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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  調書却下と十万結集 ③


 調書却下の四日後、学会の歴史に残る会合が開かれた。東京の国立競技場で男子部総会が行われ、全国からじつに十万人が集ったのである(十一月五日)。一週間後には女子部が横浜で八万五〇〇〇人の総会を開いた。

 戸田城聖が青年部に遺した指針に、「青年よ、一人立て!二人は必ず立たん、三人はまた続くであろう。かくして、国に十万の国士あらば、苦悩の民衆を救いうること、火を見るよりも明らかである」という一文がある(「青年よ国士たれ」)。この「十万の結集」という気宇壮大な遺言を、池田は青年の目標として掲げた。


 法廷闘争の山場となった一九六一年(昭和三十六年)、青年部は九州、中部、関西、北海道、中国、東北と立て続けに総会を開いた。その集大成が国立競技場の総会だったのである。

 大阪から参加した一ノ瀬正康。五ヶ月ほど前に信心を始めたばかりだった。十万の青年の波のなか、国立協議場に響きわたった戸田の遺訓の朗読が一ノ瀬の人生を変えた。

 ”青年は親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか。その無慈悲の自分を乗り越えよ。それが人間革命の戦いである”

  調書却下と十万結集 ②


 池田から尋問を受けた直後、主任検事の鈴木は思わぬ失言をしてしまう。それは、取調べの際、池田たち学会員に対し、手錠をはめたまま取り調べたのかどうかを弁護しから質問された時だった。

 鈴木は「必ず(手錠を)はずす方針でやって来たんです。拘置所の看守としばしば争ったこともあるんです」と証言した。その時、裁判長の田中勇雄は、質問を続けようとする弁護士のさえぎった。そして証言台に立つ鈴木に、こう尋ねた。

「尋問中ですが、それほんとですか。吉川検事は反対のことを言ってます」(第七七回公判調書)

 池田を取り調べた他の検事の証言が、まるで正反対だったのである。裁判長の田中はこの矛盾を見逃さなかった。大阪拘置所の看守長と四人の看守たちが証人として採用され、裁判長自ら積極的に質問した。


 看守・中野一夫──(学会員を)特に丁重に扱えという通達は?「聞いていません」。

 看守・新宅俊和──検事調室で「手錠を外せ」と言われたことは?「全然覚えありません」。

 看守・山口保雄──検事に言われ、手錠を外したことはありましたか?「それはありません」。

 看守・笹井英次──(手錠を外す)手続きをしたことがありましたか?「ありませんでした」。

 看守長・有馬俊美──(学会員の手錠を外す)手続きをしたことは?「記憶にありません」。(検事から手錠を外す)承認を求めてきたことは?「求められたことはありません」。


 五人全員が鈴木の証言を否定した。二日後の十一月一日、大阪地裁は、検事が池田から取った調書四通を却下した。理由は”連日しかも夜間にわたって取り調べを強行した。これは黙秘権の侵害である。””強要による自白の可能性がある。任意性に疑いがある”というものだった。

 「検察に起訴されたら九九パーセント以上有罪」と言われる絶望的な闘いに、ようやく光が差し込んだ瞬間だった。


 

  調書却下と十万結集 ①


 「是非とも参考のために承っておきたい」。池田の声が法廷に響いた。”黒山の人だかり”ができたというのはいつか。何人来たのか。次々を問いかけた。鈴木はどの質問にも正確に答えることができなかった。

 「わたしはどこで合図をしたんでしょうか。そのようなことは吉川検事も、それから大村検事も、だれも一遍も証言しておりませんが、錯覚かうそか、どちらかではございませんか」。鈴木は池田の追及をかわすために「そういうことは事実です」と開き直るしかなかった。


 池田はさらに「(取調べに)無理もあり、脅迫もあり、馬鹿にされておったように、非常に検察陣の態度に対して、情けない、残念な思いでいっぱいでした」「(我々は)それぞれの信仰の上に立った、ある一つの大きい目的のために立って行動していることもおわかりになって戴きたい」と裁判長に訴え、尋問を終えた。

 策を弄する検事の言動にも、池田は動ずることはなかった。大阪地裁は、検察調書を却下する決定のなかで、次のように記している。──取調べの最中、検察がさまざまな「欺罔(ぎもう)、脅迫、利益誘導、約束、強制等」を行ったが、「(池田大作は)検事のこの様な小細工に乗ぜられる様な人柄とは認められない」と。

 「これから裁判所にまいります」 ④


 台風の被災地を駆けずり回り、大阪地裁に到着した池田は、主任検事の鈴木健彌に質問を重ねた。鈴木は「記憶にありません」「記憶にないんです」を連発した。またこの日、鈴木は次のような”証言”を残している。──あの「大阪大会」の日(一九五七年七月一七日)、検察庁の中にも学会員が配置され、廊下が学会員で埋めつくされて困った。しかしその黒山の人だかり池田君が「控えさせろ」と言ったら、あっという間にいなくなった──。


 それは裁判長に悪印象を植えつけようとするまったくの虚偽だった。池田は鈴木に対する二度目の証人尋問で、この偽証を追求した。(十月三十日、第七七回公判)。その尋問の直前には、欧州九か国(西ドイツ、イギリス、フランス、オランダ、デンマーク、スペイン、スイス、オーストリア、イタリア)の一一都市を歴訪し、現地の学会員を激励している。帰国して一週間後の出廷になった。

 この日、裁判の流れが変わった。

 「これから裁判所にまいります」 ③


 御幣島(みてじま)の田中電機前には二十数人が待っていた。池田は「一人一人にお見舞いをと考えましたが、食べ物は食べたらおしまい、物はいつか壊れてしまうので、会館を建ててはどうだろうか」と呼びかけ、歓声が上がった。この日、池田は西淀川の担当幹部に、会館用地を探すよう指示を出している。二年後、関西本部を除き、大阪市内で初めての会館が西淀川に誕生した。


 八十八歳の岡久哲士(総区主事)。当時、西淀川の中心者の一人だった。

「池田先生が裁判で、これほど重要な局面を迎えていたことは、まったく知らなかった。そんな素振りは微塵も見せられませんでした」。