変します。式第二番目の神供が始まったのです。神供は西院伽藍の北西に祀られている総社の法隆寺の守護神を勧請し法要の無事を祈るという、神仏習合の儀式です。
本坊で聞いた説明によると、神供では出仕僧が総社まで行き、柏手を打って祈願するというのが本来の形なのですが、この日は雨だったので、雨儀ということで、金堂内で総社の方を向き祈願をすると形に変更をされるということでした。
 
 
神供に続いては六時の作法の一つ、初夜へと続きます。それに合わせる様に、吉祥天・毘沙門天の前の燭台に火が灯され、二天の顔が明るく浮かび上がります。
呪師の役を担う僧侶は漆の木の枝にお札を結った“加持杖”を手に、法螺貝を吹き、須弥壇の周囲を菩薩の名を唱えながら回向し仏を讃えます。毘沙門天(護世威徳多聞天)を意味する「ゴー」(護)や、吉祥天(南無大吉祥天菩薩)を意味する「ダ―イ」(大)といった大声での発声が静かな声明中に突然響き、行法の緊張感もあってドキッとしました。
 
金堂修正会 悔過法要(2020年1月11日) 画像引用:奈良新聞 2020年1月13日 
 
日没、神供、初夜が終わると、式第は半夜、そして厳祈と続きます。半夜は六時の行法の一つで、半夜導師が『国家安泰』『仏法繁昌』『寺門安穏』などを祈る表白文を読み唱うというもの。続く厳祈の儀というのは修正会四日目となる1月12日から始められる半夜作法に引き続いて行われる儀式で、須弥壇の周りを小走りで回向しながら、十二神将の名を微音で唱えるのです。
 
厳祈の儀は法隆寺修正会のクライマックスと呼ばれますが、我々見学者はその様子を見ることは出来ないのです。本坊での説明で聞いていましたが、厳祈は秘儀とされているため、半夜作法の所で裳階廻廊との間に目隠しの幕が掛けられてしまうのです。
見学者は音と幕に燭光にのよって影絵のように浮かび上がった、出仕僧の影絵のようなシルエットから儀式を想像するしかありません。法螺貝の音と鐃(にょう)と呼ばれる手持ちの鐘の金属音の耳心地よく、時々幕に浮かび上がる人影には、幻想的な儀式の神秘性を感じずにはいられませんでした。ただ、回向の途中に何か激しく叩きつけるようなけたたましい音も響いたのがビックリ。あまりの騒々しさに、中が見えない国宝の仏像群が並ぶ幕の中で一体何が行われているのだろうと、ちょっと心配になってしまいました。
 
半夜とハイライトとなった厳祈が終わると、須弥壇を隠していた幕が外されます。我々の眼前には、再び出仕僧の姿と、飛鳥時代から時間の止まったままの仏像群が現れます。そして午後7時半過ぎ、すべての法会の終了を唱える“結願”の作法が厳かに営まれるのです。7日間にわたる修正会は、この結願によって国家のこと、法隆寺のこと、民衆のこととたくさんの大願の祈念を果たし満了となりました。
 
結願作法が終わると、パイプ椅子が畳まれます。そして見学者は外陣前に誘導され整列します。『牛玉宝印』をいただくためです。見学者はここで四つ折りにされた紙を受け取ります。
 
 
この紙は広げるとB4サイズよりやや大きい賞状などでよく使われる八二版(394×272㎜)に近い大きさで、何かオカルトめいた感じのおどろおどろしい難字が並んでいます。家に帰ってから広げたのですが、ちょっと怖かったです。
 
 
ここに書かれている文字は…
 
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…であります。『牛玉護札』と呼ばれるもので、吉祥法要の間にずっと牛玉(仏のこと)に安穏と繁昌を祈願をし、その結願をした証となる宝印が朱印として捺されています。8日~13日に修正会を見学した人は後日この牛玉印が家に郵送されるのだそうですが、この14日の結願の日に見学をした私たちはその場で直接 宝印を捺していただけるのです。外陣前に整列するのは、その牛玉宝印を捺していただくためです。
見学者はいただいた護札を額にくっつけまして、呪師の僧がその護札の上から宝印を捺されるのです。下がその時の様子をイメージ絵にしたものですが、約30人の見学者は順番に並び、護札を付けた額に宝印を捺してもらうのです。小生も捺していただきました。
 
 
修正会を見学し、牛玉宝印までいただいた小生は、誘導されるまま金堂から出ました。お堂の外は冷たい雨が降り傘無しでは濡れてしまいます。そうして我々は回廊の外に出て、移動した先は西院伽藍のすぐ東隣、聖霊院という仏殿です。奈良時代に建てられた僧侶の道場であった東室の南面を平安時代後期に改築し、聖徳太子像を祀る霊廟として建立したのが聖霊院です。現在の建物は鎌倉時代に建て替えられたもので、国宝に指定されています。
 
出仕僧は聖霊院の建物の前に整列し、修正会のすべてが滞りなく満了したことを聖徳太子に報告をして、午後8時この日の法会はお開きとなりました。
 
 
この後は急がされるように南大門の外に誘導され、すべての見学者が門の外に出されると扉はぴしゃりと閉ざされてしまいました。何か用が終わったら追い出されるみたいな感じにもなりましたが、でもこれで法隆寺は普段通りの静寂の夜を迎え、新たな一年を迎えるのでしょう。
 
今回の修正会に見学をして思ったことですが、予想していたよりも寒さが堪えました。
これまでも、東大寺二月堂の修二会の行法を見学したこともありましたし、他にも2月に同じ法隆寺西円堂で行われた追儺会や、1月の若草山山焼きの撮影など、大概寒い場所に長時間居続ける経験をこの奈良レポでは数多くやっていたので、今まで通りの防寒装備でいけるだろうと思っていました。
しかし、それらはいずれも立っている時間が長かったのに対し今回の法隆寺修正会は約2時間パイプ椅子に座ったままで、立っているよりも寒さが堪えると意外な経験をしたのです。
本坊でいただいた使い捨てカイロを慌てて取り出して何とか乗り切ったという感じでしたが、腰から下が寒さで震えが止まらず、次からは腰から下に巻くストールや、靴の中に入れるインソールのカイロなどを用意しなくてはというのがこの日の反省となりました。
 
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