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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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日本武道館での本部幹部会。会長指導の際、


壇上に招いて、池田がいたわり励ましたのは


40年以上助産師として働く無名の婦人だった。


陰で苦労する人に光を当て、宣揚したい──


会長辞任直後の1,979年(昭和54年)5月、


看護に携わる「白樺グループ」の代表らを


池田は妻の香峯子と神奈川文化会館で出迎え、


一人ひとりにねぎらいの声をかける。


 全員の視線が一点に集まった。

「若輩ではございますが」

 32歳の池田大作の声が、日大講堂に響く。

「本日より、戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布を目指し、一歩前身への指揮を執らせていただきます」。

 場内が割れるような拍手に包まれたその時、新井麗子は2階に立ち、正面から壇上を見守っていた。1960年(昭和35年)5月3日、東京。創価学会の第三代会長就任式である。

「あの日は救護班として参加しました。当時、看護婦(=現在の看護師)として働いていたんです」と新井は振り返る。

 日大講堂の2階席や3階席は、ぐるりと360度、壇上を囲んでいた。2階正面に立つと、ちょうど講堂全体を見渡すことができた。

 抱負を語る池田の姿を、新井は看護婦として見つめた。登壇する人たちが最高の体調で臨めるように、具合の悪くなる参加者が一人もいないように、就任式が終わるまで心の中で祈り続けた。

 「前日は、日大講堂に近い錦糸町の先輩宅に泊まって、早朝に講堂入りして準備にあたりました。就任式が始まる前、地下の救護室で作業していると、池田先生が来られました」。

各部門のスタッフにあいさつして回っているようだった。

 居合わせた人々に池田は「皆さん御苦労さま。今日はよろしくお願いします」。と頭を下げた。

「先生は私たちに深々とお辞儀され、『自分の持ち場は自分で守ってくださいね』とおっしゃって、すぐ次の場所に向われました。とても重要な場に居合わせていたのだと、今になって感じます」。

   「国家犯罪」の犠牲者に寄り添って


 明治以降の日本が行ったハンセン病対策は、2001年(平成13年)になってようやく「国家による犯罪」として認められた。

 「死ぬまで強制的に隔離する」という国策に、「地方自治体や個々の医師も加担し、さらに宗教団体やジャーナリストもそれを煽った」(『近現代日本ハンセン病問題資料集成<戦前編>』第一巻、不二出版)。しかし、その実態は広くしられていない。

 ハンセン病は「らい菌」による感染症である。菌の感染力はきわめて弱い。感染のスピードも非常に遅く、発症も少ない。これらの事実は、すでに、隔離政策が始まった1907年(明治40年)の時点でわかっていた。「それにもかかわらず、国家は終制隔離を強行した。さらに、隔離施設内では病者に労働を強制し、子孫を残さぬよう断種までおこない、さらに施設にとって反抗的な病者を不当に監禁して死に至らしめた」(同)

 「特別病室」と称する暖房もない部屋に閉じ込められ、凍死、衰弱死、自死した入所者もいた。ナチスのアウシュビッツ強制収容所と比較される虐殺だった。

 日本には「文明国」を目指す見栄があった。ファシズムの流れに乗って「民族浄化」という大義名分を汚す悪だというのである。ある療養所では「民族浄化 目指しつつ」という歌詞を、あろうことか入所者自身に歌わせていた。

 さらに戦局が悪くなると、入所者を「戦地労働力」として退所させた療養所もあった。「死ぬまで強制的に隔離する」という国策は、じつにいいかげんなものだった。

 自分の名前を隠し、仮名で一生を過ごし、「家族に迷惑がかかるから」と仮名のまま葬られた入所者もいる。2000年(平成12年)に「潮賞」を受賞した井上佳子の『孤高の桜』は、そうしたハンセン病入所者の生活に寄り添った佳品である。


 入会から8年後、古川は「白樺グループ」の結成式に参加した。同グループの委員長になった。1073年(昭和48年)池田から2000枚の写真が届いた。

「先生がフランスのロワールで撮られた写真でした」

まだまだ看護婦の労働条件が厳しい時代である。なんとか全国のメンバーを励まそうとする心遣いだった。

 古川は仲間と切磋琢磨しながら、結核専門の病院、呼吸器系の病棟、小児心臓外科のある病院、国立がんセンターなど、さまざまな職場を経てきた。そして50代半ば、都内のハンセン病療養所に赴任が決まった。

 「本日、副看護部長として参りました古川敦恵でございます」──勤務の初日、慣例に従い、園内の放送であいさつした。古川は感謝の言葉を述べた。

「私が看護こそわが人生と決めて、ここまでくることができましたのは、皆様のお仲間に、看護の素晴らしさを教えていただきたいからです。38年間、修業してまいりました。どうぞ私を思う存分、お使いください」。

 その翌日のことである。園内の廊下で話をしていると、全盲の入所者が二人、小走りで近寄ってきた。

 「その声は、昨日来てくれた副看護部長だろう?」目は見えずとも、耳でわかったのだ。二人の入所者は「ハンセン病棟で働いたことのある副看護部長は初めてだよ」「うれしいよ」「生きていてよかったと思うよ」と矢継ぎ早に声をかけながら、古川の手をとった。

 「駆け出しのころ、『ぼくたちが生きている意味があるじゃろか』と言われたAさんに、38年越しでお応えできたように感じました」

 退職までの4年間、古川はハンセン病入所者のもとで働いた。療養所を去る日、入所者たちが「あなたの笑顔が最高の薬だった」「あなたとの出会いが一生の財産になった」と口々に声をかけてくれた。

 古川は今、これまでの経験を生かしながら、学会活動の現場でさまざまな悩みを聴き、励ます日々を送っている。

 「『必ず叶えなければならないこと』を、突きつけられ続けているのが人生だと思います。先生のご指導と祈りを根本にして、どのように相手に心を尽くすことができるのか、それが問われているのは、病院の中に限ったことではありません」と語る。


 記念の碑が設置されている函館研修道場では、今も白樺グループや婦人部の白樺会が研修を行い、「生命を護る者」としての決意を新たにする。

 池田が「白樺」の友に贈ってきた数多くの言葉の中に、


  誰よりも

   賢く尊き

    白樺は

      生死の博士と

        使命よ 輝け


 という和歌がある。

さらに「白樺会ありての創価学会」とも語り、労苦の友に全幅の信頼を寄せる。

 池田とともに道なき道を切り開いてきた「生死の博士」たちの物語を、さらに辿りたい。

    「皆さんは創価学会の長女だよ」


 碑の起工式の際、皆を代表して鍬入れをしたのは古川敦恵である。東京にある国立の看護学校で教官をしていた。当日の朝、飛行機に乗って駆けつけた。

 鍬入れなどしたことがない古川は、スコップを持ったまま「どうすればいいのですか」と池田に尋ねた。池田は笑いながら「土をかければいいんだよ」と教えた。

 起工式の後にも懇談の場が持たれた。

「先生は華冠グループと白樺グループに、後輩の模範となるよう期待を込めて『皆さんは創価学会の長女だよ』『大地にしっかり根を張るんだ。一生涯、強い絆で結ばれていくんだよ』と励ましていただきました。


 古川の両親は戦争中、満州(現在の中国東北部)に住み、「熊本屋」という屋号で材木業などを手がけていた。現地で200人ほど雇う豊かな生活は、敗戦と同時に壊れた。3歳になる古川は、両親と兄の悦満、2歳下の妹の貴志子と共に収容所へ送られた。

 収容所の食事はコーリャンばかりだったが、周囲が「熊本屋の子にコーリャンは食べさせられない」と白米を用意してくれたこともあった。

「両親が現地の人に優しく接していたからだと思います」。

収容所から解放されたが、貴志子は日本への引き揚げ船のなかで腸チフスに罹り、命を落とした。

 帰国後は熊本の津奈木町に住み、一家は魚屋を営んだ。八代海の見える家だった。6歳の夏、古川は兄の悦満たちと海水浴に行った。夢中で遊んでいて、兄がいなくなったことにきづかなかった。「あんちゃんが上がってこねえぞ」と叫ぶ声が聞こえた。引き揚げられた時には、すでに手遅れだった。

 兄の葬儀の後も、家からは以前と変わらず海が見えた。

「父が号泣する姿を初めて見ました。5年後、引っ越した先で、両親は日雇いの仕事をして生計を立てるようになりました」。


 古川は小学五年生のころから、共働きの両親に代わって家事のほとんどを担い、生まれたばかりの末っ子をおぶって小学校に通った。中学の三年間は、もう一人の弟も連れて通学した。一日も休まなかった。

 中学の担任から「君は看護の仕事が向いているのではないか」と勧められた。「学校の先生になりたかったのですが、家計を支えながら勉強できる看護の道を選んだ」という古川は、苦学を重ね、数十倍の競争率を突破して熊本県内の准看護学校に進んだ。

 古川が看護学生として初めて赴任した先は、ハンセン病の療養所だった。

「一生懸命やっているのに、なかなかうまくいかない」。

無力感にさいなまれた。「あの時の自分は、ただ働くだけの、白衣を着た人形のようだった」と古川は振り返る。それまでは努力と信念で、経済的な壁も、進路の壁も乗り越えてきました。でも、あの時ばかりは、努力と信念だけではどうしようもない状態でした」


 「何十年も社会から完全に隔絶されている入所者の方々にとって、社会と触れる機会は医療者である私たちしかいませんでした」と古川は語る。

 未熟な私にできることなどないのではないか、と悩み続けた。准看護学校を卒業した後、進むべき道が見えなくなったこともあった。

 19歳のある日、休暇で実家に戻ると、見慣れない仏壇が置かれていた。家族は創価学会に入っていた。自分で聖教新聞や教学の本を読み、「希望の持てない自分と決別できるなら」と入会した。

 その1年後、内科の担当に。

「40代半ばの男性入所者Aさんがいました。ある時、Aさんから『古川さん、ぼくたちが生きている意味があるんじゃろか・・・・』と尋ねられたんです」

 その一言は、古川の心を激しく揺さぶった。

「衝撃でした。『(意味は)ありますよ』と口にするのが精一杯でした」。

「力をつけようと誓いました。いつの日か私の看護人生の最終章では、技術的にも、知識も、そして人間的にも最高の看護で、ハンセン病に苦しむ人たちの力になろうと決意したんです」

 函館で池田と出会った時、古川はこの誓いを胸に秘めて看護に取り組んでいた。


  「生き抜くんだ。丈夫になるんだ」


 吉田千代子は札幌の病院で結核病棟を担当していた。

「起工式の前年にも、北海道に来られた先生と懇談する機会があり、どの科で働いているのか尋ねられました。『ぼくも結核をやったんだよ』『創価学会の会長になって今年で17年だ』という言葉が印象に残っています」。

 「僕の奥さんは、看護婦であり栄養士だ。お世話になっています」

 「奥さんはぼくより信心が長いんだよ。牧口先生(=牧口常三郎初代会長)の時代からだよ」と話す池田の傍らで、妻の香峯子は微笑み、時折うなずいた。

 北海道大学の付属病院に勤めていた中川京子は、白樺の碑の起工式に間に合わなかった。

「前日は夕方で仕事が終わるはずだったのですが、急遽、同僚との交代があり、深夜勤務もすることになったんです」。

 中河は当時、北海道の白樺グループの中心者だった。夜勤を終え、池田が発つ寸前、研修道場に着いた。「よく来たね!」と励ます池田と握手を交わした後、安心したのか、どっと疲れが出た中川は思わず膝をついてしまった。重度の免疫系疾患だった。

「慢性的な全身痛みや極度の疲労感にさいなまれていました」。

池田も中川の病状について報告を受けていた。

「生きるんだ。丈夫になるんだ」。

池田の声が響いた。「頑健になるんだ。丈夫になるんだよ」と繰り返し、時折、中川の腕を支えながら、白樺を植樹した場所まで案内した。

「心のどこかで『長生きできない』と思っていました。先生から『生き抜くんだ』と厳しく言われて、ハッとしました」と中川は振り返る。

 

 小さいころから体が弱かった中川にとって、保健師や病院はいつも身近な存在だった。札幌にある准看護学校を卒業した。

「看護師として働き始めてしばらく経ったころ、ある看護師が転勤してきました。さまざまな悩みを抱えながらも、なぜか患者さんからはとても慕われている人で、彼女が学会員だったんです」。

 かつて母から「暴力宗教だと聞いているから、創価学会だけは入ってはいけないよ」と言われていた。

「でも『十界論』を聴いて目から鱗が落ちました。仏の生命が、ほかならぬ私自身の中に具わっている、という思想に感動しました」。

1968年(昭和43年)の秋、中川は学会の信仰を選んだ。


 出発間際の池田は、中川たちをともない、植樹したばかりの白樺まで歩いた。「たくさんの木々に囲まれた場所で、『陽はあまりあたらないなあ』と思った瞬間でした」。白樺の木の場所に一条の光が射し込んだ。池田が「美しいね。白樺は気品があるね」と語った。絵のような光景だった。

 「私は『いつ倒れてもいいように生きよう』と思っていましたが、後ろ向き、悲観的でした。違ったんですね。『私はこれまで、生き抜くことを本当に願っていたのか?』と自問自答しました」。そう中川は語る。

 「題目だよ。人生には題目があるんだよ」と励ましてくれた池田の言葉が、いつまでも胸に残った。中川の症状は薄紙をはぐように良くなっていった。定年退職した現在も、在宅医療と看護を陰で支えるサポーターとして働いている。


 その中川の紹介で学会に入った蛯澤美保子も、植樹に参加していた。

 「あの日は『華冠グループ』の方もいっしょに記念碑を起工しました」。

「華冠グループ」は、美容関係の仕事に携わる女子部のグループである。

 池田は起工式の前、両グループとの懇談の場で「どちらも一生の仕事で、人のためになる仕事だね」と励ました。

「先生は『華冠グループの人は、髪を切り、きれいにしてあげて、相手の喜びを引き出す。白樺グループは、つらい、苦しんでいる人を”抜苦与楽”する、苦しみを抜いて、人を楽にしてあげる仕事だ』と言われました。よく覚えています」(蛯澤)

 同席していた原田稔(会長)は語る。

「看護師の皆さんは、場合によっては医師よりも切実に、患者の生死にかかわることが多い。苦労の多い職場です。また会合の救護役員としても、常に学会員がお世話になっている。だからこそ先生は、ひときわ大事にしてこられたのだと思います」