『星影の飛鳥』(浜村 淳著) | タクヤNote

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久しぶりの鑑賞・感想をテーマにした記事です。
今までこのテーマで本の紹介は、すべてまんが本でしたが、今回はマンガ本以外の本の紹介となります。ただ、自分としてはありきたりでは無い書籍を紹介したくない気持ちが出まして、
やはり日本の古代史を書いた本ではありますが、今回紹介するのは浜村淳著の『星影の飛鳥』(羊書房刊)です。

 

 

 

 

 


著者の浜村淳とは、誰もが知っている映画評論家のあの浜村淳です。この星影の飛鳥は、その浜村淳がトークでも知られる飛鳥時代への造詣の深さを、本として書き下ろした一冊なのです。
このブログを読まれている人の中には、古代史をテーマにしたこのブログで映画評論家の浜村淳の著書を紹介などして変に思われる方もいるかも知れませんね。実は浜村淳が古代史と宝塚歌劇の造詣が深いことが広く知られており、彼がパーソナリティをしているラジオ番組でも、飛鳥時代の歴史の話になるととても力がこもって語られることも少なく無いのです。
浜村淳が古代史を語る時には、本当に好きであることがその調子を聴くだけでも面白いくらいに伝わって来るのです。

 

 

 

 

 


この本は二部構成となってまして、前半は本のタイトルにもなっている『星影の飛鳥』という123ページの歴史物語で、天智天皇こと中大兄皇子の生涯を軸に、古代ロマンが書かれています。
後半は『小説・星の回廊』という81ページの創作小説で、大阪を舞台に現代と古代とが交錯するファンタジックな作品になっています。

前半の『星影の飛鳥』は飛鳥の歴史を、ずっと書き綴っています。描かれているのは中大兄皇子が蘇我入鹿を討つ前の19歳の時から始まり、滋賀の都で46歳で天智天皇として崩御するまでが中心となっています。
その内容ですが、出だしの部分をちょっと引用してみます。

中大兄皇子は、いま花吹雪の飛鳥寺に立っておりました。
ただいま十九才。
秀でた眉と涼しげな瞳、りりしくひきしまった唇元には、ほれぼれするような、さわやかな、さわやかさがあふれております。
皇子の、父上は舒明天皇、母上は宝皇后と申され、二才年下の妹に美貌のほまれ高い間人皇女、また五才年下の弟に、やんちゃなくらい元気いっぱいの大海人皇子がおります。
この三人の、きょうだいは父も母もおなじで、とても仲が良いという評判でした。


文調はです・ます調。ところどころに情景描写もありますが、読んだ印象を言えば文学小説と言うより、歴史物語の体裁となっていました。小説的の様な情景描写もちらちらと出るのですが、すぐに学術書から引用したような説明的な文章となってしまいます。
しかし、浜村淳の文章は学術書のような難しさや固さがあるわけではありません。星影の飛鳥の109~110ページを引用します。
『烈風藤白坂』の章。孝徳天皇の崩御の後、その皇子である有間皇子が謀略にはめられて、罪人として処刑されるくだりが書かれている下りの中の一節です。

さて政府の主だった人々が温泉へ遊びに行っている間、飛鳥の都の留守をあずかるのは中臣鎌足ですが、彼は、こういうとき表面に出ません。あえて実務派蘇我赤兄にまかせてあります。
なお赤兄というのは、大化改新の大功労者、蘇我倉山田石川麻呂の二番目の弟です。
もう一人の一番目の弟の日向は、さきに書きましたように「兄の石川麻呂は政府を、てんぷくさせようとしております」と密告して石川麻呂一族全滅のきっかけをつくった男です。
二人とも実力者の鎌足に、こびへつらい、鎌足の手先となって便利に働く恥知らずな男なのです。しかも赤兄は娘の常陸娘を中大兄皇子の妃に差し出しているいう、どこまでも出世のためには手段を選ばない、いやな性格の持ち主です。
有間皇子が、若いとはいえ、この男の悪心が読みとれなかったのは残念でなりません。十一月三日、赤兄は有間皇子をたずねて来て耳にささやいたのです。


どちらかと言えば平易な文章で、それも面白いのです。物語の進め方は史書に書かれている記録だけではなく、それらを取り上げた小説などに描かれている、古来の作家による歴史観なども盛り込まれていたのです。特に浜村淳の文章が特徴的なのは、歴史上の人物の善悪をはっきりと書き分けていることなのです。
これは講義というより、娯楽的な講談といった風であります。しかも、その文面は口語的なです・ます調。その文章は、ラジオなどで名調子でおしゃべりをする浜村淳の言葉づかいをそのまま文字したような文面なのです。
だから、この本を読むと登場人物の顔とか情景とか、本来歴史小説を読むと思い浮かぶものがほとんど思い浮かばない。ただ、この文章を語る浜村淳の声と、古代ではなく現在の飛鳥の風景が頭の中で出て来るのです。
次に『雪の石舞台』の章。大化改新前の藤原鎌足がそれまでの歴史を振り返る場面で、引用するのは34ページ。蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳の描写シーンです。

中臣鎌子は、さきほどから、なにかをしきりに思いつめ石舞台のそばの木陰に立ちつくしていました。
(これが馬子の墓か)
蘇我二代の栄華の祖となった大政治家にふさわしい巨大な花崗岩三十数個の積み重ねは、みるものに頭の上から、のしかかるような威圧感をあたえます。


これを読んで、正直あれっと思ってしまいました。確かに現在の石舞台古墳は石室が露出し、巨大な石を積み上げた石室の中まで入ることが出来ます。
しかし、この物語は蘇我馬子の没後わずか20年ほどが舞台。このころの石舞台古墳は石室の上は入口に蓋がされ、墳土がその上から盛られて葺石がおおわれていたはずです。


この『星影の飛鳥』の中では、取材として飛鳥を見て歩く浜村淳の写真が載せられていました。

 

 

 

 

 


この作品は著者である浜村淳の目線で、そして浜村淳の言葉でつづられた歴史物語となっているのです。決してリアルな古代を描覇しているわけでは無い。だからこそ、名調子で知られる浜村淳のトークと同様の面白さで古代史が伝わって来るのです。
だから、飛鳥時代の歴史に触れるのには良い本の一つだと言えるのです。あの人を魅き付けるトークを本で味わえる。そして、浜村淳が飛鳥時代に対しての想い入れに触れられるのです。



そして後半は『小説・星の回廊』となっています。
出だしをちょっとここに載せて紹介してみます。

花を散らす雨が降りつづいている。
雨の中に咲いて、雨の中に散ってゆく、今年の花が哀れに思える。
私は、三月から四月にかけて、デザイン画を百枚描いた。
どれも気に入らない。
こまごまに引き裂いて、窓から雨の中にまき散らしている。
私の心にだけ白い花が咲き、またたく間の命で、すぐに消えてゆく。


『星影の飛鳥』の出だしと比較すると一目瞭然、かなり雰囲気の違った読み物となっています。こちらは文語調で、その舞台は現代であり、主人公のファッションデザイナー・大友摩理の目線で進められる描かれており、浜村淳のトークのを文章にした星影の飛鳥とは雰囲気とは全く違った読み物となっていました。
物語は主に大阪を舞台としていて展開。主人公の大友摩理は慕っていた兄がいたが、その兄が過激な革命運動に傾倒し、ついには海外でテロ活動を起こすに至り、現地で射殺されるという大事件を引き起こしてしまうのです。
それがきっかけで家族はバラバラに。父は自殺、母は病死して、大伴摩理は孤児として苦労を重ね、ファッションデザイナーとなって強く生きてきました。
その大友摩理があこがれの対象として心に抱いていたのが、中大兄皇子だったのです。それは子供の頃に慕っていた兄の姿であり、孤独に生きていた自分自身の理解者であると、大伴摩理は思っていたのです。

その大友摩理がふと立ち寄った、大阪城公園や大阪府の庁舎街からほど近い、夜の難波宮跡を訪れます。ここは中大兄皇子と藤原鎌足が、蘇我入鹿を討った後、孝徳天皇と共に都とした故地。彼女にとってあこがれの、中大兄皇子に触れられる場所でありました。

そして、その星空の下の難波宮跡で、不思議な出来事が起きるのです。大友摩理の目の前に、古代の人物である中大兄皇子が現れるのです。
中大兄皇子とその時代に魅了されている大友摩理と、中大兄皇子との時空を超えた不思議な出会いに始まり、彼女の心は飛鳥時代へと誘われて行く。そして、歴史の謎、中大兄皇子本人しか知りえない気持ちの内などを、興味深く質問をする。
現代の高層ビル群が望み見える大阪の難波宮跡と、遙か激動の飛鳥時代とが、夜の星の幻想の世界へと大友摩理を誘って行く。中大兄皇子はどうして現代に蘇ったのか、そして、大友摩理の前に現れたのか。物語は予想外のどんでん返しへと展開して行くのです。

ストーリーとしては、長さの割には短編のような構成になっているという印象で、このストーリーに浜村淳が持つ飛鳥時代の歴史の知識のエッセンスを持って来るのはミスマッチな感じもするし、かといってそれが無くなると長さの割には物足りなさを覚える作品になってしまう、なかなか難しいところです。ただ、このファンタジックな世界観は、小生は結構面白いと思いました。
ここに書いているように、物語のスタイルとしては現代が舞台のファンタジックな世界観を持つ小説となっていて、この小説もリアルな古代描写がされているわけではありません。この物語が進行する難波宮跡は浜村淳が出演をしているNHK大阪放送局のすぐそばで、言うなれば浜村淳にとってはなじみの深いよく知る場所です。
だから文章は語り口調では無いし、主人公がファッションデザイナーの若い女性という設定ではありますが、大阪の難波宮跡で中大兄皇子に憧れているという設定は、著者である浜村淳自身を投影しているのだと思われます。
この小説は主人公が難波宮跡で中大兄皇子と出会うくだりあたりから、セリフが多くなります。これを読んでいると、小説というより戯曲のような印象がありました。実際に、難波宮跡という小生も知っている場所で物語が進行し、まるで難波宮跡をステージにして俳優が演じているお芝居を想像してしまいました。
前の『星影の飛鳥』もそうなのですが、どうしてもナマの飛鳥時代を感じることが出来ないというのが残念な感じではありますが、本物の飛鳥時代に触れるというよりも、飛鳥時代が好きな浜村淳に触れるということが、この本のコンセプトと言うべきなのかも知れないですね。


実際、この本を買って読もうと思ったのは、浜村淳の飛鳥時代好きのことを昔から知っていたということがあったからです。
毎日放送ラジオで毎年行われている、生放送のラジオクルーと大和路を歩く『毎日カルチャースペシャル ラジオウォーク』には、まだ20代であった若い頃によく参加をしていました。そのゲストに浜村淳は何回も参加され、小生も平成3(1991)年の第10回の飛鳥でのラジオウォークの時には、浜村淳と飛鳥路を歩かせていただきました。厚底の靴を履いているのをついつい注目してしまったのを今も覚えています。
浜村淳が飛鳥のことを語る時の熱さには特別なものがありまして、しかしそれは飛鳥時代全体というよりも『中大兄皇子』という人物への想いと言うべきのように思います。
浜村淳が何故そこまで中大兄皇子に魅了されるのか。『小説・星の回廊』の中に、著者自身の想いが投影されている、大友摩理の中大兄皇子への想いを描いた場面があります。(176ページ)

中大兄皇子に会いたい。
これほど身分の貴い英雄が、わが国の歴史に存在しただろうか。このかたは天皇家の直系の血統である。
それにくらべると信長も秀吉も家康も、ただ土くさいだけの男にしか思えない。
いつか私の心のなかで「わたしの中大兄さま」と呼ぶようになっていた。美しい思いが胸を染めていた。


日本が君主国である限りは、頂点に立つ人物が統治者としての偉業を残せるのは、天皇が直接政治に携わっていた古代か、後世ではわずかな王政復古の時代しかありません。天皇家としての高貴さと武将のような武勇を合わせて一人の人物に求めるのであれば、飛鳥時代に魅かれてしまうというわけなのです。
そのような中大兄像を浜村淳が求めるようになったのは、あるいは飛鳥時代の歴史と共に造詣が深い宝塚歌劇で『あかねさす紫の花』で中大兄皇子、大海人皇子、額田女王のロマンスに接したからかも知れません。とすると、浜村淳が追う中大兄皇子もまた、あの井上靖の『額田女王』から来ていると言えます。

 

 

 

 

 

 

 

 


井上靖が飛鳥時代の万葉ロマンをスケールの大きな文学にしたことによって、このような多くの中大兄皇子ファンを生み出したと思うと、その偉業は大きいです。

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