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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  「『真夏の暗黒』を思い出した」 ②


 その場に集った関西の学会員の大半は、池田の裁判がどう進んでいるのか、知るよしもなかった。

 裁判の初期、池田は危惧を記している。四度目の出廷(第八回公判)の時だった。

「大阪地方裁判所で、午前十時より午後四時まで、公判。一口もしゃべることなく、終わる。ただ、非常に不利の感じを受く」(一九五八年九月二十五日の日記)。

 

 池田の妻、香峯子はある日の公判後、関西の婦人部幹部に宛てて次のような手紙を書いている。

「いつも主人がお世話になっております。今回は、主人の具合が悪かったので、(大阪から東京に戻る時に)横浜まで迎えに行きました。その日は横になりましたが、翌日には元気で出勤しました」。


 公判が進むにつれ、学会員に対して警察、検察がどれほど暴力的な言動を重ねていたか、次から次へと明らかになっていった。

 「『真昼の暗黒』を思い浮かべましたよ」と林智栄子(奈良市、関西婦人部総主事)は振り返る。「真昼の暗黒」とは、実在の冤罪事件(八海事件)をモデルにつくられ、一九五六年(昭和三十一年)に大ヒットした映画のタイトルである。真犯人が自分の罪を軽くするため、関係ない四人を共犯者に仕立て上げる。そのために拷問を受け、耐えきれずに嘘の自白をし、死刑判決を受けた無実の男が法廷で闘う・・・・・。

  「『真昼の暗黒』を思い出した」 ①


 こうした支部結成のドラマが全国各地で繰り広げられていた最中の一九六一年(昭和三十六年)三月、大阪事件の裁判を担当していた弁護士は、池田に「有罪を覚悟するように」と告げている。

 この月、池田は三日間で五回も出廷している。

「いよいよ戸別訪問関連の審理が始まる時です。先生は、大阪事件を担当した弁護士陣の無責任な態度に激怒されたそうです。これまで折に触れて、その時のことを何度も伺ってきました」(原田稔、会長)。


 三月六日、池田は二度出廷した。翌七日は出廷後、関西の男子部、女子部がそれぞれ大きな会合を行い、その両方に出席。さらに翌八日にも二回公判があり、夜は関西三総支部の幹部会に駆けつけた。池田は自身の出廷のスケジュールに合わせて、次々と会合予定を組み込んだ。


 熱気の渦巻く尼崎市の体育館には、大阪や神戸などから、ろうあ者のグループ三十六人も参加していた。耳の聞こえない彼らは、手話の通訳をしてくれる壮年部員と壇上とを交互に見つめ、体験発表に涙し、池田の学会歌の指揮に歌声を合わせた。

 池田は退場する際、立ち止まり、彼らが座っている二階席の一角を見上げて大きく手を振った。京都から参加したろうあ者の一人、山二信太郎は「(これまでの人生で)人間扱いしてくれるのは学会だけだ」と当時の聖教新聞にコメントを寄せている。

  「智慧(ちえ)の嵐が吹いた」 ④


 島根の松江支部。新任の支部長が、緊張のあまり壇上で声を詰まらせた。自動車整理工場を経営していた浜崎巌である。娘の宮井和子(中国婦人部総主事)は18歳だった。

「貧しい家に生まれた父は小学校もろくに通えず、読み書きができませんでした。その日は十三行罫紙に、話す内容をひらがなとカタカナで大きく書いてあげたんですが・・・・・」と振り返る。

 浜崎は従業員から「おやじ」と呼ばれ、慕われる腕利きの職人だった。

「父は字が読めないことで、仕事上でもみじめな経験をたくさんしたようです。一時期はお酒に溺れ、道楽に走り、苦しみ抜いた母は三度も自殺を図りました。その母が先に信心を始め、父も続き、文字通り蘇生していきました」。


 人望の厚い浜崎を支部長に抜擢したのは池田だった。

「先生は、晴れの結成大会で立ち往生した父の肩をがっちり抱きかかえて、集まった皆さんを前に『この支部長は純粋無垢な人です。公平にみてくれる人です。この人をバカにしたら、私が許しません。どうか皆さんで守ってください』と励ましてくださったんです」。


 長女の和子にとって、さらに驚くことが続いた。池田は和子と妹の潮子(十四歳)、みどり(十歳)に、「お父さんとお母さん支部長、支部婦人部長になります。これから忙しくなって、みんなに寂しい思いをさせると思いますが、どうかよろしくお願いします」と言って、三姉妹に向かって深々と頭を下げた。

 「よく体中に電流が走る、と言いますが、その通りです。小さな私たちがそれまで両親のことで悩み、苦しんできたことを、先生はご存じでした。あの時、生まれて初めて『すごい人に会った』と思いました」