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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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    「灯台の光」を求めて ①


 林真理子こも、此の日、神奈川文化会館前の階段を上がったところで池田に出迎えられた一人である。

 「看護婦になったのは、小学生の時にナイチンゲールの伝記を読んだのがきっかけです」

 父の興太郎は樺太(現・サハリン)で建設会社を営んでいたが、敗戦後、秋田の雄物川町(現・横手市)に戻った。家計が苦しいなか、仕事先でたまたま学会の雑誌である「大白蓮華」を読み、入会した。1959年(昭和34年)のことだった。

 中学を卒業し、15歳で上京した林は、都内の病院で働きながら准看護学校、定時制高校で学んだ。30歳から茨城の看護学校の教壇に立った。

「折に触れて、先生が白樺グループに語ってくださる看護の精神や、ナイチンゲールの言葉などを学生に紹介してきました」。

 ───ナイチンゲールは、人間の生命力を信じ切っていた。そこに彼女の秘密があった。だから彼女がこう言ったとき、その言葉に彼女の全人生が込められていたのである。

 「『あきらめる』という言葉は、私の辞書にはありません」

 希望!看護師さんの、動き続ける手に、指に、希望という大きな大きな宝石が輝いている──

 ───絶望という暗い穴が心にできると、その穴の中に、人間の生命力は、どんどん吸い込まれて消えてしまう。だから、病気の人を、逆境にある人を、放っておいてはいけない。忘れてはいけない。

「私は、あなたが元気になるのを、心から願っています」という思いを、たゆまず、静かに、伝え続けなければならない。

 何もしないのは、「あなたのことなど、どうでもいい」というメッセージを送ることになるからだ。──

 「こうした先生の文章を読んだある学生から、『自分は看護師に向いていないと思うようになっていました。でもこの言葉を読んで、看護師をやめることをやめました。いい言葉なので母にも読ませました』と言われたこともあります。

 

 神奈川文化会館の玄関先で「よく来たね」と出迎えた池田に、「白樺です」と答えた林は、池田と香峯子が次々と握手し、記念撮影を準備し、会員を励まし続ける姿に間近に接し続けた。

「辞任の直後でしたが、私たちを温かく包んでくださいました。あのとき咄嗟に、小説『人間革命』で描かれている、戸田先生が『君の師匠は、僕だよ』と語る場面を思い出しました」

 林の脳裏に浮かんだ『人間革命』の一場面──1950年(昭和25年)、創価学会の理事長を辞任に追い込まれた戸田城聖に対して、山本伸一(=小説中の池田)が質問を投げかけるくだりである(第四巻「怒涛」の章)。

 初代会長の牧口常三郎が獄死した後、弟子の戸田城聖は理事長として学会の再建に全力を尽くしていた。しかし、自身の事業難に直面し、理事長を辞任せざるをえなくなる。

「彼(=山本伸一)には、戸田城聖のいない学会を考えることはできなかった。まさしく、学会は戸田の生命であり、戸田は学会それ自体であったのだ」(『池田大作全集』第一四五巻)

 理事長を辞任した直後の戸田に、山本伸一は問いかける。私の師匠は戸田先生ではなくなるのか、と。

 「『いや、それは違う!苦労ばかりかけてしまう師匠だが、君の師匠は僕だよ』

 戸田からは、明確な言葉がはね返ってきた。この一言を、伸一は、全生命で知りたかったし、答えてもらいたかったのである」

 山本伸一は「先生と自分との姉弟の一線が狂わないならば、何が起きようと、かまったことではない」と納得し、難局に立ち向かっていく。

 「君の師匠は、ぼくだよ」という戸田の一言は、伸一にとって暗い海に浮かぶ「灯台の光」となった──。

   なくてはならない人に

 吉岡眞理子は小学5年の時、父を破傷風で亡くした。

「母は、私たち子ども5人と祖父母を抱え、必死に働きました。その姿を見て、きっと手に職を持って、社会に役立つ仕事をしようと心に決め、看護婦を志しました」。

 職場からの派遣でタイに赴き、カンボジア難民の看護に3ヶ月携わった経験もある。

「昭和51年の秋でした。深夜勤務が朝の8時半に終わった後、聖教新聞社の出版センターに行って本棚を眺めていたら、先生が入ってこられたんです。ビックリしました。その場には山形から来たという男子部の方も居合わせていて、先生は肩をたたいて励ましておられました」

 吉岡は池田と握手した後、「白樺です」と伝えた。「病院はどこ?」と尋ねられ、東京医科歯科大学病院で働いていることを告げた。池田は吉岡に「そこで『なくてはならない人』です。また、そうなっていきなさい」と励ました。

 私は先生に、かつて弘教した友人がその後、仏法から遠ざかってしまい、そのことに心を痛めています、と伝えました」。じっくり話を聞いた池田は「折伏したこと時代が慈悲なんだよ」と答えた。さらに「もっと堂々と、毅然としなさい」「そうなれるよう祈るんだよ」と力強く諭し、帰り際には「白樺のみんなによろしくね。また会おうね」と約束した。

 

 この約束が3年後、神奈川で実現した。

「懇談の場で先生から『毎年毎年、幸せな姿を見せてください』と言われたことが忘れられません」。

 学会に対する理不尽な攻撃の真っ只中で行われた、神奈川文化会館での懇談会。白樺グループの人々は、「先生がピアノを弾いてくださったことを覚えている」と振り返る。

 当時、宗門の圧力によって、学会の中では「師弟」を口にすることすらできず、池田の行動も指導も聖教新聞でほとんど報道されないという異常な状態を強いられていた。白樺、華冠両グループとの懇談の場で池田は、せめてもの励ましになれば、と「荒城の月」や「厚田村」「熱原の三烈士」などを弾き、「無言の励まし」を贈ったのである。

 浜田寿美は「先生から、亡き母の名前を書いた色紙をいただいたこともあります」と振り返る。親を亡くしてメンバーへの激励だった。

 「母は、私が小学6年生の時に命を落としました。私は学生時代に学会に入ったので、叶わぬことなのですが、母に信心を教えてあげられなかったことをずっと気にしていました。でもあの日以来、心が軽くなりました。先生はこういう思いの人にまで、なんとかして励ましたい、と手を伸ばしてくださるひとなのだと思います」

     「私は元気だよ」


 「私自身、第三代会長を辞任した際、学会本部に私の指揮を執るべき席はなく、小さな管理者室で執務を続けたこともあった」(2008年6月23日付「聖教新聞」)

 そのとき池田を誰よりも支えたのは、池田が常々「わが家の看護婦です」と語ってきた、妻の香峯子だった。

 「この嵐の渦中にも、私の妻は、明るい笑顔で、『これからは、今までお会いできなかった同志の皆さんのお宅に行けますね。海外の皆さんともお会いできますね』と言って支えてくれた」「『あなたが戸田先生に命を捧げて、学会をここまで大きくしたことは、だれよりも、私が存じ上げています。御本尊様が、すべて見通しておられます』と語ったこともあった」(同)


 池田は東京の立川文化会館や巣鴨の東京戸田記念講堂、神奈川文化会館などを拠点にして、それまでなかなか会えなかった同志と会い、励ましの手を打ち続けた。

 白樺グループの代表との懇談も、神奈川文化会館で行われた(1979年5月22日)。「華冠グループ」(美容関係の仕事に携わる女子部の集まり)の代表も、ともに集った。その場に参加した人々の証言からは、「姉弟」を断ち切ろうとする時流に流されなかた人々の姿が浮かび上がる。


 この日参加した小島明子は池田の会長辞任をテレビ報道で知った。

「神奈川文化会館での懇談会は、あの絶対に忘れることのできない会長辞任からひと月後でした。玄関前で先生が大きく手を広げて迎えてくださいました」

 池田にとって、日蓮の思想を世界に広め、「人間のための宗教」の時代を切り開く途上である。どのような迫害にも動ずることはなかった。

 染谷美貴恵は当時、都内の病院に勤めていた。

「あの日は夜勤明けで駆けつけました。お元気な先生にお会いしたいと祈っていました」

 姉の古川敦恵に勧められ、看護婦を目指した。

「貧しい実家でした。我が家だけでなく、明日食べるお米もないような学会員の人たちが、他人の幸せのために歩く姿を見て、子ども心に感動したことを覚えています」。

高校時代、女子部の先輩から聞いた「青春時代とは『悩み』の異名だ」「この信心に一切の無駄はない」という池田の言葉をきっかけにして、信仰を深めていった。

 神奈川文化会館に近づくと、まず妻の香峯子の姿が見えた。すぐ池田の姿も見えた。小走りに駆け寄った染谷たちに池田は「久しぶりだね」「一緒に写真を撮ろう」と声をかけた。

「私は握手した後、『先生、お元気ですか』と尋ねました。ずっと気になっていたことでした」。池田は「私は元気だよ。みんなもしっかり祈るんだよ」と答えた。


  「私の心は血の涙で濡れた」


 「池田先生が会長を辞任される前年、立川文化会館での一瞬の出会いが私の原点です)と語る白樺会のメンバーがいる。

 冬の日だった。1978年(昭和53年)2月、信越方面の男子部が、東京の立川文化会館に集った。この日、池田は信越男子部の代表に、


 「平地順風なれども


 山頂は常に嵐なり」


 と認めた色紙を贈っている。「山頂は常に嵐なり」の一言は、池田自身を取り巻く状況そのものだった。

 「私はあの日、信越の方々が到達するロビーで整理、誘導する役員でした。参加者が会場に入りきった後、不意に先生がロビーに来られました」

 緊張しながら、彼女は「都立病院で看護婦をしています」と伝えた。

「じつは、もう仕事を辞めたいと思っていたんです」と振り返る。

 看護婦として働き始めて2年目だった。人のために役立ちたいと思い、看護の道に進んだが、患者が亡くなる現場を次々と目にして、無力感に苛まれた。

「どれだけ努力しても、手の指を間からポロポロと命がこぼれていく」ように感じていた。

 池田は「そうか」と言った。そして彼女を見つめ、しばらく間を置いた後、「看護婦という職業は、大変だけど、大切な仕事だから、辞めてはいけないよ」と励まし、信越の男子部が待つ会場へ向かった。

 「心底、驚きました。私は辞めようかと思っていましたが、『辞めたい』とは一言も言っていないんです。あの時、『看護婦として、先生との誓いを果たそう』と心に決めました」。彼女は今、千葉県内の総合病院で看護師長として奮闘している。

 この78年(同53年)の6月、函館研修道場に「白樺の碑」が起工されたことには前号で触れた。

「起工式のひと月余り後、信濃町で白樺グループの会合があったのですが、先生から連絡があり、皆で当時の創価婦人会館に集まりました」(柳澤ハシエ)。

 池田と妻の香峯子が待っていた。300人ほどの白樺グループとともに勤行し、「皆さんには、いつも救護でお世話になっているので、いつか直接お礼を申し上げたかった」と語っている。

 そして懇談の後、池田は「今日は私が皆さんを見送ります」と言い、参加者全員が会館を後にするまで、香峯子と二人で見送った。


 翌79年(同54年)4月24日、池田は第三代会長の辞任を発表する。

「背後には、悪辣なる宗門(=日蓮正宗)の権力があり、その宗門と結託した反逆の退転者たちの、ありとあらゆる学会攻撃があった。なかんずく、私を破壊させようとした、言語に絶する謀略と弾圧であった」

 「私の心中では、ただ一身に泥をかぶり、会長を辞める気持ちで固まっていった」(『池田大作全集』第129巻) 

 池田が自ら「畜生のごとき坊主らの弾圧による、わが友たちの苦悩を、悲鳴を、怒涛の声を聞くたびに、私の心は血の涙に濡れた。心痛に、夜も眠れなかった」(同)と綴るほどの過酷な日々だった。

 花岡徳子は、池田の会長辞任を知った時のショックを「時が止まったように感じた」と語る。「しばらくして、『今の状況はおかしい』と気づきました」。

 その年の夏、白樺グループの有志で、大石寺の行事に集まる人々の救護を担当した。

 「あの日は暑さで調子を崩す法華講員が多く、私たちは先生と学会に対する冷たい視線を感じながら、必死で看護にあたっていました。宗門の発展のために先生と学会がどれだけ誠意を尽くしても、宗門の中には、僧俗差別(出家と在家との間の差別)にとらわれ、醜い姿をさらす人々がいたのです。先生はよく『私が傘になって皆を守っているんだよ』とおっしゃいます。そのとおりだと痛感した一日でした」

 会長辞任は、池田にとって闘いの「終わり」ではなく、新しい戦いの「始まり」になった。