悲しみを乗り越えて ①
看護の仕事に携わる「白樺グループ」「白樺会」の人々は、創価学会のさまざまな会合に救護スタッフとして参加することが多い。そうした折々に、池田が心を砕き、ときに神経を深くすり減らしながら、悩む友を励まし、指導する様子を垣間見てきた。
「私が初めて救護役員に就いたのは、昭和33年の4月、戸田先生(=創価学会第二代会長)の葬儀でした。豊島公会堂の戸田先生の『金曜講義』はいつも満員で、外から一生懸命聞きました」と語る新井。学会に入る前後で、まともに働くことなど思いもよらない闘病を乗り越えてきた。
「戦争中は、ほとんど学校に行かず、鉄工所で飛行機使う部品を旋盤で削る毎日でした」。
新井は国民学校高等科を卒業し、埼玉・所沢の役場で働き始めた。戦争が終わった2年後、妹が生まれた。
「母は自宅で出産しました。その時、分娩に立ち会った助産婦(=助産師)の肥田野かめさんを手伝ったことから、看護の道に進みました。
肥田野から「助産師にならないか」と声をかけられた新井は、肥田野の助産院で見習いとして働きながら、看護の学校に通った。やがて看護婦として豊岡国立療養所(現・西埼玉中央病院)に勤務するが、以前から抱えていた神経痛が悪化し、あまりの痛さで椅子にも座れなくなった。
「大学病院で仙骨のカリエスではないかと言われたのですが、コルセットをつけて治療しても治らず、半年後には脊髄、頸椎、背中の3カ所で癒着が起こり、脊髄膜炎と診断されました」
さらなる不運に襲われた。処置中、医師が打った注射が、新井の頸椎の神経を傷つけてしまったのである。脳出血も併発し、目が覚めたら左半身が動かなくなっていた。水を飲むだけで頭が割れるように痛み、手ぬぐいで顔を拭くと針で刺されたように痛んだ。
「3カ月後、ベットから起き上がると左右の足の長さも不揃いになっていました。医師からは『もう看護の仕事はあきらめざるをえない』と言われました。
「谷底に突き落とされた気持ちになり、どうすることもできなかった。」という新井に、声をかけた女性の入院患者がいた。
「その方が学会員だったんです。『この信心をすれば必ず幸せになれます。私と一緒にやりましょう』と言われ、私は治らなくて元々なんだから、と信心を始めました」。1957年(昭和32年)3月のことだった。
祈る時、まともに座れず足を投げ出していたが、気がついたらちゃんと座れるようになっていた。ひと月後、患者仲間の一人が入会した。
歩行器をつかみ、1㍍、2㍍と歩く長さをのばした。自分で自分を励ます創価学会の信心が、リハビリの支えになった。
「担当医からは『看護婦のくせになぜ変な信心に入ったのか』と怒鳴られ、『信仰を続けるならすぐ退院しろ。入院していたいなら信心をやめろ』と脅されました」。
2か月後に退院。両親も信心を始めた。松葉杖をついて折伏に歩くと「あなたの足が治ったら学会に入ってあげてもいい」となじられ、頭から塩をかけられたこともあった。
入会から100日が過ぎたことには、松葉杖を使わず、父の肩をかりて座談会に歩いて行けるまでに回復した。たどり着いた座談会場で「自分の足で歩いて参加できました」とそのままの喜びを語った。
「やがて東京の田無の病院で働けるようになり、社会復帰できたんです」