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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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    「不退」───諦めるな


 地平線まで続く広大な水田に沿って、まっすぐに道路が走る。高さ30㍍もあろうかという防風林が延々と続く。秋田県の大潟村である。

 日本第二の湖だった八郎潟を、食糧増産のために国が干拓し、1964年(昭和39年)に誕生した村である。この地で稲作を続ける小林信雄(副県長)も、東北の「農村ルネサンス運動」をリードしてきた一人だ。

 「あの大冷害の年は、新米が収穫できたことがうれしくて学会本部に届けました。すぐに池田先生から『金の米だね。御宝前に供えさせていただきます』という伝言が届きました。あの時の伝言が、いつも離れないんです」。そう言って小林は自分の胸をとんとんと叩いた。


 小林の実家は、秋田の富津内村(現・五城目町)で細々と稲作を営む農家だった。小林が二歳の時、出征していた父の福治は西太平洋のガダルカナル島で亡くなった。

「のちに、父の最期を知る人から、餓死だったと聞かされました」。補給路を断たれた日本軍が大量の餓死者を出したため、ガダルカナル島は「餓島」とも呼ばれた。

 さらに中学三年生の時、母のカツミが結核で亡くなった。34歳の若さだった。姉の星子とともに、姉弟二人の生活が始まった。姉は高校を中退して働いた。小林は定時制高校に通い、昼間は農作業と土木作業に汗を流した。


 叔父から折伏された姉が先に学会に入った。初めは意固地になって反対していた小林も信心を始めた。母の死から二年が過ぎていた。

「やると決めたら無我夢中で。食事はいつもコッペパン一つ。お湯で腹をふくらませ、余ったお金を弘教のための交通費にまわした」と笑って振り返る。


 農協に4年ほど勤めた後、大潟村の入植を知り、27歳で入植する。

「どうせなら大規模でやりたいと考えていただけに、入植できた時の喜びは言葉になりませんでした」。

 しかし現実は厳しかった。まず干拓された土地を田んぼにする作業が過酷を極めた。なけなしの金をはたいて田植機を導入したが、そもそも土地が軟らかく、機械が泥に沈んでしまう。一文無しに近い窮状を見て、周りから「あいつが最初に脱落するな」と陰口を叩かれた。

 さらに追い打ちをかけるように、入植したその年から、国の減反政策が始まった。水田を畑に切り替えざるをえなくなったが、干拓地ゆえに排水が悪く、畑が何度も冠水してしまう。猫の目のようにクルクル変わる農業政策に怒る暇もなかった。

 干拓地と格闘する、文字通り歯を食いしばっての作業が続いた。将来を見据え、借金を重ねて早々に大型機械を導入した。収穫量は少しずつ上向いていった。

 1981年(昭和56年)6月、ヨーロッパからカナダに到着した池田を、小林は日本からの親善交流団の一員として迎えた。そして、見学のために立ち寄った「ナイアガラの滝」で、周囲のメンバーを励ます池田の姿を目の当たりにする。小林は思わず駆け寄り「秋田から来ました!」と声をかけた。

 小林の顔をじっと見つめた池田は、「『不退』だよ」と言って右手を伸ばし、小林の手を強く握った。池田の周りには、再び激励の輪ができた。

「私にとってとても大きな一言でした。何があっても信心をやめない。仕事も諦めない。それが『不退』だと思っています」と小林は語る。


 大潟村に入植してから42年。15㌶で米を作っている。収穫量は「あきたこまち」1200俵を超える。

 また、今問題になっている「八郎潟の水質悪化」を改善するため、自ら炭焼きをして木炭を使った取り組みを提案。水質浄化研究会の会長や、村の環境に関する委員なども務めている。

   大凶作の年に始まった「ルネサンス」 ③


 大冷害の1993年。稲の成長は5月まで順調だったが、やがて太陽が隠れ、低温と日照不足に悩まされた。丸山は懸命に祈り、必死で知恵を絞った。

「そのころ『深水管理』という新しい方法を知ったんです」。

水は、土や外気に比べて温度の変化が小さい。その水を従来よりも深く張って、低温による被害を防ぐのである。

 だが、丸山の地元では「中干し」──途中で水田の水を抜いて、根の発達を促す──が主流だった。まるで正反対の手法である。周囲は皆、首をひねった。丸山はさらに試行錯誤を重ね、肥料の調節によって「深水管理」と「根の発達」を両立させることに成功した。


 収穫の秋を迎えた。熟すことなく、ピンと立ったままの緑色の稲穂が目立つ水田の中で、丸山の水田は黄金色に染まった。地域で初の深水管理の成功例となった。その後、農協なども後押しし、平泉町では現在、深水管理が広く行われるようになっている。丸山は今、稲作に加えて自然薯の栽培も行う。採れた自然薯は評判が良く、「世界遺産」に認定された平泉中尊寺のレストランでも使われている。

  大凶作の年に始まった「ルネサンス」 ②


 たとえば岩手では、第一回の花巻市を皮切りに5年間で一二回の「ルネサンス体験談大会」を開いた。現在まで通算四四回。手作りの案内状を手に、集落を一軒ずつ訪ねて声をかける。

 第一回の花巻大会で実行委員長を務めた丸山訓(平泉町、副総県長)は、大冷害の5年後、千厩町で行われた大会が特に印象深いと語る。

 「5年たっても、集まれば『あん時は大変だったナ』と冷害の話題になりました」。とにかく米が実らず、鳥除けの「案山子」すら必要なかったというほどの不作だった。

 「千厩町では40人を超える来賓が来ましたが、ある共済組合の関係者が『平成5年の大冷害の時は、何十億円もの共済金を農家に支払ったが、人の心を癒やすことはできなかった。しかし今日の会合は違う。本当に一人ひとりを励まし、勇気づけるものだった』と感慨深く話してくれました」

 丸山は古くからの穀倉地帯、平泉町で六代続く農家に生まれた。1954年(昭和29年)、小学六年生の時に一家で入会した。

「家は病気の問屋でした。祖父は神経痛で歩けず、祖母はリウマチで寝たきり、母はノイローゼ、その様子を見かねた祖父の弟が、仙台から何度も通ってくれたんです」。

 

 信心を始めた後、丸山は子どもながらに家の中が活気づいていくことを実感した。ある日、歩けるようになった祖父が、祖母を連れて、創価学会第二代会長・戸田城聖の質問会に家族で参加した。

 「小児まひの子をもつ親が質問した時です。戸田先生はその小さな子を演壇にまで上げて、『必ず、治るぞ』と励まされた。あの温かい一言が今も胸に焼きついています」。

会場の一隅で聴いた戸田のその言葉を、丸山の家族は自分たちに送られた励ましのように抱きしめ、学会活動に打ち込んだ。家族の病気は少しずつだが、良くなっていった。

 丸山は創価学会の平泉支部が誕生した時、初代の支部長を務めた。

「先生は平泉を訪れた際に、現在『世界遺産』に登録されている一帯も見学されました」。「第一回農村部勤行会」にも岩手の代表として参加した。

「やっぱり『地域の灯台たれ』の一言に感動しましたね。農業というと暗くて苦しいイメージが強かった。しかし『私も地域に貢献できるぞ』と思うことができた。

   大凶作の年に始まった「ルネサンス」 ①


 九州の地でも、東北の地でも、「青年が声をあげる」ことによって新しい流れが生まれた。さらに、1993年(平成5年)を境にして、「体験主張大会」は壮年、婦人を巻き込んだ大きな運動になっていく。

 この年、日本列島は記録的な冷夏に見舞われた。とりわけ東北の米は戦後最大級の不作となった。93年の水稲の「作況指数」(収穫量が平年と比べて多いか少ないかを表す指標。平年収量を100とする)は全国で74、東北は56.つまり東北は、例年の半分しか収穫できなかったのである。青森28、岩手30、宮城37・・・・・・水稲の被害総額は東北全体で約4700億円にのぼった。


 宮城の農村部はこの年、初めて「ルネサンス」(=再生)の名を冠して、「農村ルネサンス体験主張談大会」を開いた。5月に古川市(現・大崎市)と築館町(現・栗原市)、6月に色麻町と涌谷町で開催し、反響を広げた。当時、宮城の農村部の中心者だった錦本雅晴(山形・山辺町、副総県長)は語る。

「我々の先輩は、旧習深い地で、『地域の灯台』として信頼を築いてこられた、その『再生』 の体験を通して、課題の多い農村に希望を広げよう、と考えました」。

 同年12月、東北各県の農村部長らが集まり、話し合った。そして「農村ルネサンス運動」を活動のテーマに掲げた。今日まで「自らの体験を語る」運動を地道に進め、さらに多くの人々に反響を広げている。