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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   「泥だらけの王様」


 「地域の灯台」篇を終えるにあたり、池田が繰り広げてきた農漁業の友への「励ましの原点」に触れたい。

 第三代会長就任から半年ほどたった1960年(昭和35年)11月。池田は錦秋の山梨を訪れた。

 広布支部の結成大会である。

「4000人の前で、男子部の代表で汗びっしょりになって学会歌の指揮をとりました」。

そう語る水石陽充(山梨・北杜市、副県長)は当時、「そろそろ農業に見切りをつけようか」と悩んでいた。

「稲作と果樹栽培でしたが、休みもない。生活は良くならない。同じ世代はどんどん都会に出ていくし、それがうらやましいと思っていました」。

 池田が会合の運営スタッフたちの労をねぎらい、言葉を交わした時のことである。水石は「『三ちゃん農業』の未来に行き詰まりを感じています」と切り出した。

 働き盛りの男性が出稼ぎなどでいなくなり、「じいちゃん」「ばあちゃん」「かあちゃん」が農業の現場を支えざるをえない───「三ちゃん農業」は、そうした状況をあらわした流行語である。学校の教科書にも載った。

 池田は真っ黒に日焼けした水石の顔を見つめ、「三ちゃん農業は、いやな言葉だね」と言った。

 「本来、農業は国を支え、生活を支える最も大事な仕事だ。大変だが、誇りに思って頑張ってほしい。

 畑を耕して作物を育てるのは、一国一城の王様みたいなものだ。『泥だらけの王様』だよ。素晴らしいじゃないか。青年らしく、たくましい生命力で立とうよ」

 「泥だらけの王様」という一言が、水石の心にいつまでも残った。

「生まれて初めて、農業に生きがいを感じました。79歳の今日まで農業一筋で頑張ってくることができたのは、あの日、先生と出会ったからです」と振り返る。

 仕事は長男の伸一(ブロック長)が後を継いだ。本年初頭、水石は病に倒れたが、自力で歩けるようになった。息子とともに再び土の上に立つ日を目指して、リハビリに励んでいる。


 かつて池田は、稲刈りに精を出す老夫婦を讃えて「立てる農夫は、座せる王侯よりも尊し」と綴った。

 「泥だらけの王様」は、照りつける太陽の下、きょうも土を踏む。山深く分け入って、天を衝く大樹に語りかける。

 潮風に吹かれ、海の陽に灼かれる王様は、きょうも水平線を見つめる。

   桜桃の木の下で ②


 車を降りた池田の視線の先には、堂々たる朝日連邦がそびえていた。馬見ヶ崎川の水音が耳に心地よい。

 農園まで砂利道を歩いた。遠くでドーン、ドーンと乾いた音が響いた。果実をついばむムクドリを追い払う空砲である。

 「大砲かな?フランス革命が始まったみたいだな」池田の一言に笑いが広がった。

 道中、隣家の軽トラックがすれ違った。池田は手にしていたカメラを静かに向けた。後日「お隣と友好を深められれば」と、その写真が丹野のもとに届けられた。

 「今度、パリで写真展をやります。山形の写真も出すよ」。

初となる海外での写真展が翌年に控えていた。真っ青な空、砂利道、納屋の番犬。茅葺き屋根、小道の脇にたたずむ井戸、一面に広がる水田。歩きながらシャッターを押した。

 「ナポレオン」の木の前で、池田はな丹野に促され、熟したサクランボを収穫した。池田と妻の香峯子、丹野と丹野の母かづ子でテーブルを囲んだ。採れたてのサクランボと、池田が用意してきたおにぎりをテーブルに並べた。

 「ご家族は?」

 「祖母が母屋で留守番をしています。二年前に父を亡くしました」

 「農業は、儲かる?」

 「苦労に比べて儲かりません」

 丹野は正直に答えた。母のかづ子も強い山形訛りで話した。池田は一言一言うなずき、「そうか・・・・」と考え込んだ。

「こちらが申し訳なくなるほど、真剣に考えてくださいました」。

池田は「農園の基礎はしっかりしている。新しい品種を積極的に取り入れるんだ。消費者の立場に立って考えるんだよ」と提案した。

 柔らかな陽射しに包まれた懇談の場に、赤トンボが飛んできた。池田が人差し指を立てると、その指先に止まった。

 そのトンボを微笑みながら見つめ、亡き正善を偲んで語る池田に、母のかづ子は声を詰まらせ、涙で答えた。

 「じつは父を失った後、張り合いを失い、ぽっかり穴があいたような日々でした。短い懇談で、先生は全部わかってくださったように感じた」と丹野は語る。

 妻の香峯子は「こうやって農家を訪れたのは3回目くらいですね」と話した。13年前、同じ山形の天童市にある森谷農園を訪れた時のことも話題になった。

 池田が椅子から立ち上がった、

「帰られると思ったのですが、『母屋にも行こう』と言われました」。留守番をしていた祖母のマツが急いで外に出てきた。池田は「元気でね」「長生きしてね」と温かく声を掛け、抱きかかえるように励ました。

 車中の人となった池田から、「お父さんのことを祈ったよ」と伝言があり、さらに後日、一枚の原稿用紙が丹野のもとに届いた。

「山形の 果実の王者の 福光園 君が城主と 育つを待つらむ」という和歌が記されていた。

 その後、丹野はラ・フランス(西洋梨)やサクランボの新品種を導入。口コミでの直売など、新しい販路を積極的に開いた。地元の農協ではラ・フランスの品種会の中心者を務め、積極的に技術提供や広報に携わっている。

   桜桃の木の下で ①


 山形で果樹園を営む丹野勉(山形市、副支部長)。大冷害の翌年(1994年)、宮城の体験談大会で登壇した。池田との出会いは、その7年前だった。


 ───広いサクランボ畑に、「赤い宝石」を実らせた1本の木が立っている。樹齢30年、高さは3㍍ほど。池田はその気を見上げ、「見事だなあ」と唸った。そして木に向き合ったまま、左右の手を広げて天に突き上げ、ゆっくりと万歳の格好をした。周りからは、その木を讃え、敬っているように見えた。

 1987年(昭和62年)7月7日。丹野の農園である。

「収穫のピークは過ぎていましたが、『ナポレオン』という品種の1本だけは手入れをして、完熟の状態にしておいたんです」。

 池田はこの木は『大ナポレオン』だね。この農園は『福光園』だね」と感心して、同行の幹部たちにも「この木に一礼を」と促した。それほど見事な木だった。

 丹野は七代続く農家の次男として生まれた。農業への関心は自然に芽生えたが、長男でもない自分が後を継ぐとは想像もしていなかった。

 日本大学で農学を学んだ。

「海外に渡って大規模な農業をやりたかったんです」。

創価学会に巡りあったのは大学一年の春だった。大学の友人から話を聞いて、「人生には正しい思想が必要かもしれない」と思った。

 2年の春、郷里の兄から手紙が届いた。父の正善が胃がんだという。ちょうどサクランボの白い花が満開のころだった。父の手術は成功したが、これまで通りの仕事はできなくなった。いっぽう、長男は今の仕事をすぐには辞められないという。

 初志を貫いて海外に行くか、実家に戻るか。学生時代、丹野は迷い続けた。背中を押してくれたのは、学生部の会合で池田から聞いた「民衆を守るリーダーになれ」という一言だった。丹野は実家を継ぐ決意を固めた。故郷では若者の流出や、農業の後継者不足が深刻になっていた。

「リンゴの新品種」をテーマに卒業論文を書き上げ、山形に戻った。


 「農作業の苦労は想像を超えていました。大学で学んだ知識では歯が立たなかった」

 丹野の農園で作っていたのは、サクランボのほかにリンゴとスモモ、そして米である。深い雪にまみれて剪定(「せんてい」=刈り込み)作業を行う、夏の炎天下、散布した薬剤が汗まみれの肌に降りかかる。植えたばかりの苗木を野ネズミにかじられることもあった。

 黙々と働く両親の姿を、丹野はあらためて仰ぎ見た。父は親であると同時に、仕事の師となった。丹野は地元の青年協議会の事務局長も引き受けた。そうした奮闘を見て、帰郷から二年後、母のかづ子、祖母のマツが入会した。

「そんならオレもやらんといかんべ」と父の正善も続いた。

 正善のがんが再発したのは1984年(昭和59年)の夏だった。医師から「長くてもあと数ヶ月」と告げられた。一家で御本尊の前に座った。

 その年の秋、丹野は大粒のリンゴを一つ抱えて病院に走った。父の正善と一緒に考えた新しい栽培法で、初めて収穫したリンゴである。べッドで横になった正善の掌に握らせた。正善は何度もうなずき、涙を流した。翌秋まで命を延ばし、正善は亡くなった。池田が丹野の家を訪れたのは、それから2年後のことだった。

   日本一の村おこし


 天野浩(熊本・水俣市、県男子部長)は、父の茂(副支部長)とともに紅茶を栽培している。茶畑は新幹線の新水俣駅から車で30分。熊本と鹿児島県境近く。「石飛」と呼ばれる集落にある。標高は600㍍近い。

 何種類もの緑の濃淡に包まれた細い山道を登りながら、天野は「どんな山奥で使われた農薬でも、必ず海に流れつく。海で異変が起きた時にはもう手遅れです。便利さと自然保護とのバランスをいつも考えます」と語った。

 父の茂は1996年(平成8年)、熊本の主張大会で登壇した。水俣病の惨禍を経たこの地で「村おこし運動」の中心者になり、94年(同6年)、国土庁の「全国農村アメニティー・コンクール」で最優秀賞に輝いた喜びを語ったのである。

 10年後、息子の浩も「ルネサンス体験主張大会」で紅茶作りの経験を語った。「農薬も科学肥料も一切使わない」と決めている。ほとんどの茶葉が育たず、収穫量ゼロの苦境に立たされたこともあったが、父子は負けなかった。父の茂は「池田先生の本の中に『生命のリング』という言葉があったんですよ。俺たちは自然界ともつながっている。と。生き方の基本というか、思想を学びました」と語る。


 天野父子が耕す畑は6㌶。個人農園として、紅茶の生産量で日本一を誇る。1949年(昭和24年)、茂の父・時光と母・文子が八代から移り住み、開拓を始めた。

「最初は主に緑茶でしたが、平成3年からは紅茶を始めました。人気が出始めたのは東京の品川で初めて『水俣展』が開かれた時ですね」(天野茂)。

 水俣展──水俣病の想像を絶する被害、そしてチッソや国の責任を余すところなく描き、「近代とは何か」「人間とはなにか」を観る者に突きつける展示である。現在まで綿々と続いている。その第一回の会場で、水俣の自然が生み出す豊かな物産も紹介されたのである。

 茂が初めて池田と会ったのは74年(昭和49年)、第一回「水俣友の集い」だった。水俣の学会員たちは、公害の悲惨を乗り越えてこの地に生きる決意を「水俣物語」と題する寸劇や合唱、体験談に託した。20歳だった茂も、男子部の代表として池田の前で剣舞を披露した。

 「(宗教では)創価学会のほかは、患者さんに係ることができなかった」(石牟礼道子)と評される水俣の同志。その健気な振る舞いに対する池田の尊敬の思いは、「水俣の生命の花に朝の露」「水銀の苦海の彼方は虹の華」という句に結晶した。

 もう一度、茂は池田と馬路かで会っている。池田が第三代会長を辞任した後、初めて熊本を訪れた時だ。

「私たちが住む水俣や久木野の地域も宗門事件ずいぶん苦しめられました。壱町畑公園で先生といっしょに歌った『田原坂』は忘れることはできません」。


 息子の浩は今、新しい社会運動に取り組んでいる。水俣の若者を中心にした「あばぁこんね」(=地元の言葉で「じゃあ、おいでよ」という意味)という団体を立ち上げた。市役所の職員もチッソの社員もいる。新しい町おこしに知恵を絞る毎日だ。

「私にとっては、池田先生の『地域の灯台』という一言がものすごく大きな支えです。水俣には思想、信条の違いを問わず素晴らしい人間観。社会観をもつ先輩がたくさんいます。その方々に学びながら、水俣全体が栄える方法を探しています」。

 近年、食文化を見直す「スローフード」に光が当たるようになり、天野の茶園では海外から住み込みで働く人が絶えない。

「今はオランダ人の双子の学生が手伝ってくれていますよ」。

また、室町時代からの伝統をもつ和菓子屋が弐年前、紅茶入り羊羹の発売を始めた。この羊羹の原料は、天野父子のつくる「天の紅茶」である。

    「レンコン博士」 


 池田の薫陶を受け、「地域の灯台」として生き抜く人々が、「平成五年の大冷害」以降、続々と「農村ルネサンス運動」の先頭に立ってきた。


 今年81歳の八島八郎(茨城・土浦市、副支部長)は、霞ケ浦の湖岸でレンコン農家を営む。冷害の翌年(1994年)、「ルネサンス体験談大会」に登場した。

 八島が耕している畑は3・2㌶。この規模だと通常、400ケースほどのレンコンが収穫できるが、八島の収穫量は700ケースにも及ぶ。

 日本一のレンコンの産地、茨城で「レンコン博士」と呼ばれる。「レンコンと話しができると」という。

「ハスの葉っぱの色はね、肥料、季節、時間帯によって七色にかわるんです。葉っぱを見ればレンコンンが何を欲しているのか、わかるんだ」。

 茨城の石岡で生まれた八島は、「農業の『の』字も知らない)青春を過ごした。東京の浅草で演芸場の副支配人をしていたが、イエ(地区副婦人部長)と結婚し、農家の婿養子になる。まったく違う生活が始まった。


 「『よそ者婿養子』でしょう。村の人は『養子だから』と冷たいし、家の中では義母との折り合いが悪くて、いつも喧嘩していた。よくしてくれていた義父が亡くなってからは、泥に足をとられたような毎日でした」

 鬱屈がたまって、納屋で農薬のパラチオンをあおったこともある。妻がみつけて、病院に飛び込んだ。

「あの時の苦しい境遇が、私にレンコンを作らせてくれたんです」と八島は振り返る。

 地元の学会員から、義母が一睡もせずに八島の回復を祈り続けていたことを知らされ、男泣きに泣いた。

「義母がやっている宗教だから、という理由で学会を頭ごなしに否定していた。私は子どもみたいなものでした。そんな自分を恥ずかしく思った」。

 1959年(昭和34年)、八島は夫婦そろって入会する。仕事を終えたら、軋む自転車を漕ぎ、どこまでも続くレンコン畑を眺めながら弘教に走る日々が始まった。

 信心を始めて10年目。転機が訪れた。八島のレンコンが赤渋病にかかり、質が劣化してしまったのだ。八島自身も肝臓と腎臓を患い、苦しい時だった。地域で名の知れたベテランに教えを請うた。

 しかし、その農家に「信心してもハスが腐る。しかもお前は養子の分際で、折伏とかいって人に説教して回っているだろう。『折伏はやめます』と誓って、酒を五升持ってきたら教えてやるわい」と罵倒された。

 農村部の先輩の坂本全が「人を恨んじゃいけない。全部、自分を成長させてくれる『善知識』だと考えるんだ。そうすれば逆に勇気が湧くじゃないか」と励ましてくれた。「絶対にこの道で第一人者になってみせる」と誓った。

 時間を捻出し、徳島や石川などレンコンの名産地を訪ねた。列車で上京し、上野の図書館にも通った。ようやく原因が肥料にあることを突き止めた。京都大学と協力し、レンコン専用の肥料を開発。県の農業水産部長賞、土浦市長賞も受賞した。

「レンコンと話しができるようになった」のはそのころである。

 池田との一番の思い出は、やはり「第一回農村部勤行会」だという。

「先輩の坂本全さんと一緒に、茨城の代表として参加しました。『地域の灯台』という言葉を初めて聞いて、『その通りにやろう』と思った。そのためには、まず自分を磨くことだと決めました」。

 この年、八島は茨城のレンコン農家で初の「県農業経営士」になった。教えを請われれば、どこにでも足を運んだ。

 八島の卓越した技術は、日本随一の農業百科事典である『農業技術大系』(農文協)に紹介されている。また、八島が共同開発した「藕糸蓮(ぐうしれん)」

というハスは、美しい糸がとれる。「ハスの糸」で布を織る風習は古くからあり、八島の「藕糸蓮)の糸を織り込んだ布は、各界から高い評価が寄せられている。