何にもないのに人に心配そうな表情をされることがあったりする。

 

どうやら僕の歩き方にそう思わせる原因があるらしい。

 

僕には下を向いて歩く癖がある。普段から歩くときは自分の靴のつま先が交互に視界に入ってくるくらい下を見ている。

 

別に落ち込んでいるとかそういうわけではない。子供のころからそういう歩き方なのである。

 

ただ、僕なりになぜそうなったのかはなんとなくわかっている。

 

小学生のころ、僕は地元の野球チームに入った。

 

グラウンドに着いてベンチ横に荷物を置いたらバックネットまで走って移動して「グラウンド挨拶」なるものをしてから練習が始まっていた。

 

ただ、球場のようなバックネットが小学校のグラウンドにあるわけもなく代替として巨大なネットを4方向から固定することで垂直に立たせているものだった。

 

ネットを地面に対して垂直に立たせるには紐で引っ張ってそれを張る必要がある。したがって、固定元となる紐はネットから2メートルくらい離れた位置にくぎを打って固定されていた。

 

上の紐ははるかに高いので関係ないのだが、下の紐の高さが丁度くるぶしから膝の間くらいだった。前だけ見ていると視界から外れてしまう。

 

この距離感と紐の高さが当時の僕(小2,3)には気づき辛くちょっとしたトラップになり、よく引っかかっては転んで泣いてしまっていた。

 

単純に顔を地面に打ち付けた痛みに加えて、バックネット裏にはコーチ、誰かのお母さんといったたくさんの大人たちがいた。

 

彼らの面前で醜態をさらしていることへの恥ずかしさが心の中で尖った痛みに変わっていた部分も大いにあった。

 

そのあたりからだろうか、下を見て歩くことが癖になっていったのだ。

 

下を見て歩いていると、前から来たものに気づかずぶつかるのではないかと思うかもしれない。

 

ヤンキーなんかとぶつかってしまえばもうオワリだ。

 

でも、前から来ているものに宙を浮いているものはほとんどないため大概のものは下にもその形が現れる。だから、平然と躱すことができる。

 

一方、前だけを見ていると、最初は見えていても足元に近づくにつれて徐々に視界から下にあるものが消えていく。

 

わかりやすいのは犬の糞だろうか。これを読んでくださっている人がどれだけ犬の糞を踏んだことがるのかわからないが、僕は一回もない。完璧に視界に糞が収まっているからだ。

 

僕は下を向いて歩いていることが苦しんでいて絶望しているみたいな判断をされることに強い違和感がある。

 

「下を見ても何もないぜ、前を向いて歩こう」

みたいなことを言えるのはバックネットの紐に躓いたことがないからだ。

 

上を向いて歩こう?

確かに綺麗な空は見えるが階段の上り下りはほぼ不可能だし段差で躓いてかつての泣き顔を10年ぶりに晒すことになってしまう。

 

今日も眼下にはマンホールの溝に溜まった泥水やぼろぼろの軍手、サプライズ枠で干からびたアゲハチョウの死骸があった。

 

その奥にはアスファルトの小さな隙間に一輪の花が咲いていた。

 

花びらの華やかさ。

アスファルトに埋もれても何とか命を持ちこたえて花を咲かせた生命の泥臭さ。

どうせ1か月後には枯れてしまう儚さ。

 

美しい。

 

この花を前だけを向きながら歩いている奴は見つけられるだろうか。

 

美しいと微笑む僕は苦しんでいて絶望しているのだろうか?

 

読んでくださりありがとうございました。お願い




大学2年生ともなってくると自分がどのように生きていくのか、つまりどんな職業に就いて自分の生計を立てていくのかということが現実味を帯びてくるようになった。

 

今までも高校受験や大学受験といった一つの岐路みたいなものはあったが、それと就職のとは次元が違う。

 

次元が違う理由は僕から見て大きく二つある。

 

まず、高校や大学はたとえ失敗したとしても3年、あるいは4年待てば必ず終わりがくるという安心感がどこかにあった。

 

自分が思い描いたような理想と違ったり虐められたとしても想像できる時間軸の奥にそれらからの解放が待っているという事実は現状を乗り切るお守りのような役割を果たす。

 

でも、22歳で働き始めるとして60歳で退職するとしたら38年。

 

まだ19歳の僕にはこの月日の長さは全くもって未知で恐怖だ。

 

また、就職というのは僕の人生の行方を大きく決めるラストチャンスでもある。

 

高校や大学の先には大学院があったり社会があったりと、その次のステップというものが明確に用意されている。

 

しかし、一度就職してしまえば、その先に待つのは定年退職、老後、年金、死・・・。

 

そんなものに希望や誇りを持てというほうが酷なことだろう。

 

つまり、この新卒就職というタイミングをやらかすともう取り返すチャンスはないのだ。

 

転職もできるというが新卒以外は採用しないという職業も世の中には溢れているし、きっと転職先を探しているような状態はどういうふうに生きればいいかわからないということなんだから今の状況に戻ってきただけのことで何にも事は進んでいない。

 

どっちにしろ、この就職というタイミングがラストチャンスになるということになる。

 

こんな感じで僕は大学を卒業して社会に出るということに大きな不安と恐怖を感じている。

 

僕から見て社会は幸せそうには見えないのだ。

 

通学のため電車に乗ると、社会の最前線で働いているサラリーマンたちが次々とすでに満員の電車に体を押し付けてくる。

 

あたかも、社会の苦しみを大学生である僕らにも押し付けてくるように。

 

とてつもない圧迫感を感じながら列車のドアが閉まる。

 

息苦しくて前が見えなくて。

気づけば身動きは全くできなくなっていた。

 

徐々に足が疲れてきてしっかりと立つ力が失われてゆく。

 

身体の力を抜けばもっと押し込まれてさらに力は入りにくくなる。

 

耐えられなくて思わず声を上げようものなら

「ストレス耐性のない変質者」と周りは僕を評価するだろう。

 

この列車の中では感情を押し殺しながらスマホ画面を眺めて時間をつぶすことこそが常識であり正解なのだ。

 

大学の最寄り駅について列車を降りる。

 

列車から降りたことで僕は40分の苦しみから解放された。

 

ホームから見たサラリーマンたちの表情には微塵も幸福感など感じられず目は死んでいた。

 

僕と同じ駅で降りたサラリーマンの人もいたのだが彼らの表情は列車から降りても何にも変わらず、なんならもっと暗くなっていた。

 

満員電車を通じて見える社会に「ストレス耐性のない変質者」は希望が持てなくなっている。

 

読んでくださりありがとうございました。お願い

今日は塾講師のバイトで中学3年生の男の子を相手に授業をした。

 

授業の間にある雑談中で彼の生まれ故郷である札幌の話になった。

 

聞くところによると、彼は3歳まで北海道札幌市に住んでいて

また、おじいちゃんの家もそこにあることからよく札幌に帰るらしく、東京と札幌の違いを誇張しながら教えてくれた。

 

「人より牛の数の方が多い」

「焼肉=ジンギスカン」

「雪が東京のよりなんか気持ちいい」

 

全てとは言わないが、絶対に嘘が入っている。

 

だが、これらはホントかもしれないしウソかもしれないみたいなレベルの発言で聞いている分には面白かった。

 

印象的だったのは

札幌ではバス、タクシーと並んで道路では馬車が移動のツールとして主流である

といったものだった。

 

さすがに大学生をバカにしているのか、と思った。

 

僕は札幌生まれだが札幌での記憶は全くない。

 

が、そんな全く知らない僕でもそれが怪しいことくらいはわかった。

 

彼はまだまだ弁を奮う。

 

車より早くて普通の道でも大体70キロくらい出るんだよ。

 

2ミリくらいホントかもと思っていたがこれで完全にウソだとわかった。

 

なぜなら、車も出そうと思えば70キロくらい平気で出せるからで、出さないのはそのスピードで普通の道を移動するのはあまりに危険だからだ。

 

時速70キロを車は出しちゃダメだけど馬車は出してもいいというのはあまりに理屈が通らない。

 

彼の発言を聞きながらなぜ彼は僕にウソをついているのかについて考えてみた。

 

理由は正確にはわからないがおそらく自己顕示、つまり

俺は他人とは違うんだぜ

というアピールなのではないか、という仮説を立てた。

 

しかし、疑問が残る。

 

なぜ、彼は僕にそんなことをアピールしてくるのか。

中3の彼がなぜ大2の僕にマウントを取ってマイノリティーをアピールして何がしたいのか。

 

しばらく考えながら彼が問題を解いている間に席を立ち歩いていると、答えがわかった。

 

「ああ。なるほどな。」

 

彼の席の2個後ろでは彼と同学年の女の子が自習をしていた。

 

そういえば、札幌の話をしているときの声は授業中の返事とかより大きかったな。

 

つまり、彼の自己顕示欲の矛先は僕に対してではなくその女の子に対してだったのだ。

 

僕に話しかけるふりをして女の子へのアピールトークということか。

 

そんなの授業が終わってから自分で話しかけに行けよ。

 

それをウソついてまで講師を自分のアピールのための出汁に使うとはなかなかの度胸だな、でもそんな度胸を持っていながらその女の子に話しかける度胸はないのか。

 

度胸があるのか、ないのかどっちなんだ。

 

そんな彼を見ながらかつての自分を思い出した。

 

ああ。

確かに中学生の頃は女の子と話したくてもなんか恥ずかしかったりモテようとしてる(本当はモテたい)なんて思われるのが嫌で話せなかったよなあ。

 

今も上手くは話せないけど、あの頃に比べたらだいぶマシになったもんかな。

 

目を見ると緊張するからおでこを見るとか

その子がめちゃくちゃおばあちゃんになった姿を想像しながら話すとか

心の中でこいつは性転換手術をしたニューハーフだと思い込むとか

 

なかなかひどいもんだとは思う。

 

でも、意外と僕も少しずつではあるがかつての中学生の僕とは変わってきていることを感じた。

 

まだ、全然ダメだけど。

 

「その馬車の話、おかしくない?」

と問い詰めてやろうとも思ったがそれを思いとどまった分だけ僕は大人になっていた。

 

読んでくださりありがとうございました。お願い

最近電車の通勤中にイヤホンをつけながら過ごす人が増えた気がする。

 

イヤホンというのは周りに迷惑がかからないように自分だけ聞きたい音を聞くことができるハイテク装置だ。構造はさっぱりわからない。

 

ただ、僕は公の場だけでなく自分の部屋でもよくイヤホンをして生活している。

 

音楽を聴いたり、動画を見たりと用途は様々だがイヤホンは日常の雑音を遮断して音の世界に引きずり込ませる感覚がある。

 

その感覚が僕は好きで一日中イヤホンをつけながら過ごすなんてことはよくあるのだ。

 

昨日は夜中ずっとイヤホンをつけながら動画を見ていた。

 

自分の好きなゲームの実況動画を見ていたのだが、ずっと画面を見ていると目がブルーライトの光に疲れてきて眠くなってしまった。

 

逆に光によって脳が覚醒して全然眠くならない、なんてこともあるのだが昨日は眠くなる方だった。

 

気づけば寝てしまっていた。寝落ちというやつだ。

 

そして、寝ていたときの体勢が横向きで右耳とベッドでイヤホンを押し込んでいた状態になってしまっていたので起きると、右耳にイヤホンの跡とじんじんとした痛みがあった。

 

「いってーなー、まったく。」

鏡でイヤホンの跡と耳の状態を確認する。

 

血が止まっていたのか耳穴中心の皮膚はプチガムグレープ味みたいな淡い紫色に染まっていた。

 

朝に起きる耳鳴りとイヤホン跡の痛みが共鳴して不快のハーモニーが奏でられる。

 

そのハーモニーをBGMに横を向きながら寝るのを治すか、イヤホンをつけたまま寝落ちするのを治すか、どっちが簡単だろうなぁと考えたが結論は出なかった。

 

読んでくださりありがとうございました。お願い

2020年も半分が終わろうとしています。

 

大学生のレポートラッシュは終わりが見えません。

 

ここ2週間で3つのレポートをつい先ほど書き終えたのですが、また今日には新たなレポートの課題が・・・

 

まあ、でも

朝早く起きる必要もなく

試験もなくなり満員電車に乗らなくてもいいというならばそれくらいの課題は受け入れようかな・・・でも、やっぱりきついよな~。

 

今回は経営管理論のレポートを書いていて感じたことを短めに書きます。(またすぐにレポートを書かなければならないからです。)

 

経営管理論では論理的(ロジカル)な企業管理をするために不確実な要素は極力排除されます。

 

例えば、作業のマニュアル(公式)化。

店員が行う作業をできる限り公式化して変な問題行動を起こさないように管理の手中に収める効果があります。

 

お客様が入店したときは笑顔で

「いらっしゃいませ!」

と対応をするというふうに公式化することで店員の対応を管理して入店時の対応に起こりうるトラブルを未然に回避するということです。

 

なるほど、ロジカルだなぁと感じました。

 

その一方でマニュアル化にはこんな弱点があります。

 

それは、期待値を下回ることはないが、その代わり上回ることもないということです。

 

小さな料理屋で食事を終えて帰ろうとするときにたまに貰えた消しゴムサイズのおもちゃはメニューに付随されることで絶対に貰えるマックのハッピーセットに付く何倍も大きいおもちゃより遥かに嬉しかったものでした。

 

ハッピーセットのおもちゃの方が明らかに品質も玩具としての機能性も高いのにです。

 

マニュアル化されていない不確実な要素こそがおもちゃをもらえないかもしれないという期待値との乖離を生み、喜びをより大きくしていた原因なのだな、と感じます。

 

大学のレポートや社会では自らの行動、言動がロジカルであることが求められる機会が多くあります。

 

ありとあらゆるものを想定内に置き、できるだけ賢く生きようという流れです。

 

でも、そんなロジカルな世界の中にひょっこり現れるラッキーやハプニング、アクシデントは元来そんなたいしたことではないのになんかすごい嬉しかったり面白かったり驚いたり寂しかったりするものです。

 

不確実性には理論では説明できない刺激やロマンがある。

 

よし、パチンコに行ってきますね。

 

読んでくださりありがとうございました。お願い