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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   「感謝」を形にする人


 白樺は「カバノキ属」の仲間である。この「カバノキ」は、アイヌ語の「カリンバ」(=桜の木の皮)に由来するという。

 池田は、日本で最も白樺の映える北海道の地に、白樺グループを讃える「碑」を建て、白樺の木も植樹してはどうかと提案した。

 「『白樺』の皆さんは、いつも大変な所で働いて、暑い思いをしているから、碑は涼しい大沼(=函館研修道場)にしたんだよ」。

碑の起工式の日、池田はこう言って参加者をねぎらった。1978年(昭和53年)6月23日のことである。北海道や東京の代表が函館研修道場に集まった。


 参加者の中には「母子二代」で保健婦として働くメンバーもいた。

「函館から少し離れた南茅部町(当時)という漁師町で働いていました」と安藤真理は振り返る。

「人口1万2000人の町に、かつて保健婦は母一人しかいませんでした。町長さんから頼まれて、私も赴任したんです」。

安藤が幼いころ、父の正治郎は函館の病院で事務長をしていたが、結核で倒れた、兄も感染してしまった。母のテルが創価学会に入ったのはそのころである。テルは二人の治療費を稼ぐため、当時「陸の孤島」と言われていた石狩の浜益村(当時)に保健婦として単身赴任した。

 「母の勤務先は送毛という70戸ほどの集落で、完全な無医村でした。医療についての相談はすべて母に寄せられました」。

テルが函館に戻る時、村人から「残ってくれ」と泣いて頼まれたという。

 父の正治郎は、結核の薬の副作用で耳が聞こえなくなってしまい、銭湯の管理人として働き始めた。中学生の安藤は、学校から戻ると番台にあがり、先頭を閉めた後はデッキブラシでタイルを掃除して父を助けた。医療専門学校の保健婦学科を卒業した安藤は、当時、母のテルが働いていた南茅部町に赴任したのである。

 「大沼の研修道場がオープンした時、池田先生にお会いしました。その時の『何があっても題目だよ。題目をあげれば道は開けるよ』という一言が、私の原点です」


 安藤と一緒に起工式へ駆けつけた飯田利恵子は、函館市内の病院で働いていた。

「学会に入ったのは4年前でした。いとこから勧められて小説『人間革命』を読んだことがきっかけです」。

 飯田の父は当初、「創価学会は貧乏人と病人の集まりだから、絶対に入るな」と激しく反対していた。

「『創価学会が祈ればお米がわいてくるのか』と口を極めて罵っていた父ですが、晩年は聖教新聞を読むようになりました」。

 初めて池田と会った飯田は、指導者とはこれほど「感謝」を形にするものなのか、と驚いたという。

「研修道場を散策しながら、まだ若い私たちに対して『ありがとう、ありがとう』と何度もおっしゃった。その後も救護役員として何度かごあいさつする機会がありましたが、一度も例外はありませんでした」。

 北海道の白樺委員長を務める島美恵子も、ともに散策した一人である。札幌市の保健所で働いていた。

「先生が『このあたりは日陰だろう。でも白樺は、日陰でもまっすぐ天に向かって伸びているだろう』と話された姿が印象に残っています。『白樺グループ』と名づけた意味を確かめておられるように見えました」。

 「諦めという言葉は私の辞書にはない」


 「キリストは、ユダというひとりの人によってうらぎられました。けれども、私の主張はあらゆる人によってうらぎられてきました──つぶされ、たたかれ、すてられてきました」。

日本、アメリカ、フランス、イタリア合同の青年研修会(1986年、東京)で池田は、周囲の無理解と闘った、このナイチンゲールの言葉に触れている。

 さらに「彼女の人生観の一つの真髄といえるかもしれない」という手紙の一節を紹介した。「聖教新聞」に6回にわたって連載された「ナイチンゲールを語る」でも再び触れている。

 それは、クリミア戦争の渦中、ナイチンゲールが本国の支援者に充てた手紙である。

 「ここ(=戦地)における真の屈辱、真の辛苦ともいうべきは、紳士でもなければ教養人でもなく、また実業家でさえなく、ましてや思いやりもなく、ただただ責任回避と保身しか念頭にないような人間たちを相手に、何とか仕事を進めて行かねばならぬというところになるのです」 

 権限もなく威張り、自らの発言に責任を持たない医師や軍人、政治家たちに囲まれながら、看護をめぐる無知と偏見を打ち破り続けたナイチンゲールならではの言葉である。


 池田はこの怒りの手紙を読み上げ、「私にはよくわかるし、いい言葉であると思う」と語った。

 次のような手紙も紹介した。

「ここにいる役人たちの中に、できれば私をジャンヌ・ダルクのように焼き殺してやりたいと願わない者はひとりもいないでしょう。しかし国民が私の見方であるために、陸軍省も私を負いだせないということを、彼らもよく承知している──これが私の置かれた立場です」。

 「諦めなどと言う言葉は私の辞書にはない」、「演劇の合唱隊みたいに、2分おき『進め、進め』と大声で歌いながら一歩も進めないような人間にだけはならないようにしようではありませんか」・・・・・血のにじむような「闘う人のことば」を、池田は優れた人間論、リーダー論として、世界各地の青年と共有していった。

 それは、とりもなおさず、看護に携わる白樺の友の苦労と努力を、心から包み込んでいこうという池田の一念の発露でもあった。

  「私の九千人の子どもが死に、忘れられた」


 「私は現在6人の死を目前にした患者を抱えております」──山本鶴子がドイツから送った、ナイチンゲールの手紙の一節である。ドイツで看護の訓練を受けたナイチンゲールは、33歳の時、ロンドンの病院で働き始めた。そのころの手紙である。看護の現場に「患者に対して愛情も良心もない」人が多すぎる現状を嘆いている。

 この年、「クリミヤ戦争」が始まった。ロシア軍とオスマン帝国・英・仏・サルデーニャ連合軍が戦い、20万人が命を落とした。ナイチンゲールは38人のイギリス看護婦隊を率いて戦地に赴き、2年にわたる地獄の日々を体験する。


 池田はこれまでナイチンゲールの人生について、自らのスピーチで何度も取り上げている。仏法で説かれる「菩薩」の生き方と重ね合わせ、SGIの青年部にも語ってきた。


 ───「クリミアの天使」と呼ばれたナイチンゲールは「書き続ける一生」を生きた。書いた本は約200冊。手紙は現存するだけで1万000通にも及ぶ。クリミア戦争で死んだ兵士の遺族に充てた手紙は数えきれない。

 彼女は兵士たちを「わが子」と呼んだ。

「私の子どもたちのうち9000人が死んで葬られ、忘れ去られたが、この死は防ぐことができたかもしれなかったのだ。私は忘れることができない」。

帰国後は陸軍の衛生状態を改善するため、ビクトリア女王に直訴したこともある。

 しかし、ナイチンゲールにとって「本当の闘い」は、クリミア戦争の後にやってきた。激しい虚脱状態に陥った彼女は、一時は医師から死亡通知を書かれるほど衰弱してしまったのだ。絶望の淵から這い上がる道のりが、そのまま「近代看護の母」の歩みとなった。ナイチンゲールは自ら「私はクリミアでなんと無能だったことだろう!しかし神はそこから正規の看護教育を育て上げたのだ!」と回想している。

「私は、殺された人びとの弔いの場に立っています。そして生きている限り、この人たちの大儀のために闘います」。

この一言がナイチンゲールの後半生を貫いている。


 結成直後の白樺グループが学び合った『看護覚え書』は、クリミア戦争の4年後に出版された。ナイチンゲールの代表作であり、歴史上初めて生まれた看護の専門書でもある。

 第一章の「換気と保温」から始まり、「太陽の光」がどれほど大事か、病人にどう質問すべきか、患者の個性をどう見抜くか、ベットの横幅や高さ、枕のあてがい方、音楽の効用・・・・・等々、じつに幅広いテーマが書き込まれている。

 すべて「患者の生命力の消耗を最小にする」ために必要なことだった。当時、「看護」といえば「せいぜい薬を飲ませたり湿布薬を貼ったりすること」と思われていた。そんな「常識」と闘う「挑戦の書」でもあった。

 「看護については『神秘』などはまったく存在しない」と彼女は強調する。

「良い看護というものは、あらゆる病気に共通するこまごましたこと、および一人ひとりの病人に固有のこまごましたことを観察すること、ただこれだけで成り立っているのである」。

 そして看護ほど「他人の感情のただなかへ自己を投入する能力」を必要とする仕事は、他に存在しないとも訴えた。

「看護婦は自分の職業を尊ばなければならない。天の与えた貴い生命は、しばし文字どおり看護婦の手中に委ねられるからである」



姉の息子なんですけど今度インディーズでCDを出しました。

つい先日もニューヨークに行っていたようです。

甥は歌が大好きで、小学生の頃からラップ音楽が好きでした。

思春期は大荒れで、包丁を持ち出したこともありました。

今では仕事も真面目に勤めながら、バンドをやっていてライブもやってます。

ライブをやっているのは知っていましたが、CD出すとは驚きです。

継続は力なりだと思いました。

YouTubeにアップされていたのでよかったら聴いてみてください。

映像は木更津駅周辺で撮ったようです。

因みにボーカルが甥です。











   白樺グループの誕生 


 昭和40年代の日本では、看護婦を取り巻く劣悪な環境が社会問題になった。病院のベット数が増えるいっぽう、看護婦の不足は年を追うごとに深刻化した。一日三交代の勤務のうち、「準夜勤」と「深夜勤」を合わせて「一ヶ月に20回を超えてしまう人もいた。

 近代看護の基礎をつくりあげたナイチンゲールは、1860年に出版した名著『看護覚え書』で「看護婦の睡眠についての明確な規定が、常に交わされるべきである」と指摘している。それから100年以上が経った1965年(昭和40年)、新潟のある病院で悲劇が起きた。

 二人目の子を妊娠していた看護婦が、夜勤を続けた末、異常分娩となり、出産直後に亡くなったのである。34歳だった。この事件を機に、労働条件の改善を求める運動が全国に広がった。

「夜勤は二人以上」「一ヶ月で8日以内」という最低条件を掲げたこの運動は、「二」と「八」をとって「ニッパチ闘争」と呼ばれた。

 看護婦として働く創価学会女子部のメンバーが初めて正式な会合を開いたのは、1969年(昭和44年)6月6日である。池田は、彼女たちの集まりを「白樺グループ」と名づけた。

 なぜ「白樺」だったのか。現在、白樺会(婦人部の看護従事者の集い)委員長を務める小島明子は「白樺という木の特徴を調べてみると、看護師の集まりに『白樺』と名づけられた意味がよくわかります」と語る。有志で調べた「白樺」の意味を、幾つか挙げてもらった。

 

 ───山火事、火山の噴火、地震などの災害の後、最初に姿をみせる「生命力の強い木」である。

 ───根を下ろした場所を肥沃な土壌に変える。大群落をつくる。

 ───寒さが厳しいほど、その樹皮は白さを増す。

 ───ロシアでは「健康」のシンボル。「そばに立つと身も心も癒される木」と言われる。欧米ではケガや病を除ける力があると伝えられる。

なによりも樹皮の白は、看護師の制服の白を連想させる。


 初会合には40数人が集まり、代表して3人が抱負を語った。その一人、稲光禮子は「看護に対する認識がまだまだ低い時代でした。三交代の勤務に加えて当直も多く、学会の会合にもなかなか参加できません。だから白樺グループが発足した時には本当にうれしかった」と語る。

「当日は先生から『同じ職業の人たちで切磋琢磨していきなさい』という伝言もいただきました」。


 稲光は当時、慶応義塾大学の付属病院で働き、病棟主任(=看護師長)も務めた。

「父親は福岡の久留米で大きな鋳物工場を経営していたのですが、B29の空襲ですべて灰になりました。私は4歳でした。母に連れられて畑に逃げ込み、上空から見えないようにとイモの葉っぱを何枚もかぶせられたことを覚えています」。

 中学三年生で読んだナイチンゲールの伝記が、看護の道に進むきっかけになった。久留米の定時制高校で学びながら看護婦として働いた。

「創価学会に入っている患者さんの術後回復は、他の患者さんに比べて良いのではないか。そう思わざるをえない機会が何度もありました。また、ちょうど同じころ、腎臓の病気で悩んでいた職場の先輩が学会に入ったんですが、仕事ぶりも、性格も、どんどん前向きに変わっていったんです。『これは一体なんだろう。一度やってみよう』と思いました」。

1961年(昭和36年)の春のことだった。

 上京し、慶応病院で8年働いた。その実績が認められ、東海大学医療技術短大の設立に携わる。助教授時代から「医短の母」として慕われ、基礎看護学を教えた。日中国交正常化20周年を記念する北京の医学大会では「死生観と看護教育」と題する研究発表を行い、大きな反響を呼んだ。


 初会合の席で「ソ連のナホトカを経由してドイツに渡ります」と語って皆を驚かせたのは山本鶴子である。東京・広尾の日本赤十字社医療センターに勤めていた。一年ほど前、池田が大きな会合で「青年は世界に雄飛しよう」と訴えた。山本はそのころからドイツ語を学び始めた。ドイツSGI(創価学会インターナショナル)理事長を務めたベーター・キューンの伴侶として、生涯、ヨーロッパSGIの発展を支えた。

 もう一人の登壇者である吉岡敏子は、二カ月前から東京医科大の看護専門学校で基礎看護学を教え始めたばかりだった。

「私も広尾の日赤で働いでいました。池田先生が白樺グループをつくってくださって本当にうれしかったです」。

 過酷な職場である。同じ志、同じ悩みを持つ同志が集まり、祈り、励まし合う。そういう場があるだけで、ずいぶん心を強く持つことができた。

「白樺グループの発足直後から、ナイチンゲールの『看護覚え書』を教材にして毎月のように勉強会をしました。ドイツに行った山本鶴子さんも、のちにナイチンゲールの飼料を翻訳して送ってくれました」(吉岡敏子)