EIKOの気まぐれ闘病日記 -46ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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    壇上の出会い


 「私たちは、白樺会、白樺グループをはじめ、陰で真剣に戦っておられる方々に、これまで以上に光を当てて、最大に宣揚すべきである」。

こう語る池田自身が、学会を支える「陰の人」に誰よりも光を当ててきた。

 新井麗子は、かつて助産の手ほどきを受けた肥田野かめのもとを訪ねたことがる。

「恩人ですから、仏法の話を教えてあげようと思いました。そうしたら肥田野さんは『私もあなたを折伏しようと思っていたのよ』と。二人とも別々の縁で学会に入っていたんです。ビックリするやら、うれしいやらでした」。

 肥田野かめは1902年(明治35年)、埼玉の所沢に生まれた。上京し、文京の小石川で産院を経営した。

「大正12年の関東大震災の被害がなかった所ゆえに、人家も人口も多く、本当に仕事も多く楽しい働きがいのある町でした」「ところが昭和20年4月13日夜から14日にかけての空襲で、町内中焼け野原と変わりました」(肥田野の手記)。

 家を焼け出され、肥田野は埼玉に戻った。戦後、もう一度上京して産院を経営しようと試みたがうまくいかず、神経痛にも苦しんだ。

「母の病と経済苦が、信心を始めた理由です」と娘の濱島ノリ子が語る。

「交通費を工面するために質屋に行くと、その質屋のおじさんにまで仏法の話をするような母でした」

 口癖のように「池田先生はあれだけ世界を回っていらして大変じゃないかしら。奥様やお子さんたちは大丈夫かしら。何か手伝えないかしら」と語っていた。ある会合の折、自宅の庭に咲いた梅の花を池田に届けたこともあった。

 いつも温厚な肥田野が、別人のように怒ったことがある。1969年(昭和44年)から70年にかけて起こった「言論問題」だった。

 「母自身、ありもしないデマを浴びることもあったようです。『先生をいじめることだけは許さない』『正義を証明する』と、心の底から怒っていました」(濱島ノリ子)

 70年の11月。日本武道館で本部幹部会がおこなわれた。この年、最悪の社会的逆風に見舞われた渦中にもかかわらず、創価学会「750万世帯」の弘教を成し遂げている。


 会長指導の途中、池田は管内の参加者を見渡して「あ、そこのおばちゃん。この壇上にいらっしゃい」と声をかけた。

 濱島ノリ子はこの日、高等部の担当者として武道館の後方に座っていた。

「どこのおばあちゃんだろう、と思いました」。その「おばあちゃん」が自分の母だとわかった時、椅子から跳び上がるほど驚いた。

 着物姿の肥田野かめは、「あなたのことですよ」と促されるまま壇上に上がり、池田のすぐ隣で緊張のあまり棒立ちになっている。

「一度も壇上などに上がったことのない私は、どうする事も出来ず・・・・・汗ばかり出まして言葉になりませんでした」(肥田野の手記)。

「よく、おいでくださいました」。池田は演壇に置いてあった、まだ使っていないおしぼりで肥田野の涙と汗を拭き、水の入ったコップを手渡し、肥田野の緊張をほぐした。万を超える参加者が、壇上の光景に相好を崩し、拍手を送った。

「まるで、言論問題で心を痛め、怒っていた日ごろの母の思いを見抜かれたかのようでした」とノリ子は振り返る。

 さらに池田は肥田野に記念品を渡し、自分の隣に座らせ、そのままスピーチを続けた。時折、横を向いて肥田野に声をかけ、いたわりながら、二十一世紀を目指す創価学会の展望を一時間半にわたって語り続けた。


 この「壇上の出会い」の時、すでに40年以上働いて「とりあげた赤ちゃんは数えきれない」という肥田野は、77歳まで助産婦として働き続けた。

 娘のノリ子は母とともに学会活動に励んだ。女子部の時代、池田との懇談会の場で聞いた「私が強いのは、皆を思う心があるからです」という池田の一言が忘れられないと語る。

 「その場で生命観についても話され『姉弟の縁は三世にわたって続く。最も深い関係だよ』教わりました」

 武道館の壇上で池田から「長生きしてくださいね」と励まされた肥田野かめは、91年の生涯を生き抜いた。2012年に完成した所沢平和会館の入り口には、池田の提案で、幹部でもなく、社会的な立場があるわけでもなく、無名の一信仰者として生涯を終えた肥田野を讃える「肥田野桜」が植わっている。






















































































皆さん、いつもありがとうございますm(__)m

今日でブログを始めてから丸4年が経ちました。

自分でもこんなに続くとは思っても見ませんでした。

この4年間で沢山の方々と出会うことがで

き、大きな心の支えになってきました。

本当にありがとうございましたm(__)m

どうぞこれからも宜しくお願いしますm(__)m





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   悲しみを乗り越えて ②


 田無の病院で助産婦として勤めていた頃、池田と間近に接したこともあった。

「夜勤明けで帰宅する前、信濃町の旧学会本部に立ち寄って題目をあげていると、突然、仏間に池田先生が来られました」。

 池田は居合わせた十数人に「皆さんご苦労様。いっしょに勤行しましょう」と声をかけ、ともに端座した。その時の池田の題目の勢いが忘れられないと新井は語る。

「体のどこからあんな力強い声が出てくるのか。ものすごい生命力を感じました」。

 結婚後も新井の身には試練が続いた。乗り越える原動力は、いつの時も題目だったという。

 「看護婦から助産婦に勤めを変えて2年後でした。私自身が初めて産んだ子どもが、出産から4時間で亡くなりました。3140㌘の男の子でした」

 白木の箱を抱きしめ、泣きながら退院した。

 医師からは二度とお産はできないと言われた、翌年、二人目の赤ちゃんを産んだ。2870㌘の、今度も男の子だった。

「しかし思い黄疸でした。小水も出ず、母乳も飲めず、4日目の夜に息をひきとりました」。

 偶然、その病院の院長が学会員だった。新井に「題目をあげましょう」と言ってくれ、亡きわが子に向けて、2時間ほど題目を贈った。早すぎる一生を終えたわが子の顔は、見事な半眼半口の穏やかな相に変わっていった。

「たった四日間でも生きたから、『誠』という名前をつけてあげて、戸籍に入れました」。


 二人めの赤ちゃんを亡くした後、夫が失踪した。その時、すでに新井は妊娠していた。

 三度目の出産である。周りからは反対されたが、どうしても産みたかった。予定日より一ヶ月半早かった。

「男の子でした。やはり強い黄疸が出ましたが、幸い、46日目に退院できました」。

 30年ほどたって、家を出た夫の消息がわかった。

「息子が夫に会いに行き、夫も学会に入りました。息子にとっては顔も見たことのない父ですが、『この信心を教えてあげたい』という一心で語ったようです」。

 若き日から信仰を支えにして、松葉杖を使わず歩けるようになった新井は、79歳まで助産師として現場に立ち続けた。取り上げた新生児の数は1万2600人を超える。

 私が取り上げた赤ちゃんに死産は一度もありませんでした。私と同じ思いを味わう患者さんが出ないように、という思いで働いてきました。言葉かけ一つで、お産の状態は変わります。生まれる瞬間まで、いつ不慮の出来事が起きるかわかりません。常に生命力を満々とたたえて、その瞬間、最も効果的に動けるように智慧が出るかどうかが大切です。だからこそ私にとって、智慧をわきたたせる唱題が大切だったのです」

 ある時、妊娠七か月で破水し、入院してきた女性がいた。5日後に陣痛が始まった。医師から、あらかじめ「産まれても小さいのであきらめてください」と告げられ、その女性は泣きながら出産に臨んだ。

 新生児はわずか960㌘だった。チアノーゼで全身が青く、手も足も動かない。「絶対に死なせてなるものか」。新井は心で祈りながら、新生児を保育器に入れ、同僚の看護婦とともに手当を尽くした。

「一時間後に手足が動き始め、泣き声も大きくなりました。一度はあきらめたその女性に『赤ちゃん、元気になりましたよ』と伝えることができました」。

 3カ月後、その女性は赤ちゃんを抱いて新井のもとを訪ねている。

「こんなに大きくなりました。新井さんと同じ『麗子』という名前をつけたんですよ。若い母親は新井に「ありがとう」「ありがとう」と繰り返した。

    悲しみを乗り越えて ①


 看護の仕事に携わる「白樺グループ」「白樺会」の人々は、創価学会のさまざまな会合に救護スタッフとして参加することが多い。そうした折々に、池田が心を砕き、ときに神経を深くすり減らしながら、悩む友を励まし、指導する様子を垣間見てきた。 

 「私が初めて救護役員に就いたのは、昭和33年の4月、戸田先生(=創価学会第二代会長)の葬儀でした。豊島公会堂の戸田先生の『金曜講義』はいつも満員で、外から一生懸命聞きました」と語る新井。学会に入る前後で、まともに働くことなど思いもよらない闘病を乗り越えてきた。


 「戦争中は、ほとんど学校に行かず、鉄工所で飛行機使う部品を旋盤で削る毎日でした」。

新井は国民学校高等科を卒業し、埼玉・所沢の役場で働き始めた。戦争が終わった2年後、妹が生まれた。

「母は自宅で出産しました。その時、分娩に立ち会った助産婦(=助産師)の肥田野かめさんを手伝ったことから、看護の道に進みました。

 肥田野から「助産師にならないか」と声をかけられた新井は、肥田野の助産院で見習いとして働きながら、看護の学校に通った。やがて看護婦として豊岡国立療養所(現・西埼玉中央病院)に勤務するが、以前から抱えていた神経痛が悪化し、あまりの痛さで椅子にも座れなくなった。

 「大学病院で仙骨のカリエスではないかと言われたのですが、コルセットをつけて治療しても治らず、半年後には脊髄、頸椎、背中の3カ所で癒着が起こり、脊髄膜炎と診断されました」

 さらなる不運に襲われた。処置中、医師が打った注射が、新井の頸椎の神経を傷つけてしまったのである。脳出血も併発し、目が覚めたら左半身が動かなくなっていた。水を飲むだけで頭が割れるように痛み、手ぬぐいで顔を拭くと針で刺されたように痛んだ。


 「3カ月後、ベットから起き上がると左右の足の長さも不揃いになっていました。医師からは『もう看護の仕事はあきらめざるをえない』と言われました。

 「谷底に突き落とされた気持ちになり、どうすることもできなかった。」という新井に、声をかけた女性の入院患者がいた。

「その方が学会員だったんです。『この信心をすれば必ず幸せになれます。私と一緒にやりましょう』と言われ、私は治らなくて元々なんだから、と信心を始めました」。1957年(昭和32年)3月のことだった。

 祈る時、まともに座れず足を投げ出していたが、気がついたらちゃんと座れるようになっていた。ひと月後、患者仲間の一人が入会した。

 歩行器をつかみ、1㍍、2㍍と歩く長さをのばした。自分で自分を励ます創価学会の信心が、リハビリの支えになった。

「担当医からは『看護婦のくせになぜ変な信心に入ったのか』と怒鳴られ、『信仰を続けるならすぐ退院しろ。入院していたいなら信心をやめろ』と脅されました」。

 2か月後に退院。両親も信心を始めた。松葉杖をついて折伏に歩くと「あなたの足が治ったら学会に入ってあげてもいい」となじられ、頭から塩をかけられたこともあった。

 入会から100日が過ぎたことには、松葉杖を使わず、父の肩をかりて座談会に歩いて行けるまでに回復した。たどり着いた座談会場で「自分の足で歩いて参加できました」とそのままの喜びを語った。

「やがて東京の田無の病院で働けるようになり、社会復帰できたんです」