「智慧(ちえ)の嵐が吹いた」 ③
池田の率先垂範の姿は、各地に鮮やかな印象を残した。群馬の高崎支部。
「結成大会の後、先生は会場からすごい勢いで飛び出されました。場外にも大勢の学会員さんが集まり、ゴザを敷いて参加していたんです」。絹川敬子(総群馬副婦人部長)は「誰かが用意した木箱の上に乗って、場外の人たちに懸命に語りかける先生の姿が忘れられない」と振り返る。
霧生支部の臼井あゐ子も、同支部の結成大会で池田に励まされた一人だった。池に帰るや、娘の寺口幸子(桐生市、総群馬婦人部総主事)に息を弾ませて語った。
「母はその日、婦人部の地区担当員(=現在の地区婦人部長)になりました。先生と握手した時、先生は母の手をとって、じっとご覧になったそうです」。
池田はあゐ子に「ずいぶん苦労をしてきた手ですね」と声をかけた。そして「でも、信心をしっかりしていけば、必ず幸せな境涯になります。私と一緒に頑張ろうね」と続けた。
あゐ子の夫、臼井善治郎は織物業を営んでいた。しかし、太平洋戦争で機織り機などを供出し、やがて廃業に追い込まれた。
「戦後は数人の友人と買継商を始めましたが、うまくいかず、人のいい父は房負債を一人で背負うことになってしまった。四人の子ども食べさせるため、母が反物の行商などで稼ぎ、生計を立てていました」(寺口幸子)。
一家で学会に入ったのは一九五四年(昭和二九年)の夏だった。あゐ子が池田と出会った時は、信心を始めて七年が経とうとしていた。
「母は『今までの苦しかったことを、初めて会った池田先生が全部わかってくれた』と何度も言っていました」。
「智慧(ちえ)の嵐が吹いた」 ②
日本で新たに誕生した支部は九〇を超えた。そのうちじつに五〇の支部結成大会に池田が自ら出席した。
あきたの十和田支部。畠山静江(鹿角市、支部副婦人部長)は結成大会の後、次の会合場所に移動する池田を案内した。(一九六一年二月)。外はすでに真っ暗だった。
「私は運営役員として、途中の渡り廊下に立っていました。電灯もなく、段差があって、すのこが敷いてありました。歩いてくる先生に『ここは段差があります』と伝えました」。
その渡り廊下で池田は、ライターに火を灯し、足元に気をつけるよう周りに気をつけるように声をかけながら、次の会合へ急いだ。女子部員だった畠山目に、会長自ら暗闇を照らし、先導して歩く光景が焼きついた。
日蓮が残した手紙に、宛先も書いた時期も定かではない「譬(たと)へば人のために火をともせば・我がまへあき(明)らかなるがごとし」という有名な断簡((だんかん)=きれぎれに残った手紙の断片)がある。畠山は「この一文を読むたび、今でもあrの『ライターの火』を思い出します」と語る。
「智慧(ちえ)の嵐が吹いた」 ①
無実を証明するための裁判がスタートしたのは、一九五七年(昭和三十二年)の十月だった。池田が戸田城聖の後を継ぎ、創価学会の第三代会長に就任したのは、この法廷闘争の真っただ中、六〇年(昭和三十五年)五月三日である。
池田は裁判に専念するわけにはいかなかった。会長就任から一年余りが経ち、この第七〇回公判までに訪れた日本の都市数は、東京都内を除いて、じつに一〇〇を数えた。学会の世帯数は二〇〇万を突破した。
行く先は国内にとどまらず、アメリカ、ブラジル、インドなど九か国を・地域。訪問した延べ三〇以上。六か国で新たに学会の組織を立ち上げ、支部や地区の結成は優に二〇を超えた。会長就任の直前には東京の小平を視察した。
「武蔵野は憧れの地だ。約一万坪余、購入を決意。将来、創価大学か、創価高校、中学校の用地のためにと」(一九六〇年四月五日の日記)。
現在のSGI(創価学会インターナショナル)や創価一貫教育をはじめ、池田が広げた「平和・文化・教育)を柱とする民衆運動の原型は、その多くが大阪事件の法廷闘争と「同時進行」で生み出されていったのである。会長就任前後の数年間について、のちに池田は「頭の中に『智慧の嵐』が吹き荒れていた」と語っている。