大学2年生ともなってくると自分がどのように生きていくのか、つまりどんな職業に就いて自分の生計を立てていくのかということが現実味を帯びてくるようになった。

 

今までも高校受験や大学受験といった一つの岐路みたいなものはあったが、それと就職のとは次元が違う。

 

次元が違う理由は僕から見て大きく二つある。

 

まず、高校や大学はたとえ失敗したとしても3年、あるいは4年待てば必ず終わりがくるという安心感がどこかにあった。

 

自分が思い描いたような理想と違ったり虐められたとしても想像できる時間軸の奥にそれらからの解放が待っているという事実は現状を乗り切るお守りのような役割を果たす。

 

でも、22歳で働き始めるとして60歳で退職するとしたら38年。

 

まだ19歳の僕にはこの月日の長さは全くもって未知で恐怖だ。

 

また、就職というのは僕の人生の行方を大きく決めるラストチャンスでもある。

 

高校や大学の先には大学院があったり社会があったりと、その次のステップというものが明確に用意されている。

 

しかし、一度就職してしまえば、その先に待つのは定年退職、老後、年金、死・・・。

 

そんなものに希望や誇りを持てというほうが酷なことだろう。

 

つまり、この新卒就職というタイミングをやらかすともう取り返すチャンスはないのだ。

 

転職もできるというが新卒以外は採用しないという職業も世の中には溢れているし、きっと転職先を探しているような状態はどういうふうに生きればいいかわからないということなんだから今の状況に戻ってきただけのことで何にも事は進んでいない。

 

どっちにしろ、この就職というタイミングがラストチャンスになるということになる。

 

こんな感じで僕は大学を卒業して社会に出るということに大きな不安と恐怖を感じている。

 

僕から見て社会は幸せそうには見えないのだ。

 

通学のため電車に乗ると、社会の最前線で働いているサラリーマンたちが次々とすでに満員の電車に体を押し付けてくる。

 

あたかも、社会の苦しみを大学生である僕らにも押し付けてくるように。

 

とてつもない圧迫感を感じながら列車のドアが閉まる。

 

息苦しくて前が見えなくて。

気づけば身動きは全くできなくなっていた。

 

徐々に足が疲れてきてしっかりと立つ力が失われてゆく。

 

身体の力を抜けばもっと押し込まれてさらに力は入りにくくなる。

 

耐えられなくて思わず声を上げようものなら

「ストレス耐性のない変質者」と周りは僕を評価するだろう。

 

この列車の中では感情を押し殺しながらスマホ画面を眺めて時間をつぶすことこそが常識であり正解なのだ。

 

大学の最寄り駅について列車を降りる。

 

列車から降りたことで僕は40分の苦しみから解放された。

 

ホームから見たサラリーマンたちの表情には微塵も幸福感など感じられず目は死んでいた。

 

僕と同じ駅で降りたサラリーマンの人もいたのだが彼らの表情は列車から降りても何にも変わらず、なんならもっと暗くなっていた。

 

満員電車を通じて見える社会に「ストレス耐性のない変質者」は希望が持てなくなっている。

 

読んでくださりありがとうございました。お願い