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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   屋台を引いた創立者 ③


 高田のつくった学校は大世学院から富士短期大学、そして現在の東京富士大学へと発展していくが、その出発は1943年(昭和十八年)に麹町区(当時)で開講した東亜学院である。入学試験には東北から九州まで、さらに当時の樺太や満州、朝鮮半島、台湾などの出身者も臨んだという。

 「理想なき民は必ず滅びる」。高田はこの言葉をよく学生に語った。

「高田院長は、働きながら学ぶ若者の心がわかっていた」と池田は回想する。「その燃えるばかりの教育への熱情は、夜の教室を、家庭的な明るく楽しいものにしてしまう」(全集第二一巻)。

 大世学院が富士短期大学になった三年後に卒業した坂斎栄治(さいたま市、区主事)は「高田勇道先生が教室に入ってこられた時のお姿をよく覚えています。大きな声で叱咤激励してくれました」と語る。

 坂斎は卒業して間もなく学会に入ったが、池田も同窓であることは長く知らなかった。

「初めて知ったのは昭和四十三年)(1968年)十月、『富士短大会』の結成式で、池田先生から直接うかがった時でした」。


 学会には、それぞれの大学で学んだ代表が集まる「大学会」と呼ばれるグループがある。富士短大会は全国で三一番目の結成だが、短期大学としては初の大学会だった。

 「結成式は、学習院大学の皆さんと一緒に行われました。その席で先生が、参加者の質問に答えて『学歴にとらわれてはいけないよ』と強調されたことが強く印象に残っています」(坂斎栄治)

 大学会が全国各地に結成され始めたのは、この1968年(昭和四十三年)からだった。日本列島が「大学紛争」で大揺れに揺れた時代である。大学会は、保身に明け暮れる旧世代を乗り越え、「民衆のために働くリーダー」を育てるための場になった。

 さらに池田は「言論・出版問題」(七〇年)に前後して、創価学園(六八年開校)と創価大学(七一年開学)をつくる。

 また「教育権」を政治から自立させる独創的な「四権分立」を提唱し、「生涯の最後の事業」と定めた教育の分野で、大きな一歩を踏み出していく。

   屋台を引いた創立者 ②


 「昼間働きながら、夜学ぶということは、心身ともに疲れる。苦しき仕事、深夜の勉強に打ち勝つには、肉体的にも精神的にも相当の体力を要する。当時、私は京浜蒲田駅の裏にあった蒲田工業会という大田区の中小企業の助成機関で、事務書記として働いていた」(同)

 この「忘れ得ぬ出会い」のなかで、池田は、自ら学んだ大世学院(現・東京富士大学)での日々を振り返り、創立者である高田勇道の遺徳を偲んでいる。

 文字通り自らの命を削って富士短期大学を創立し、四十二歳で世を去った高田勇道は、青春時代の池田に鮮烈な印象を与えた(『民衆こそ王者』第四巻)。

 高田は早稲田大学の専門部政治経済学科を首席で卒業した。その後、生活費を稼ぐために「やきとり一串五銭」と墨で書いた行燈をつるし、屋台を引いたことがあった。


 大学時代のクラス担任だった西野入徳は「大世学院と富士短大との出生はあの”やきとり”屋台と深い深い関係があることを私は深く感ぜずにはおれない」と述懐している(『学園創立者 高田勇道先生』富士短期大学)。

  屋台を引いた創立者 ①


 池田が夜学時代に使っていたノートが残っている。週刊誌『サンデー毎日』連載のエッセー「忘れ得ぬ出会い」で紹介された。

 「古い一冊のノートがある。インクの染みのついたA5判のノートである。茶の帯がついた表紙には『史学概論』『政治学』と表題がしるされている」(全集第二一巻)

 この「史学概論」のノートには、七世紀ごろの北東アジアの地図が書き込まれている。

「科学と宗教とはしばしば衝突する。そこで中世期以来のヨーロッパに於ける科学者迫害の例をのべよ」と書いた下には赤鉛筆の波線。「政治学」では議会政治の基礎について書き留められている。

 また、シェークスピアの『ベニスの商人』のあらすじが、丁寧な英語の筆記体で数ページにわたって書き写された箇所や、中国語の和訳を書き連ねたページもある。

 さらに「経済地理」「経済原論」と表紙に書かれたもう一冊のノートがある。その裏表紙には英語で「ペンは剣よりも強し」と大書されており、原論活動への思いがにじむ。

 「創価学会の世界に学歴は関係ないよ」 ④


 花岡が四十歳を過ぎたころ、池田を囲む懇談の場があった。「その場で、私が高校の夜学出身であることが話題になりました」。

 「創価学会には学歴は関係ないよ」。池田はそうことわったうえで「大学卒と高卒、どこが違うかわかるかい」と花岡に尋ねた。答えあぐねていると池田は「一つは『どれだけ本を読んでいるか』だよ。だから、たとえ大学を出ていなくても本を読むんだよ」と語った。「その翌日から読書ノートをつけ始めました」と花岡は語る。

 

 池田自身、若き日を振り返ってこう綴っている。

「私には深い反省がある。それは、十代、二十代の時に、もっともっと基本的な勉強をしておきたかった。また身体を丈夫に、鍛えておけばよかったということである。自分でも青年時代の大切であることは自覚して、多少本も読んだつもりであった。だが、今となっては、あの十倍も二十倍も、やればよかったと悔やまれてならない」(『池田大作全集』第一八巻)。

 「創価学会の世界に学歴は関係ないよ」 ③


  のちに花岡は学会本部の職員となり、聖教新聞出版局の発送センターで長く働いた。大量の書籍などを配送する重労働の職場である。忘れ難い出来事がある。

「先生の次男である城久さんが学生の時、友人とともに配送センターでアルバイトされたことがあります。先生は『学会本部の一番大変な所で苦労させたい』という思いでした。私たちも一切特別扱いせず、皆と同じように働いてもらいました」。

 池田は自らの体験から、「労苦こそ宝である」と常に訴えてきた。1987年(昭和五十三年)の四月には、発送センターの職員に、

 「辛くても 君等頼まん 冥桜」

 という揮毫を贈ったことがある。

「冥」という一言に、花岡は「目立たぬ陰の存在」に光を当てる池田の温かさを感じたという。

 仏法には「冥益(みょうやく)」という言葉がある。池田はその意味を次のように説明している(1990年、福井)。

 「(仏法の)利益には顕益(けんやく=はっきり顕れる利益)と冥益=知らず知らずのうちに受けている利益)があるが、末法は冥益が中心である。樹木でも、種を植えてすぐ『実』が欲しい(笑)、というのは道理に反する。大樹であるほど、育つのに時間もかかる」

 「簡単に出来上がったものは、根が浅い。鍛えられてもいない。何かあると、すぐに倒れてしまう。また自身の充実もない」「学生も勉強もしないで、良い成績をもらったのでは、進歩がない。すべて道理である。仏法も、また最高の『道理』であり、すべてに意味がある」