EIKOの気まぐれ闘病日記 -71ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

   父は生き抜いた ①


 「ある定時制高校生との出会いも忘れ難い」──池田がこう記した。一組の「父と息子」の物語がある。

 「彼の父は、動脈が閉塞して肉がしだいに腐る難病のビュルガー病に苦しみ、両手両足を切断」「息子である彼は、経済苦で、全日制の高校への進学を断念し、定時制高校へ進学。父を恨み、人生をはかなみ、悩み、苦しんだ」(池田大作『大道を歩む──私の人生記録』毎日新聞社)

 その日々を振り返り、鈴木裕(東京・板橋区、副会長)は「車いすの父とともに歩んだ定時制時代、学生時代が私の人生の原点です」と語る。

 裕の父、鈴木武雄は1918年(大正七年)、福島の磐城(いわき)に生まれた。腕利きの電気設計技師で、上場企業の工場長を任されていた。

 

 「父が『左足のふくらはぎが痛い』と言いだしたのは、昭和三十九年の正月、近くの神社に初詣に行った帰りでした」

 最初は足のかかとにアカギレのような傷ができた。当時、武雄の家族は仏教系のある宗教に入っていた。その宗教は武雄を病院に通わせず、根拠のない治療法を繰り返させ、症状は悪化するばかりだった。

 一年が経ち、高熱と痛みに耐えきれず幾つも病院を回ったが原因はわからない。日大病院に行ったところ、腹部を切開して、交感神経を切除すれば治るのではないかと診断され、手術を受けた。しかし激痛は治まらかった。

「その半年後、『ビュルガー病』という聞いたこともない病名を告げられたのです」。

 

 

   うつむくな 胸を張れ ④


 後年、金子は牙城会(学会の会館を警備する男子部のグループ)の一員として信濃町の学会本部周辺を巡回していた時、思いがけず池田と遭遇したことがある。

 「一緒に回ろう」。池田は金子に声をかけ、一時間ほど一緒に各施設を点検して歩いた。「火の元はどうかな」「戸締りは大丈夫かな」。次々とチェックしていく。掃除用具のロッカーも点検した。花壇に不審物が置かれていないか金子に懐中電灯で照らすよう指示した。

 「夜の七時過ぎでした。『会館の警備はどんな小さなことも見過ごしてはならない』という基本を、身をもって教わった」という。池田は歩きながら金子の仕事の状況を聞いた。不景気で一番苦しい時だった。

 金子は池田に促され、池田の自宅まで一緒に歩き、玄関で妻の香峯子の出迎えを受けた。

 「青年は誠実が一番大事だ。信用第一だよ」。別れ際、池田はそう言って金子と握手した。

「それからも苦しい状況は続きましたが、あの『信用』の一言を自分に言い聞かせて、三年ほどで仕事を軌道に乗せることができました」。

   うつむくな 胸を張れ ③


 現在、富士短大会の幹事を務める金子康男(東京・杉並区、総区副総合長)も二部出身である。栃木の那須塩原から十五で上京し、真珠の加工・卸売りの店で働いた。

 「父が早く亡くなり、貧乏のどん底に落ちて、小学生のころから近所を歩いて納豆売りをしました。一○個打って二〇円の利益でした」。

母の喜美子が学会に入ったのは、康男が十歳の夏だった。

「母子家庭の私たちに、学会の人たちは温かかった。あのうれしさは忘れられません」。

 面倒をみてくれた男子部の先輩がいた。何度か弘教について行ったことがある。

「『お前の家は貧しいのに、よく人にものを勧められるな』とか『だまされないぞ』とか、怒鳴られ、つばを吐かれたこともあります。あの当時は『創価学会は貧乏人がやるものだ』と馬鹿にされていました」。

 都立牛込商業高校の定時制に通っていた時「苦労してでも大学へ」という池田の言葉を聞き、進学しようと決めた。

 富士短大会の結成は、ちょうど真珠卸の仕事と学業の両立に悩んでいた時だった。

「『私は最も苦しい時、戸田先生に使えきった』という先生の言葉が突き刺さりました」。

    うつむくな 胸を張れ ②


 大沼は「登校する時、いつも下を向いて、うつむいて歩いていた」という。

「下校する昼の生徒とすれ違うのが嫌だったんです。自分が貧乏で昼の高校に行けなかったことが恥ずかしかった。でも、定時制高等部の会合で、池田先生からあの『私と歩みを共にしゆく友に』という色紙をいただいてから、胸を張って学校に行けるようになりました」と語る。卒業後、富士短大の二部に進んだ。

 

 岡本周二(東京・杉並区、副本部長)は京都の高校を卒業して上京。東京駅の近くで、産業用モーターなどを製造する会社の経理を担当していた。就職して三年目、富士短大の二部で学び始める。

「先生の『高等部員は全員、特に男子は大学に進んでほしい』という指導を聞いて、進学を決意したんです。たまたま職場の経理部の先輩が富士短大の出身でした」。


 公認会計士の緒の荘一(埼玉・川越市、副支部長)は、高校を卒業してから七年経った後、富士短大の二部に入学した。

「高校三年の時に父が白血病で亡くなり、大学進学はあきらめたんです。工場や会計事務所で働きました。私も入学してから先生の母校だと知りました。大学会の結成式では、先生から『富士短は経済で行きなさい』と励まされ、本気で公認会計士を目指すようになりました」。

   うつむくな 胸を張れ ①


 富士短大の二部に集まった人々もまた、その多くが当初、高校に進む予定すらなかった。また富士短大が池田の母校であることを知る人もまだ少なかった。

 佐藤丈史(東京・品川区、支部長)は中学卒業後、近くの会社の事務をしながら都立牛込商業高校の定時制、そして富士短大の二部に通った。父の広は、製紙の洋服箱の製造業を営んでいた。

 「定時制の三年生の春、先生が出席された会合で『男子は皆、大学に行きなさい』と言われたのですが、本当にびっくりしました。二人の兄は中学時代から家業を手伝い、仕事が忙しい時期には学校まで連絡が来て呼び戻されるような毎日で、私もそれまで大学なんて考えたこともなかったですから。今から思えばあの先生の一言に降れたおかげで、目の前の世界が大きく開けました」


 大沼洋子(東京・世田谷区、区総合婦人部長)は静岡・掛川の農家に生まれた。七人きょうだいの末っ子だった。母の三浦とみが学会の話を聞いて帰ってきた。「いい宗教らしいですよ)と言うとみに、父の藤次郎は「断ってきてやる」と意気込んで出ていき、「俺はやるぞ」と入会を決めて帰ってきた。洋子が五歳の時だった。

 「両親からは『うちはお金がないから高校には行かせてやれない』と言われていましたが、ちょうどその頃、聖教新聞に載った定時制の人の体験談を読んで『こうっやって高校に行けるのか!』と知りました」

 会計事務所で働きながら大田区の大森高校定時制に通った。二学期になると生徒の数が減った。給食で余ったパンとマーガリンをもらって食費を浮かせたこともあった。