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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

   「ここでは一人も死なせない」 ①


 四ツ水の遺族を励ました5日後、池田と香峯子は兵庫の長田文化会館を訪れ、「阪神・淡路大震災」の被災者とともに追善の勤行をしている(『民衆こそ王者』第二巻)。

 関西の白樺グループ、白樺会のなかには、大震災の救援活動に携わったメンバーが多くいる。

 木下康子は当時、西宮駅に近い救急病院に勤めていた。

「震災の直後は真っ暗闇でした。懐中電灯を頼りに子ども3人と母親の無事を確かめて、学会の神戸講堂に避難させ、私は職場に向かいました」。

 木下半年前に夫を病で亡くしていた。体を震わせている長女の香奈子に言った。「お母さんは、病院に行ってくるからね。お母さんが必要とされていると思うから。だからお姉ちゃんが、みんなを守るんだよ」。8歳の香奈子は力強くうなずいてくれた。

 「その後は、何時間寝なかったのか覚えていません」。

病院は電気が途絶えていた。喉頭鏡のわずかな電球の光で患者の瞳孔を調べた。病院の駐車場に一人、また一人と遺体が増えていった。

「名古屋まで行かなければ火葬できませんでした。全壊した家に押しつぶされて亡くなった同僚もいました。地域の同志も、懸命に看護したおばあちゃんも力尽きていきました。あの時、『家に帰りたい』と嘆くおじいちゃんに、どんな言葉をかけたらよかったのか・・・・・」。

 病院で働き続けた分、自宅で生活するための水汲みができず、身を裂かれるように感じることもあった。震災から1週間後、子どもたちと母親を実家の宮崎に帰した。患者を残して帰る気にはなれなかった。最も大変な時に一緒にいてあげられなかった私のことを、子どもたちはどう思っているだろうか。徐々に町が復興していく中、それが気がかりだった。


 半年後の七夕。小学三年生の香奈子が短冊に願いを書いた。

───わたしは大きくなったらお母さんのような、かんごふになりたい───。

木下は「授業参観の時でした。本当にうれしかった」と振り返る。「長女は今、看護師として働いています。もう二人は創価大学に進学しました」。

 こうした救援活動の様子を描いた本誌連載の「阪神・淡路大震災」編(2011年1月号、2月号)を、「東日本大震災」の後、神戸の婦人部の有志が手作りの小冊子にして、東北の婦人部へ贈った。

 その「阪神・淡路」編に登場する保健師の福岡美佐子は、東日本大震災でも、岩手の山田町に赴いている。

「船が陸にあがり、家が流された跡を通って、避難所の中学校に向かいました」。

赤、青、黄の三色で彩られた垂れ幕を目にした。

「19年前の阪神の時も、震災直後の長田区に三色旗がはためいていました。どちらの被災地の光景にも強く胸を打たれました。昨日のことのように思い出します」。

    「一人」の後ろに


 「大きいなあ!」と池田がほれぼれするほど偉丈夫の男子部員が大阪にいた。関西牙城会の委員長だった四ツ水義昭である。学生時代、バレーボールの日本代表として海外遠征にも参加した。関西創価学園で体育を教えていた。

 妻の裕子のもとに、四ツ水が交通事故に遭ったという連絡が入ったのは、2000年(平成12年)2月18日の夜だった。6歳の長男、5歳の次男、生後半年の三男を残し、あまりにも突然の訃報だった。

 池田は四ツ水の死を香港で聞いた。「私は言葉を失っております。大切な愛弟子を亡くし、残念でなりません」───遺族のもとに何度も池田からの伝言が届いた。

「香港総合文化センターにて、ただちに追善回向の勤行唱題を懇ろに行わせていただきました」「生命は永遠であり、生死は不二であるが故に、尊き使命の四ツ水君が、すぐに帰り来ることを、私たちは待っております」。

 20日の葬儀に寄せた弔電には、


   あまりにも


    若き偉大な


      君帰りて


       早く還れと


         大声あげなむ

    

      今朝、追善をなしつつ 合掌


                   香港にて


  と無念を綴った。

 池田が香港から大阪入りしたのは、四ツ水の葬儀の翌日だった。

 「私は24日に行われた関西代表者会議に参加しました。あの日の出会いを生涯忘れることはありません」と裕子は振り返る。

 24日の早朝、裕子は自宅で机に向かっていた。起きてきた長男の秀樹に「なにしてんの」と聞かれ、裕子は「先生にお手紙を書いているのよ。ご心配いただいて、たくさん激励をいただいたから」と答えた。

 「ぼくも書こうかな」。6歳の秀樹は鉛筆を持った。一生懸命考え、「いけだせんせいへ せんせい いつもありがとう パパのぶんもがんばります。よつながひでき」と書き、封筒に入れた。

 その日の午後、関西文化会館に到着した裕子は、息子の分も合わせて2通の手紙を池田に届けた。裕子が驚いたのはその日の夕刻のことである。

「勤行会を終えた後、先生はスピーチの中で、関西の草創期を支えた故人の方々とともに、夫の名を挙げてくださったのです」。

池田はそのスピーチで、長時間にわたって仏法の生命観に言及し、さらに、その日の朝、6歳の四ツ水秀樹が書いた手紙への自らの返信を紹介した。

 

 ───秀樹君。大好きなお父さんは、君の心の中に生きている。大切な大切なお父さんは、お母さんの心の中に生きている。秀樹君。断じて負けるな!絶対に負けるな!お父さんは、御本尊様の中から、君を毎日見ている。直樹君のことも、伸樹君のことも、君がお父さんに代わって、お母さんと二人を守ってあげなさい───

 四ツ水裕子は「それだけで胸がいっぱいになりました。もう十分すぎるほどの激励でした」と振り返る。

 さらに励ましは続いた。スポーチの後、懇談が始まった。池田は真っ先に裕子の座っている席に向かった。「今日はあなたのために来たんだ」。そう声をかけ、葬儀を終えて間もない裕子をいたわった。

 同席していた白樺会の椎葉君子は、四ツ水の葬儀にも参列していた。

 「先生と会っている四ツ水裕子さんは一人だけれども、この人の後ろにはたくさんの似たような境遇の人がいる、先生には見えていて、その人たちに対しても話しておられる、と感じました」(椎葉)

 「先生は『負けるな』と繰り返されました。『今は楽しくしている人も、いつかは悲しいこと、つらいことがある。その時に、あなたは悠々とした境涯になっているよ』ともおっしゃいました」(四ツ水裕子)

 その様子を間近で見つめていた椎葉は「先生と奥様の『今、この人を何としても支える』という生命力をが、私たちにもひしひしと伝わってきました。その場にいたドクター部や白樺会にとっても、忘れられない瞬間です」振り返る。

 池田は妻の香峯子のほうを振り向いた。香峯子は、裕子の長男の秀樹が書いた手紙を池田に手渡した。その場で池田は、封筒の裏に書かれた「よつながひでき」の隣に、同じようにひらかなで、自分の名前を添え書きした。

 翌年の「父の日」にも、池田は小学校に通うようになった四ツ水の次男の直樹に、一つの句を贈っている。


    父の日に


     父なき子らよ


       偉くなれ

    「いまいる『現場』で」  ②


 「味噌汁とコーヒーは熱いほうがいいんだよ」。(平成2年)6月、関西文化会館の一角に笑いが広がった。「それが夫婦円満の秘訣だよ」。池田が話す横で、妻の香峯子が微笑んでいる。関西のドクター部、白樺グループの代表との懇談である。清水厚子は「なごやかな雰囲気のなかで先生は健康についての指針を話され、一つずつ私たちに確かめられました」と振り返る。3カ月後、池田はこのときの懇談をもとに、健康に生き抜くためのモットーを提案している(1990年9月、熊本)。


 一 「張りのある勤行」

 二 「無理と無駄のない生活」

 三 「献身の行動」

 四 「教養のある食生活」


の4点である(『池田大作全集』第七五巻)。

 同席していた椎場公子。

「懇談の場で先生は、現場の学会員さんを心配され、『無理と無駄のない生活が大事なんだ。みんな、大事な時に寝ないんだよ。健康が大事なんだ』とも語られました」「『信心さえしていれば病気は治る』と思いたがる人もいます。池田先生は、それは間違いだということを、聖教新聞などを通じて何度も訴えてこられました」。

 病と闘う学会員を励まし、心を砕く池田の姿に椎場は何度も接してきた。

「平成五年のことです、関西の会館管理者に吉村賢治さんという方がおられました。定期健診で血糖値がとても高く、危険な状態でしたが、私たちが何度病院に行くことを勧めても、頑として断り続けられました」。

 吉村は妻の弘子とともに、西成会館をはじめとして東住吉、西淀川などの会館管理者として長年勤めてきた。二人が関西国際友好会館(現・東成文化会館)で管理者をしていた時のことである。「ラジオ体操をしよう」。会館を訪れた池田が吉村に声をかけた。体操が終わると「散歩しよう」。並んで会館の庭を歩いた。

 「地元の人と仲良くしているかい?」「体は大丈夫?」。池田は関西に滞在中、折あるごとに吉村に声をかけ、少しずつ体調を聞いていった。

 そうしたやりとりがあったことを、椎場は後から伝え聞いた。

「驚きました。患者さんの病状は守秘義務ですから誰にも伝えません。もちろん先生もご存じではありません。医師と看護師仲間で『なんとか吉村さんの心を変えないと』と悩んでいました。しかし、先生がなぜ気づかれたのかわかりませんが、吉村さんを見つけて、懇々と話してくださったのです」。

 しばらくして吉村は、椎場の勤める関西文化会館別館の健保診療所を訪ね、「今、ちゃんと病院に通ってますねん。健康になろうと思って」と恥ずかしそうに報告した。

 吉村の妻、弘子は「先生は遠慮なく話せる雰囲気をつくってくださった」と回想する。「ラジオ体操をしながら『お酒は好きなの?』と聞かれたり、散歩しながら『君は飲んべえだな』『奥さんを大事にするんだよ』と言われたり、自然に夫から話を聞き出していただきました」。

 ある時には、池田は会館の池を見ながら「池が深いほうが鯉もよく育つ。人間もそうだよ」と吉村に語った。

「人生は価値創造だ。家でお酒を飲んで、テレビをつけているだけの浅い人生ではいけない。これが仏法の考え方だよ」。

 会館にあった床几(しようぎ)に妻の香峯子、吉村夫妻と4人で腰かけ、「奥さんの言うことを聞かないといけないよ」と諭すこともあった。

「夫が食事に気をつけるようになり、体調が回復したのはそれからです。定年まで無事に勤めあげることができました」(吉村弘子)。

 

   「いまいる『現場』で」 ①


 「私も、人々を救っていくという意味で、白樺会の一員になったつもりで、1日1日を戦ってまいります」── 「白樺会」(=看護に従事する婦人部員の集い)にかつて池田が贈ったメッセージである。白樺会は1986年(昭和61年)の3月に東京で、5月には関西で結成された。両方とも、門出の集いに池田が出席した。

 「関西の結成式で司会をしたのは大切な原点です」と語るのは、梅花女子大学教授の緒方巧である。

「当時は看護婦として大阪府立病院の手術室で働いており、全身やけどの人や包丁が刺さったままの人、ときにはヤクザの抗争で撃たれた人などが運ばれてきて、24時間以上起きていることもざらにある職場でした。あの日は大変緊張していましたが、─── どこであれ、いま自分のいる場所こそ広宣流布の労作業の『現場』である───という先生の一言はハッキリ覚えています」。

 緒方が10歳の時、父の富男は大動脈の塞栓が悪化して亡くなった。

「ある看護婦さんが、緊急手術を受ける父のために、自らの血液を献血してくださり、父は臨終の寸前までそのことを感謝していました。『人の役に立つ仕事を』という父の遺言が、看護婦を目指したきっかけです」。

 南大阪の女子部の本部長や圏女子部長として活動しながら、病院勤務を経て、結婚後は大阪医科大学附属看護専門学校の准看護教員になった。

 ある年の卒業式の翌日、教壇に花束が置かれていた。一人の学生からだった。添えられたメモには「緒方先生は話せる人でした。これからも、看護に対する自分の思いを学生たちに語ってほしいと思います」と書いてあった。最終学歴が看護学校卒だった緒方は、学生との触れ合いを重ねるなか、大学への進学を志す。

 「夫と二人の子どもたちも、理解し、協力してくれました」。

創価大学の通信教育部を経て、武庫川女子大学大学で修士号を取得。今は大阪大学の博士課程後期に在学し、月刊誌『看護教育』で協同ッ学習法を取り入れた授業展開について連載している。

 池田から思いがけない励ましの和歌が届いたこともある。その脇書には「20年前の会合 忘れまじ 益々歓喜と健康の御一家であられることを 祈りつつ」と綴られていた。「私は忘れない」という池田のメッセージが、つらい時の支えになった。

「看護の現場は厳しい生死の現場ですから、誰でも多かれ少なかれ辞めたいと思う時があると思います。そんな時、私たちは池田先生の温かい励ましと、白樺会の仲間との連帯で乗り越えてくることができました。先生が白樺会を結成してくださった意義は計り知れません」。


     生命守りし 尊き貴方よ


 「『この人生、絶対負けへん』と心に刻んだのは、高校生の時に参加した関西青年平和文化祭(1982年)でした」。

そう語る緒方由美子も、父親との確執を乗り越えた「白樺」の一人である。現在は500床を擁する総合病院で、神経内科と形成外科の混合病棟の看護師長を務めている。

 「一家で最初に学会に入ったのは父でしたが、まったく信心しておらず、母や私たち娘が叔母に折伏され、一緒に信心を始めました」。

結婚後、父は手がけた事業が失敗し、億を超える借金を抱えた。

 地元の学会員さんが『今こそ信心根本で立ち向かおう』と足を運んでくれたのですが、父は酒に逃げ、アルコール依存症になり、家庭内暴力が増え、私たちは息を潜めて暮らす毎日が始まりました。文化祭に参加したのは一番悩んでいた時でした」

 緒方は高校の授業が終わると、毎日のように練習会場の大阪城公園に通った。長居陸上競技場に池田を迎えて行われたこの文化祭は、男子部が成し遂げた「六段円塔」をはじめ、学会にとって画期的な行事となった。

 当日、会場を埋めた数万の参加者を前に、池田は「いかなる中傷・批判があったとしても、そういうことは乗り越えて、最も重大な平和への大河の一滴として、私どもは前進していかねばならない。どうか諸君、あとはよろしくお願いいたします」と訴えた。

「泣いたら見えなくなると思っても、うれしくて涙が止まらなかった」と振り返る緒方。「家から逃げ出したい」という思いと、「母をこのままにしておくことはできない」という思いの、両方を抱えたまま当日を迎えた。

「あの日の感動は今も続いています。私の原点です」。


 緒方は母から「手に職をつけないと苦労するよ」と何度も言われ、悩んだ末に看護婦の道を選んだ。

「高槻の看護学校を卒業できたのも、経済苦に負けずにこられたのも、池田先生と学会員の皆さんの励ましのおかげです」。

 看護婦になった後も、父に悩まされ続けた。緒方はどうしても「父の幸福を祈る」ことができなかった。ある日、関西文化会館別館の相談室に行き、「父のことが憎くてしかたない」と思いのたけをぶつけた。

「お父さんのことは祈らんでよろしい」と言われ、緒方は目を丸くした。

「担当幹部から『お父さんのことを祈れる自分に変えさせてください、と、自分のことを祈るんですよ』と教えられ、目から鱗が落ちました」。

 祈り方が変わると、それまで目も合わせたくなかった父と「普通の会話」ができるようになった。

「少しずつですが家族の距離が縮まり、治療のために入院させることができ、父自身も題目を唱え始め、私が結婚する前年、とうとう父は20年越しでアルコール依存症を克服しました」。「妙とは蘇生の義なり」という日蓮の言葉を肌身で感じたという。


 2006年(平成18年)緒方のもとに池田から一首の和歌が届いた。

「看護師の 凛々しき白衣の 白樺会 生命守りし 尊き貴方よ」──

緒方が病棟の看護師長に昇格したのは、和歌が届いた翌年だった。

「院内で『スタッフの離職が一番多い病棟』といわれていました。つらい状況でしたが、必死で祈りながら取り組みました」。

 1年かけて改善し、以後、新人看護師の離職はゼロになった。

「スタッフの育つ職場風土が最も整った病棟」として評価されるようになり、2013年、院内で表彰された。

「私が信頼を置いてもらえる存在になったとすれば、根本にあったのは祈りです」と語る緒方。「父がいなければ、私はここまで強くなることはできませんでした。父に感謝しています」。