《ネタバレあり》天上の虹(里中満智子著) 23巻 | タクヤNote

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元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
アメーバピグや、配信アプリ『RIALITY』で知り合った人の
アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

このブログではおととしの8月25日の記事で紹介をしています、里中満智子のライフワーク、持統天皇の生涯を描いたまんが『天上の虹』の最終巻となる23巻がついに出版されました。昭和52(1983)年から足かけ32年にわたる長期間にわたるライフワークでしたが、今度の23巻で完結となることで、非常に注目されていました。
前の22巻は平成25年の8月23日の正に発売日当日に書店に行って買いまして、最終巻も発売日に即買おうと望んでいたのですが、里中満智子公式ブログで発表された発売日を見ると、なんと3月13日じゃありませんか。
http://satonakamachiko.blog.fc2.com/blog-entry-4.html

この前日の3月12日は東大寺お水取りの香水汲みの行事が行われるので、夜明かしで奈良に滞在する予定だったのです。おかげで翌日の日中はバタンキューとならざるえ得なかったので、本屋に行くこは出来そうにありませんでした。大概の日であれば調整して当日に買いに行くつもりでしたが、よりによって東大寺の一番大事な3月12日の翌日とは何とも悪いタイミングとなってしまいました。
やもうえず発売日当日に買うのを断念。元々大阪市内に出掛ける予定のあった2日後の3月15日にやっと買わせていただきました。


今から20年以上も前に初めてこのまんがを手にして以来、小生にとっても読者として長年付き合って来たライフワークであったと言えます。全23巻を並べて、この20年間を振り返るとその時代その時代のことが次々と思い起こされ、その天上の虹が完結したとあってとても感慨深く23巻を買いました。


このブログで天上の虹のことを書いた平成25年8月25日の記事は、先月、2月の月間アクセス数では堂々トップ、1月の月間アクセスでも若草山山焼きに続く2番目に閲覧されているという、今年に入ってから注目されている内容なのであります。
それならば、今回、注目されていると思われるこのブログ記事では、読者が期待していると思われる完結・23巻のネタバレを少ししてみようかと思います。
なので、ネタバレを見たくないという方は、ここから先を見ないことをお勧めします。

毎巻3章に分かれているこの作品の最終巻の内容は、
 65章 日食
 66章 大宝律令(たいほうりつりょう)
 67章 太白(たいはく)(金星)

3章の内の2章が、天体現象がタイトルになっています。実際、正史(続日本紀)を読んでみると、このような天体現象に関する記述が多いことに驚かさせてしまいます。
正史の『続日本紀』(全現代語訳・宇治谷 孟著・講談社学術文庫)を参考に、正史の記録と合わせて天上の虹23巻のことを書くことにします。


第65章の『日食』は、大宝2年9月1日の日蝕のことで、続日本紀には「九月一日 日蝕があった」と一文しか記述が無いところを、天上の虹では現在の暦のAD702年9月26日夕刻前から太陽が欠け始め、欠けたまま二上山に沈んだとかなり詳しく描かれていました。おそらくこれは現代の天文計算を参考にされたのでしょう。
また、第67章の『太白(金星)』もまた、続日本紀にある大宝2年の記事「十二月六日 金星が昼間に見られた(変兆)」の一文だけの記述を拾い上げたものです。

  


日本書紀や続日本紀には、これ以外にも天体現象にまつわる記述はあまたあるのですが、この天上の虹23巻では章のタイトルにするなどずいぶん重く取り上げられている印象がありました。
これは持統天皇が崩御するという出来事の予兆として、これらの天体現象があったという意図ではないかという気がします。
しかし今回の23巻を全体を通して見ると、天体現象では無く持統上皇の東国行幸が物語の中心となっていました。
天上の虹ではこの御幸について、朝廷に多禰(種子島と屋久島)が反乱を起こしたのを受け、律令制を日本全国に敷くのに諸国から起きる反発を先んじて抑えるために、壬申の乱で吉野軍の味方となった諸国に持統上皇自ら行幸し、結束を固めて国家の威信を高めたいと讃良(持統上皇)が目的としたと描いています。

遷都ならともかく、御幸として上皇がこれだけ遠路に行幸したと聞くとちょっと驚かれるところですが、この東国御幸ももちろん、続日本紀に記されています。行きの行程は記述が無く、大宝2年10月10日参河国に御幸されたとの記事から始まり、おそらく伊勢から海路で渡ったのでしょう。三河とは今の愛知県東部のこと。そこから復路として11月13日尾張(愛知県東部)到着、11月17日美濃(岐阜県南部および・長野県木曽郡)到着、11月22日伊勢到着、11月24日伊賀(三重県伊賀市・名張市)到着し、そして11月25日に京に還ったと正史には記録されています。

地図画像引用:http://www.terachiyo.com/gakumon/gakumon-gazou/kyu-mei.jpg


天武天皇即位後の天上の虹はほとんど物語の舞台は飛鳥。ごくたまに伊勢や近江の場面がある程度だったので、今回の東国御幸はこれまでにない場面が多くて、とても新鮮な印象を持ちました。
小生が一番印象的だったのは、不二の山(富士山)を讃良が眺望する場面です。


小生がこの場面が特に感慨深かったのは、富士山から噴煙が上がっている描写でありました。実はこの時代の富士山は今より活発に火山として活動しており、万葉集にも富士山が噴煙を上げていることを詠んだ歌が何首か残されています。
小生は10年前に歴史小説創作をしている友人と、飛鳥時代の富士山について話をしていた時に、当時の富士山が煙を上げていたということを知りました。だから里中先生が当時の富士山の描写を正確に描かれていたのを見て、感心してしまったのです。

この富士山を眺望した場面の舞台となったのは、遠江(静岡県西部)なのですが、続日本紀には三河より東への御幸の記述はありません。しかし、随行した長忌寸奥麿、高市連黒人が「引馬野」「安礼の崎」などの地名を歌に詠んでいて、これが今の静岡県浜松市を指すのでは無いかという学説を、江戸時代の国学者・賀茂真淵が唱えているのです。里中先生はその説を取り上げて、正史には記述の無い持統の遠江御幸を天上の虹で描きました。
そして、この東国御幸から還ってわずか1か月後、持統上皇は崩御するのです。里中満智子先生はこの記録から「持統上皇の死は、東国御幸の影響では」ととらえて、正史には無い解釈をして天上の虹を書かれているのです。

里中先生は持統上皇の最期について、「御幸先の三河で反乱軍の襲撃を受けて大火傷を負い、政情不安を嫌って自らの負傷を隠しながらも、やがて力尽きるように命途絶えてしまう」と描きました。
もちろん、このような三河の反乱も正史に記録はありませんが、記録の無い遠江御幸が行われたこと、11月24日に今回の御幸で訪問した諸国に禄や位階を与えているのに、本来の目的地である三河には無かったことなどから、三河で何か出来事があったと推測され、それに持統の最期を結び付けられたのです。

23巻で持統が崩御することは前々から読者も知っていて、その読者の間では「讃良さまは、どんな亡くなり方をされるのだろう」と、いろいろと憶測を含んだ議論がずっとなされていました。小生もmixiをやっていたころは天上の虹のコミュニティに入っていて、その議論に参加していたもので、最終巻で描かれるはずの持統の最期の様子は非常に注目を集めていました。

持統が反乱軍からの攻撃を受けて、負傷して絶命する。小生のまわりでは、この最期は誰も予想はしていませんでした。しかし、よく考えてみると、里中先生は以前にもこのような描写をしていたことを思いだしました。
里中満智子の古代史三部作、古代最後の女帝・孝謙・称徳天皇の生涯を描いた『女帝の手記』の最後で、称徳天皇の最期が天上の虹と似ているのです。


画像参照:
http://booklive.jp/product/index/title_id/10000863/vol_no/005


この作品では神護景雲4(770)年2月に称徳天皇が弓削道鏡ゆかりの河内の由義宮に御幸した時に体調を崩し、そのまま病臥したまま崩御してしまうという正史の記録から、里中先生は弓削道鏡を天皇にしようと画策する称徳女帝に反発する勢力が、女帝の食膳に毒を盛り暗殺を謀るという描き方で女帝の最期を描いています。
この前例を思えば、反対勢力に命を狙われて最期を迎えるという展開も予想できなくも無かったのですよね。

こうして、東国御幸から大火傷を負って京に戻った讃良(持統上皇)の、生涯最後の1か月が描かれますが、天上の虹のラスト、持統上皇が人生の最後に何をしようとしたのか。里中先生はその場面で、歴史編纂の任を受けている多安麻呂を御前に呼びます。
この天上の虹では古事記編纂で知られている多安麻呂を、大津皇子の遺児という独自の説の元で描かれています。その大津皇子の遺児に対し讃良が言った言葉に、安麻呂は讃良が正気を失ったではと疑うほどの内容だったのです。
「わたしが生きているうちに、そなたにわたしを殺めさせて、そなたに仇を討たせたい」
もちろん安麻呂はこの讃良の提案を固辞し、そして讃良は火傷による体力の低下によって、力尽きるように亡くなって行くのです。

里中先生は天上の虹のラストに、もう一度大津皇子の遺児である安麻呂を登場させられました。持統の人生の幕引きを大津皇子事件のことで終わらせる。それが里中先生の選択でありました。
実際に完結するまで多くの憶測が流れた持統の最期だったので、この描かれ方には「この方がよかったのでは」という意見もきっとありそうな気がします。読者一人一人にそれぞれの歴史観、そして一人一人の持統天皇像がある。だからどのような終わり方をしても、そう読者は考えるだろう。里中先生もそれを承知で、自分自身の持統の最期を描かれたのだと思います。

それにして、持統の最期を大津皇子事件で締める。この選択をした里中先生の想いとは? 持統の生涯に大津皇子の影の存在。愛児である草壁皇子を皇位に即けたいと望んでいた持統が、草壁皇子のライバルであった甥の大津皇子を謀反の罪で処刑した。この大津皇子事件が、持統天皇に悪いイメージを根付かせたと言えます。これまで悪女として歴史の表で描かれることの無かった持統天皇のイメージを再評価させたいと、これまでも何回か里中先生はコメントをされておられ、それが持統の最期のシーンを大津皇子事件に結び付けたのではないでしょうか。

持統天皇には大津皇子事件の影が付いて回る。持統の夫帝である天武天皇が発願し、その後を継いだ持統天皇によって落慶された奈良の薬師寺で毎年10月8日、天武天皇を供養し威光を讃える『天武忌』が営まれます。講堂前に万燈籠が並べられ、幻想的な光景が広がります。


撮影 平成25年10月8日


天武天皇の追善法要は、大講堂で営まれるのですが、その際に三尊画像が掛けられます。滋賀県出身の女流画家・小倉遊亀が描いた三人の人物像ですが、発願の天武天皇と落慶を果たした持統天皇、そしてもう一人、大津皇子の肖像の三幅なのです。
薬師寺の創建とは関わりの無い大津皇子なのですが、なぜ天武忌に大津皇子の肖像も合わせて掛けられるのか。実はこの大津皇子の肖像画は薬師寺側が依頼したものでは無く、小倉遊亀画伯が自分の意思で描かれたそうなのです。そして大津皇子像を薬師寺に奉納する時に、小倉画伯はこう言われたそうなのです。
「薬師寺は大津皇子を御供養申し上げるべきである」

里中満智子先生もまた、持統天皇の人生に影を落とし続ける大津皇子の存在を重く見て、天上の虹をこのようなラストで締められたのだろうと、それが里中先生の30年間の答えなのだと見たのでした。


天武忌 大津皇子肖像画 平成25年10月8日

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