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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   「学生を頼みます」 


 創立者として学生に接する池田の姿を、大塚は何度も目にすることになる。ある日、校舎のロビーで池田とすれ違った時には「大塚さんだね。学生がお世話になるね」と声をかけられた。

「ちょうど行事の日だったので、大学職員はネームプレートをつけていました。先生は私のプレートをじっとご覧になった後、10㍍ほど向こうへ歩いて、もう一度こちらに戻ってきて一言、『覚えたよ』と言われました」。

 池田は来学した際、度々、保険センターを訪れ、学生の様子を尋ねた。

「扉をノックされ、『患者いる?』『いつもありがとう』とよく声をかけてくださいました」。

 とくに忘れられない光景があるという。

「昭和48年に行われた夏の行事の『滝山祭』です」。

中央体育館で納涼盆踊り大会が開かれた。池田は背広を浴衣に着替えて、学生の輪に飛び込んだ。自ら太鼓のバチを手にとり、盆踊りのリズムに合わせて太鼓を叩いた。掌にできたマメがつぶれ、学生に絆創膏を貼ってもらう一幕もあった。


 大塚はその日、体育館内で救護役員として待機していた。太鼓を叩きに向かう池田は、柱の陰に控えていた大塚を見つけ、一言、声をかけてから会場に向かった。しかし喧噪の中で、よく聞き取れなかった。

 しばらくして、池田のそばにいた役員が大塚のもとへ走ってきた。

「今、先生が何と言われたがわかりましたか?先生は大塚さんに『学生を頼みます』と言われたんですよ」と教えてくれた。

 渾身の力で太鼓を叩き、学生を励まし続ける池田の姿を見つめながら、大塚は「私も学生さんを何よりも大事にしよう」と心に決めた。

 開学当時から自家製のドーナツを学生にふるまった。食べ盛りの学生たちから「大塚ドーナツ」の愛称で呼ばれた。

「ある一期生の寮生が風邪で熱を出した時、校医の先生病院がすぐ近くなので、そちらに行くように言ったのですが・・・・・」。その寮生から「『大塚病院』がいいんです」「顔を見て話を聞いてもらえればいいから」と言われ、相談相手になったこともあった。


 母のたつを看取った後は、創大で一番古い学生寮である「滝山南寮」の一室に住み込んだ。夜中でも学生たちを看護した。

「いまの学長さんも理事長さんも、創大出身の方になりましたね。創大で学ぶ人は、キリスト教もイスラム教徒も共産圏の学生も全員、『池田先生からお預かりした子ども』と思って接してきました」。

 80歳で退職する際、創価大学はその功労を讃え、最大の感謝を込めた賞を贈った。功労を讃える桜も植樹された。大学内には、功労者の名を刻んだ何本もの木々が学生たちを見守っている。「大塚桜」は、大塚とともに創大職員として学生に尽くした先駆者を偲ぶ桜の隣に植わっている。


 「創価大学に看護学部ができて、思うんです。病める人が多い社会です。一番大事なのは人の心のケアです。温かな心を持った看護師──そうした人材を社会に輩出しなければ、という、池田先生の年来の思いの結実ではないでしょうか」。

ふくよかな掌を胸の前で合わせ、今年93歳の大塚は祈るように語った。


 ドーナツは、今も創大野球部に届けている。

 かつて池田は大塚に写真紀行集を届けた。大判の書籍の見返しには池田の筆で、


 崇高な 眞心(まごころ) 嬉しく 君の名を

 佛天までも 讃えほめなむ

       七月 十七日  大作

 大塚トメ先生


と記されている。

    「元気そうでよかった」 ②


 群馬に戻った大塚は、引き揚げ軍人の一と結婚する。幸せな生活は短かった。

「私が長男を身籠っていた時、夫は病死しました。28歳の若さでした」。

上海で患った胸の病が帰国後に悪化してしまったのだ。

 女で一つで子どもを育てるため、大塚は群馬大学で保護婦、助産婦(=現在の保健師、助産師)、養護教諭の資格を取った。そして小学校の養護教諭として働き始めた。

 長男が小学三年生のころ、実家を出ることになり、東京の叔母を頼って上京。品川にアパートを見つけた。

「洗濯屋の仕事で母一人、子一人が食いつなぐ生活でした」。

 住んでいたアパートの大家が創価学会員だった。

「困窮している私たちの様子を見かねて、仏法の話をしてくれたんです」。

1958年(昭和33年)、母子で入会した。徐々にだが、生活は軌道にのり、2年後には再び看護婦として働くようになった。

 看護師に復帰して10年経った1970年ごろのことである。同じ病院に勤めていた学会員の先輩看護婦から「創価大学に保険室ができる」と聞かされた。

 前年、池田が創価大学の「建学の精神」を発表した時、大塚はその会合に参加していた。日本中が「大学紛争」に揺れる中、いよいよ創価大学が船出する。

「うれしかった。と同時に『学校なんだから、保健室もできるだろうな。働ければいいな』と漠然とですが思っていました。

 職場の先輩は「一人採用するそうよ。学校と病院と、どちらの勤務経験もあって、すべての条件がそろった人はそんなにいないわよ。あなた、履歴書を出してみたら」と後押ししてくれた。「でも、まさか本当に採用になるなんて思ってもいませんでした」と振り返る大塚。翌年、開学と同時に創価大学で働き始めた。

    「元気そうでよかった」 ①


 創大看護学部の落成式(3月30日)は大勢の来賓で賑わった。人混みの中には、長年、看護師として働き、今は杖をついて集う人の姿もあった。

 翌日付の「聖教新聞」を手にした池田は、一枚の写真に目を留めた。落成を祝うテープカットの瞬間である。何人も写っている写真の端に、一人の老婦人の笑顔があった。見落としてしまうほど小さな笑顔だった。池田は、

「元気そうでよかった」

 と伝言を託した。その女性──大塚トメは、創価大学の開学時から同大学の保健センターに勤め、約30年にわたって学生たち面倒を見てきた功労者である。

「看護学部に男子学生も入ってきてくれてうれしい」と語る。

「男性の患者には、やはり男性看護師でなければ共感できないこともあるだろうと思いますから」。


 大塚トメは1920年(大正9年)、群馬県の黒岩村(現・冨岡市)の農家に生まれた。女学校に行きたかったが、支払う学費は無かった。

「勉強を続けたいから、働きながら学べる東京の看護学校を選んだ」と語る。

 看護婦(=現在の看護師)の試験に合格した大塚は、横浜の病院などを経て、東京の日本赤十字病院で「救護看護婦」の教育を受けた。「真珠湾攻撃の翌年でした」。

 召集され、中国の南京に渡った。もともとあった大学の校舎が病院がわりになった。寄宿舎と大学を往復し、傷病兵を看護する毎日だった。召集直後、大塚は「未だに脳裏から離れません」という光景を目にしていた。

 「現地のひとたちがとても貧しい身なりで、日本人が使った食器を洗いながら、その食器の残骸をかき集めて食べていたんです。そういう人々を、日本兵が軍刀の柄で殴りつけているところも見ました」

 同じ人間なのに、なぜだ?中国の人々は、苦い疑問を胸の底に抱えたまま続いた。

「合歓の花を見ては、故郷の景色を思い出して何度も泣きました」。

敗戦の色が濃くなると、看護婦にも車の運転や乗馬の練習、薬草採りなどが命じられた。

 戦争が終わっても「看護の戦争」は続く。大塚たちのもとには日本兵だけでなく、中国兵も運ばれてくるようになった。国籍に関係なく手当てを続けた。「ある中国人将校からは『残って看護を続けてほしい』と懇願されました。あんなひどい戦争をしても、人の心には思いやり残っていることもあると感じました」。

 

 上海に移って傷病兵の看護を続けた。敗戦の7カ月後、上海から北九州の門司港に渡り、4年ぶりに母国の土を踏んだ。

たび重なる深夜勤務、深刻な人材不足・・・・・


昭和四十年代、看護師は過酷な環境下にあった。


池田は、看護に従事する女性の集まりに


「白樺クループ」という名称を贈り、


互いに励まし合っていくよう望んだ。


生命を護る現場。その労苦を敬う池田と


無名のナイチンゲールたちの物語を追う。


  先駆樹──白樺に込めた祈り


 「先駆樹」(パイオニアツリー)と呼ばれる木がある。

 石と土しかないような荒れ地でも、文字通り、他の草木に「先駆けて」根を張る。乾燥にも耐え、風にも耐え、やせ細った土地で真っ先に育つ。

 やがて自らの枝や葉で木陰をつくる。落ち葉は養分となり、後に続く草木を支え、大地を豊かにしていく。

 「森の貴婦人」とも呼ばれる「白樺」は、そうした先駆樹の仲間である。


 今年の春、創価大学(東京・八王子市)に堅牢な一棟の校舎が完成した。緑の木々に囲まれ、丸みを帯びた4階建て──創価大学看護学部である。

そのやわらかなベージュの色調の建物を見守るように、一本の木が植わっている。高さは数㍍、直径もまだ10㌢ほどの、今は小さな白樺である。

  創大の看護学部は、この四月に初めて新入生を迎えた。池田大作が創立した同大学では来年、さらに国際教養部も新設される。

 看護学部棟にたたずむ白樺の木。白樺には、これまで無名の看護従事者たちを敬い、励ましてきた池田の思いが凝縮している。その歴史を辿りたい。