EIKOの気まぐれ闘病日記 -44ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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    「今日からは違う」


 「ただいま!」と言って池田が関西文化会館を訪れたのは翌81年(昭和56年)の3月12日である。アメリカ、パナマ、メキシコでの約一ヶ月にわたる諸行事経て、その足で関西に直行した。この時も京阪地域や尼崎、関西女子学園(当時)などで行事が目白押しだった。

 19日には関西文化会館で「聖教新聞」創刊30周年の祝賀会が行われ、約1000人の来賓を池田が自ら出迎え、記念行事の陣頭指揮をとった。行事を支える役員に声をかけて回り、救護室にも立ち寄った池田に、宮本美智子が父親のことについて質問したのはこの日である。

 「思いがけない機会でした」。宮本はその場に居合わせたメンバーのうち最年少だった。

「看護婦として働き始めてまだ3年目の24歳でした」。

出身地を聞かれ、「大分です」と答えた。「大分か」。池田は「大分はいいところだよ。もう長い間、行ってあげてないな」と言った。「第一次宗門事件」の渦中、大分は「衣の権威」を振りかざす僧らの横暴によって、甚大な被害を被っていた。池田は「かわいそうだ」と静かに繰り返した。この年の暮れ、13年半ぶりに大分を訪れている(『民衆こそ王者』第三巻)。

 「さらに『ご両親は元気?』と尋ねられ、思わず悩みを打ち明けました」。

大阪の看護学校時代に信心を始めた宮本は、実家に帰るたびに両親に仏法の話をしていた。

 「家で信心しているのは私一人です。両親が理解してくれません」。とくに父が批判的だと告げる宮本に、池田は「お父さんが信心していなくてもいいんだよ。信心の話をしなくていいよ」と諭した。「いい娘になるんだ。両親にとっていい娘に成長していけばいいんだ。それでわかってくれるから」。

 かんで含めるように池田は続けた。「家族の中で一人、信心を始めた人は、深い信仰ができるよ。私がそうだったから。お父さんやお姉さんがなんと言ってもやり抜きなさい。絶対に退転だけはしてはいけないよ。君は、やればすごい力が出る子だ。今まで頑張ろうと思ったり、やっぱりだめだと思ったり、信心にいろんな波があった。だけども、それは今日までだよ。今日からは違うよ」。

 池田は「今日はもう、来賓400人に会ってきたよ」と言い、さあ行こう、と部屋を後にした。


 宮本はその日の夜、大分に住む両親に電話し、池田から「親にとっていい娘になりなさい」「信心の話をする必要はない」と言われたことを伝えた。

「その日から、両親の学会に対する見方が変わり始めました」。

 6年後、大阪の日赤病院で働いていた宮本は、卵巣がんで入院することになる。

「子宮と卵巣の両方をとることになり、祈り抜いて手術に臨みました。術後、医師が首をかしげているので、ああ、失敗したかと思ったのですが・・・・・・」。

 信じられない一言を医師から聞いた。「がんが見つからない」という。執刀した医師は困り顔で「エコーにもCTスキャンにも映っているのに、おなかを切ったらどこにも見当たらないんです」と告げた。

 想像もしていない結果にいちばん喜んだのは宮本の母、良子だった。手術前、真剣に祈る宮本の様子を見守っていた良子は「あなたの分まで祈ってあげるから」と言い、初めて題目を唱えた。

「私の手術をきっかけに、母は入会しました。母が亡くなる前には、あれだけ反対していた父も一緒に題目をあげるようになってくれました」。

   「負けちゃいけない」 


 池田は第三代会長を辞任した後、初の海外訪問となった第五次訪中から、長崎、福岡を経て、5月2日に大阪入りした。当時は「第一次宗門事件」の渦中にあり、宗門(=日蓮正宗)の圧力によって池田の国内での行動は聖教新聞でもほとんど報道されなかった。

 九州、関西、中部と駆け抜けた約二週間、着実に、休みなく、直接会い続けた同志の数は優に10万人を超える。彼らの笑顔が「反転攻勢」の旗印になった(『民衆こそ王者』第一巻)。

 すべての行事の無事故を陰で支える救護役員にも、むしろ陰の存在であるからこそ、池田は丁寧に光をあて続けた。

 「あの日は『かすみ草』が気になっていました」と西岡峰子は述懐する。皆が念願してきた池田の来阪である。救護室を彩るために白樺グループでかすみ草を用意したが、会館の引っ越しや相次ぐ行事で物品の移動が激しく、いいサイズの花瓶がどうしても見当たらない。シンプルなデザインの大きなグラスに生けた。

 救護室を訪れた池田が、かすみ草に気づいた。「きれいだなあ」と言われ、白樺グループの面々は驚いた。「この花を生けてくださった方の心がわかる。きれいだ」「落ち着くね。ここなら仕事も捗るだろうね」。さりげない一言が今も耳朶に残っていると語る西岡。前年に結婚しており、本部職員を退職する旨を伝えると、池田は「何があっても負けちゃいけないよ」と励ました。

 「『白樺』の人はえらいね」。救護スタッフにも池田は気さくに声をかけ、懇談を重ねた。「あの壁には絵を飾ったほうがいいね」。救護室を訪れた人がより落ち着けるようにアドバイスすることもあった。「学校は?」と尋ねられた亀田陸子は、大阪逓信病院(当時)付属の看護学校を卒業し、同院で働いていると告げた。「ベテランだね。人の命を預かる大切な仕事だ」。

 

 亀田には17歳年上の兄がいた。

「小児麻痺で、やがて糖尿病から失明し、私が高校2年生の時に亡くなりました。兄の存在は父が学会に入るきっかけになったんです」。

父の春治は戦争中、神戸の家を空襲で失い、実家のある岡山に帰ってきた。先妻を亡くし、再婚したヒサエとの間に陸子が生まれた。

 「最初は父が学会に入りましたが、私が中学生の頃、女子高等部の先輩が、遠く離れたわが家までバスを乗り継いで来られました。親身に相談に乗ってくれて、それから私も勤行を始めました」。

亀田は夏季講習会や高等部総会で池田の指導に触れ、信仰を深めていく。

「大学に行って、人のためになる仕事をしたい」と思い、自立できる看護婦(=現在の看護師)の道を選んだ。


 池田が第五次訪中から帰国し、休みなく働いた期間、臨時の会合を含め、関西で7万人から8万人、中部で5万人から6万人が集った。「予定外の記念撮影」の数は、記録されているだけでじつに300回を数える。会館の中でも外でも、同志がいればそこに語らいの輪が生まれた。

 「どんな人でも、何百人と握手し続ければ手が腫れてきます。声をかけ続ければ、のども痛めます。直前に訪問された中国では、乾燥した場所も多かったそうです」(亀田陸子)

 小休止のため救護室を訪れた際、池田は同行のスタッフを促し、真っ白な色紙を用意してもらい、次々と筆を走らせた。

 「伝え聞いていた『一分一秒も無駄にしない』とはこういうことか、と感じました」。池田の激励の様子を目の当たりにした亀田陸子はその驚きを語る。

「何百人と会って激励された直後です。のどの痛みを和らげるために蒸気を吸入しながら、その場で仕事を始められるのです」。「この色紙はあの人へ」「あの人にも」と筆を止めることがなく、「さあ行こう!」と外に飛び出す。その繰り返しだった。

「休憩のために来られたのか激励するために来られたのか、わからないほどでした」(亀田)。

 「せっかく来てくれた方々だ。私が全員に会うんだ」と心に決めて臨んだ池田の激しい動きを、運営スタッフや白樺グループは随所で垣間見ている。

 「おかげでずいぶん楽になりました。だけどまた張り切ったから結局、元に戻ってしまったよ」。

池田はそう言って笑いながら、のど飴を用意してくれた白樺グループに礼を言った。小休止の合間には「脳貧血の場合、頭は上にするのか下にするのか」「心筋梗塞の時の対処は」「頭のよくなる薬はあるのか」等々、質問を重ねた。

 「声がきれいに出る薬はあるか」と問われて、亀田は咄嗟に「トローチとか、気管支拡張剤とかありますけれども、根本の響きを変える最高の薬は題目だと思います」と答えた。「今のはいい応えだね。やっぱり題目か」。池田は笑ってうなずいた。



1968年(昭和61年)、東京に続き


関西での「白樺会」結成式に池田は出席。


家族との確執や病気など、


自らの悩みを抱えながら


看護の現場で奮闘する友に、


池田は心からの感謝を寄せる。


その励ましは、大震災の被災者救援に献身する


友を支える力にもなっていく。


阪神・淡路大震災で甚大な被害を受けた神戸市長田区へ。


長田文化会館を訪問した池田は、震災の犠牲者に追善の題目を唱


へ、地元の参加者を激励した(2000年2月)


 「これからお世話になるね。よろしく!」落成間もない関西文化会館(大阪市天王寺区)の救護室に池田大作の声が響いたのは、1980年(昭和55年)5月3日のことである。約一週間、落成記念の行事が続く。地上5階、地下1階建ての同会館は多くの学会員で賑わっていた。

 「白樺グループ」として運営に携わった人々は「先生が来られるたびに、励まされることの連続だった」と振り返る。


 読者の皆さん、いつもありがとうございます

  <m(__)m>

 不定期の更新になってしまいすみません。


 今日で、「白樺」─生命を護る者(2)の連載が終わ


りました。


 次回からは「白樺」生命を護る者(3)を連載します


のでよろしくお願いします。

    「灯台の光」を求めて ②


 米田鈴子は勤務先の慶応義塾大学病院から帰宅した時、女子部の先輩からかかってきた電話で池田の会長辞任を知った。

 「急いで熊本の父に電話しました。その時、父から電話越しに聞いた言葉が忘れられません。父は『先生が会長を辞められても、たとえみんないなくなっても、俺jは先生についていくよ』と即答したのです」

 米田の父、川口透は1965年(昭和40年)、水俣支部が結成された時の初代支部長である。入会前、レンガ作りの工場を経営していたが、従業員に資金を持ち逃げされて借金がかさみ、妻と娘の病弱にも悩んだ。56年(同31年)、42歳の時に学会と巡りあった。

 「ある時、父が池田先生に直接激励されて帰ってきた時、これからは『創価学会の川口』として頑張るからな、と嬉しそうに語っていました。実際、水俣駅からタクシーに乗って、行き先が父の家だとわかると、運転手さんから『あ、創価学会の川口さんね』と言われるほどになりました」

 1992年(平成4年)、米田は父の臨終を自宅で看取った。一週間ほど、親子で最期の日々を過ごせた。子どもたちから「今世はいろいろあってご苦労さまでしたね。ところで来世は何になって生まれてくるつもりなの?」と聞かれ、川口は「広宣流布の大将たい」と答えている。「『でも、広宣流布の大将は池田先生でしょう?』と尋ねると、『そうだ、広宣流布の大将は池田先生だから、先生のすぐそばの参謀でいい』と。皆で大笑いしました」。


 米田は結婚を機に、千葉の看護学校の教員になり、28年間、看護師の育成にあたった。2012年(同24年)に退官し、翌年からあらためて大学院に入り、教育学を学んでいる。

「看護学校では技術を教えますが、『死』をめぐる思想まではなかなか教えられません。創大の看護学部からどんな学生が育つのかが楽しみです」。


 日本の各地で、また国境を超えて、『人間革命』に描かれた山本伸一のように「灯台の光」を求め、弟子の道を歩み通した人々がいた。

 弟子たちの心に応じるかのように、池田の「反転攻勢」の足跡は各地に刻まれていく。次号は、関西、東北で池田の励ましに触れた人々など、「白樺」の物語をさらに追う。