「一人」の後ろに
「大きいなあ!」と池田がほれぼれするほど偉丈夫の男子部員が大阪にいた。関西牙城会の委員長だった四ツ水義昭である。学生時代、バレーボールの日本代表として海外遠征にも参加した。関西創価学園で体育を教えていた。
妻の裕子のもとに、四ツ水が交通事故に遭ったという連絡が入ったのは、2000年(平成12年)2月18日の夜だった。6歳の長男、5歳の次男、生後半年の三男を残し、あまりにも突然の訃報だった。
池田は四ツ水の死を香港で聞いた。「私は言葉を失っております。大切な愛弟子を亡くし、残念でなりません」───遺族のもとに何度も池田からの伝言が届いた。
「香港総合文化センターにて、ただちに追善回向の勤行唱題を懇ろに行わせていただきました」「生命は永遠であり、生死は不二であるが故に、尊き使命の四ツ水君が、すぐに帰り来ることを、私たちは待っております」。
20日の葬儀に寄せた弔電には、
あまりにも
若き偉大な
君帰りて
早く還れと
大声あげなむ
今朝、追善をなしつつ 合掌
香港にて
と無念を綴った。
池田が香港から大阪入りしたのは、四ツ水の葬儀の翌日だった。
「私は24日に行われた関西代表者会議に参加しました。あの日の出会いを生涯忘れることはありません」と裕子は振り返る。
24日の早朝、裕子は自宅で机に向かっていた。起きてきた長男の秀樹に「なにしてんの」と聞かれ、裕子は「先生にお手紙を書いているのよ。ご心配いただいて、たくさん激励をいただいたから」と答えた。
「ぼくも書こうかな」。6歳の秀樹は鉛筆を持った。一生懸命考え、「いけだせんせいへ せんせい いつもありがとう パパのぶんもがんばります。よつながひでき」と書き、封筒に入れた。
その日の午後、関西文化会館に到着した裕子は、息子の分も合わせて2通の手紙を池田に届けた。裕子が驚いたのはその日の夕刻のことである。
「勤行会を終えた後、先生はスピーチの中で、関西の草創期を支えた故人の方々とともに、夫の名を挙げてくださったのです」。
池田はそのスピーチで、長時間にわたって仏法の生命観に言及し、さらに、その日の朝、6歳の四ツ水秀樹が書いた手紙への自らの返信を紹介した。
───秀樹君。大好きなお父さんは、君の心の中に生きている。大切な大切なお父さんは、お母さんの心の中に生きている。秀樹君。断じて負けるな!絶対に負けるな!お父さんは、御本尊様の中から、君を毎日見ている。直樹君のことも、伸樹君のことも、君がお父さんに代わって、お母さんと二人を守ってあげなさい───
四ツ水裕子は「それだけで胸がいっぱいになりました。もう十分すぎるほどの激励でした」と振り返る。
さらに励ましは続いた。スポーチの後、懇談が始まった。池田は真っ先に裕子の座っている席に向かった。「今日はあなたのために来たんだ」。そう声をかけ、葬儀を終えて間もない裕子をいたわった。
同席していた白樺会の椎葉君子は、四ツ水の葬儀にも参列していた。
「先生と会っている四ツ水裕子さんは一人だけれども、この人の後ろにはたくさんの似たような境遇の人がいる、先生には見えていて、その人たちに対しても話しておられる、と感じました」(椎葉)
「先生は『負けるな』と繰り返されました。『今は楽しくしている人も、いつかは悲しいこと、つらいことがある。その時に、あなたは悠々とした境涯になっているよ』ともおっしゃいました」(四ツ水裕子)
その様子を間近で見つめていた椎葉は「先生と奥様の『今、この人を何としても支える』という生命力をが、私たちにもひしひしと伝わってきました。その場にいたドクター部や白樺会にとっても、忘れられない瞬間です」振り返る。
池田は妻の香峯子のほうを振り向いた。香峯子は、裕子の長男の秀樹が書いた手紙を池田に手渡した。その場で池田は、封筒の裏に書かれた「よつながひでき」の隣に、同じようにひらかなで、自分の名前を添え書きした。
翌年の「父の日」にも、池田は小学校に通うようになった四ツ水の次男の直樹に、一つの句を贈っている。
父の日に
父なき子らよ
偉くなれ